La perdita - 2/3

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 Buonasera, signore Bartolomei.
 セオは挨拶代わりにそう告げた。他人行儀にシニョーレを付けたのは、実際、義父を親しげに呼ぶ資格などないと思っているからでもあった。ノックをして開けられた扉の先には、目の下に大きなクマを作り、かつてとは随分と異なる風貌をした男であった。やつれている。頬はこけ、眼窩は落ち窪み、健康的であった肌は今ではいっそ白く、紙のようにすら見えた。
「お変わりなく」
 嫌味ではなく、あまりにも変わり果てた男を前にセオはそう告げた。そうとしか、告げられなかった。そうして男は、ああ変わりないと答えた。そして、入れとばかりにセオを家の中に招いた。差しのべられた手は、骨のように細かった。皮と骨しかない。そんな感じである。部屋は薄暗く、むっとする程に酒のにおいが充満していた。セオは微かに眉を顰める。
 一人娘を奪われ、酒におぼれた男の背は酷く曲がっている。オルガが生きていた時分では、その背筋はくっきりと伸び、矍鑠と動いていた彼だったが、今ではもうその面影は一つ残っていない。そう言えば、店はいつの間にか閉じられ、廃れた様相を通りに残し、先月には他の人間の手に渡ったようで彼女が父親から受け継いでいた花屋は影も形もなくなり、明るい店員がジェラードを売っている店になっていた。いなくなったことで、何も変わらないはずもないのだなと、その前を通り過ぎながらセオはそう感じた。
 ああお変わりないとも、と義父は皮肉も込めてセオにもう一度そう返した。セオは静かに、静かに問うた。
「ご用件は」
「死ね」
「申し訳ありません」
「お前が…ッ!お前がオルガを殺したんじゃないか…!俺の娘を!お前が!殺したんだろう!お前も死んでしまえ!」
「…オルガを殺したのは俺です。ですが、俺は死ねない」
 父親の悲痛な叫びが耳を劈く。死ねとそう呪いの言葉を吐き続ける義父からは酒の臭いがした。アンネッタはこの家で生活しているのかとセオは少しばかり心配になったが、ドン曰く、アンの世話はそれはもう甲斐甲斐しくしているようであるから問題もなかった。大切に。
 酒が投げつけられた。瓶が割れる。頭からアルコールが伝い、頬を流れて落ちた。アルコール臭い。セオはもう一度繰り返した。ご用件は、と。尤も、そう、尤も。
 もっとも。
 息を吸う。目を閉じる。目を開ける。その一挙一動が大層ゆっくりとしたものにセオは感じられた。ならば、と男の声が響いた。
「殺されてしまえ」
 知っていた。
 奥にある一室の扉が蹴破られる。黒い服を着込んだ男たちが部屋に雪崩れ込む。銃がこちらに向けられていた。セオはそれがどこのファミリーに所属する人間かも知っていた。どうして彼らがここに居るのかも知っていた。誰が手引きしたのかも知っていた。自分の目の前に立つ、死んだ妻の父親が何故自分を呼んだのかも。
 全て。
 知っていた。
 瞬きよりも速く、視界に存在する黒服の男たちを灰も残らず焼き尽くす。遠距離でも攻撃できるようになってからは、随分と掃討が楽になった。視界に入らない背後の玄関からも突入してきた男たちは太腿のホルダーに納めていた銃を、目にも止まらぬ速さで抜き放ち、感覚だけで引き金を引く。背中に目でもあるかの如く、入ってきた男たちの頭は吹っ飛んだ。どんどんどん。闇夜に重たい音が響く。誰も戸を叩かず開かずは、人々が誰よりも良くその恐ろしさを知っているからである。コーザ・ノストラの恐ろしさを、知っているからである。
 カップラーメンができるよりも速く、そこには大量に死体が作られた。とは雖も、元から部屋に潜んでいた人間は灰も残さず燃え尽きたために、綺麗なものであり、玄関から入ってきた人間は当然内側から撃たれたので、内容物を外に撒き散らすこととなる。室内は未だ随分と綺麗であった。
 セオは、バルトロメイを静かにその双眸に映し出していた。唇を噛みしめ、娘の仇を睨みつけている父親はライターを懐から取り出した。かちん、と火が付く。頭からアルコールを浴びているので、それが体に点けば人体発火ともなるだろう。火を消す術をセオは持っていない。いくら隊服が防熱の役目を果たしているとは言っても、髪にでも点けば一巻の終わりであろう。それができるとはセオは思っていない。正しくは、それをさせてやる程、セオは優しくなどなかった。そして、自分の命をどうでもよいと思っているわけでもなかった。
 はぁ、と義父の口から吐き出された息が床板に落ちる。双方どちらも未だ言葉を発さず、沈黙が落ちている。何がどうなるのか、何がどうされるのか、どう変化するのか。バルトロメイは自嘲じみた笑みを口元に刷いた。俺も、と一人称が空気を割り割く。
「俺も、殺すのか!オルガのように!」
 自暴自棄な叫び声には続きがあった。
「アンも殺すといい!皆殺してしまえ!この…ッこの、この…ッ人殺しが!殺戮者め!血に塗れた悪魔!人を人とも思わぬ、ケダモノが…!」
 人殺し。
 それは、かつてオルガにも言われた言葉だった。セオはゆるりと唇から言葉を紡ぐ。それは決定であり、覆されない断定でもあった。
「貴方が、俺を殺そうと個人で動くのであれば良かった。それであれば、俺はそれを毎回無視するだけで良かった。ですが、貴方は動いてしまった。手を結んでしまった。会談してしまった。そして、実行してしまった」
 後ろで倒れている男たちは、ボンゴレファミリーに敵対しているファミリーである。自分を殺すのであれば、ボンゴレ傘下、もしくは同盟ファミリーであっては意味がないのだろう。自分一人の力では、娘の仇は取れない。バルトロメイの考えは正しい。一般人である彼が、セオを殺すのには甚だ無理があった。不可能である。絶対的に。
 セオは一息吸って、銃口をバルトロメイへと向けた。ぴたり、とそれは少し離れた位置から眉間の間を狙い定める。
「ならば、俺は殺さなくてはならない。貴方は、踏みこんではいけない場所に足を突っ込んだ。言い訳も懺悔も後悔も悲嘆も。全ては意味がないことだ。貴方は、それを、してしまったのだから」
「殺すのか」
「殺します」
「いいとも、殺せ。オルガのようにオルガのように。お前が、俺から奪った、家族のように!」
「そうします。残念です」
 火のついたままのライターが投げられた。セオは一度引き金を引き、投げられたライターを破壊する。空中で火は消え、残骸だけが床に落ちた。その間にバルトロメイは机の上に放られていた錆びた果物ナイフを手に取る。踏み出す。投げ出す。向かう先は唯一つ。
 伸びた髪の下で、銀朱の瞳が僅かに細められた。
 ばん、と乾いた音が一発。果物ナイフを持った男の眉間には弾道が空き、そして後頭部は大きく腐ったメロンのように破裂した。まだ綺麗だった部屋に、脳漿やら頭蓋やら血液やらが飛び散る。床を汚す。目を見開いたままの男は膝から崩れ落ち、それが床に着く。ふらつき、体はどうと横に倒れた。固く握りしめられたままの果物ナイフは相変わらず強く握られているままであった。
 動いている生命体は、その部屋にはただもうセオと言う名の男しかいなかった。
 義父の遺体、否、屍をセオは見下ろす。手の中に納められている銃の質感を手袋越しに感じる。その銃を持ったままの手で、机の上に在ったガラスボールに叩きつけた。腐った果実がボールごと床に落ちる。ガラスは割れる。埃がたまっている机を蹴りつける。ひっくり返った。ひっくり返った机は、側に在った食器棚にぶつかり、その硝子戸を壊した。棚は揺れ、中に置かれていた、これもまた埃を被っていたが、それが床に落ちて行く。がしゃんがしゃんと誰も喋らない部屋に響き渡る。
 がらん、と最後の音が響いて壊れた。セオは、はぁと吐息を零す。手には傷一つついていない。今自分はどんな顔をしているのか、セオは分からなかった。それが分かるようなものは、全て割られていた。窓ガラスには日焼けしたカーテンが引かれており、見ることは叶わない。足を踏めば、ガラスを靴底が踏んだ。じゃり。それに混じって、大層頼りない泣き声が、耳に届く。閉ざされた扉の向こう。オルガの死を告げた日に閉められたカーテンの部屋。
 ああ。
 セオはそちらの部屋へと足を向ける。手袋を嵌めた手でドアノブを回し、押し開く。ベビーベッド。わんわんと泣く子供。愛しいあの人との子供。どれほど会えていなかったか、分からない。子供の成長は早い。大きくなった。
 泣きわめく子供に、セオは手袋をしたまま手を伸ばし、小さなベビーベッドから抱き上げた。ぐすぐすと鼻をすすりながら、赤子は胸に顔を寄せた。わんわんわんわん。泣き喚く。
「アン、アンネッタ」
 抱きしめた子供の重みをその腕でしっかりと感じ取る。暫く泣いて、泣きやんだ頃には赤子はすっかり寝入ってしまっていた。セオはその部屋を出る。出れば、頭を打ち抜かれたマフィオーゾの死体と、それから義父の屍が転がっていた。セオはゆっくりバルトロメイの骸に近づき、頭を軽く下げる。
 返してもらうなどと都合のいい言葉は吐かない。娘の母と祖父を殺したのだ。そんな人間が、その子を育てる資格などないかもしれない。しかし、セオは腕の中でしっかり眠ってしまっているアンネッタを抱え直す。
「俺が、育てます。責任を持って。幸せにします。必ず」
 必ず、ともう一度繰り返し、セオはその家を後にした。屍を踏み越えて行く。靴底からその感触が伝わる。それは。それは、今まで歩いてきたどの道も、同じ感触であったそれで、あった。