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携帯電話をポケットに押し込む。浅い色をした瞳を瞼の奥に隠した。
灰色の髪の男は、その体勢から微動だにしない男をじぃと二つの眼で見つめ、そして、行くのと問うた。問われた男は止めていた時間を動かして、その瞳を瞼から覗かせる。そして、答えた。ああ、と。たった二文字の返答がなされ、そして、男は本当にと問う。オウム返しのように男は本当にと返した。君は馬鹿だと返される。それに知っていると返した。
そうしてそんな、何の脈絡もない、本人たちからすれば随分と意味のある会話だったのだろうが、それが打ち切られ重たげな沈黙が二人の間に落ちる。かさり、と一匹の小さな、1cm前後の黒く、そして目立つ赤をその腹に押し付け、二本だけにょっきりと長い脚を蜘蛛が灰色の髪をした男の掌を動いた。毒蜘蛛である。しかし、男はそれに対して驚くようなこともなく、平然とその蜘蛛を見ていた。正しくは、眺めていた。視界に入れているだけなのが正しい。今現在、男の頭の中ではありとあらゆる、彼が放った蜘蛛が見ている光景が、随時終わることなく、陳腐な映画よりも安いような状態で渦巻いていた。トチ狂う様なそんな光景も男はモノともせず、ただ、悲しげな目をして、机の側に屈強な脚で立っている男を見つめていた。意識を持って、確かに見ていた。
男はその身をスーツではなく、隊服で覆っていた。暗い色が強い隊服の上に、膝下まですっぽりと覆い隠すコートを羽織る。そして、前のボタンをきっちりと閉め、前方から吹く風で揺れ動かないようにした。尤も、脚の動きを阻害しないように最後の一つだけは外してある。防弾防熱防寒まで果たしている高性能のコートは、しっかりとその大きな体を守ることだろう。太腿に巻きつけられている銃のホルダーには二丁、日頃から手入れを一切怠らぬ銃が、その弾丸の有無と不具合がないか一度確かめられ、コートを巻くし上げてすとんと落とされた。しっかりと嵌まる。人の命を奪い取る武器をコートの長い裾は隠した。机の上に置かれている白い手袋が取られる。筋の張った手をそれが覆い隠す。左手右手。両手はそれに覆われた。
がつん。がつ、がつん。
ドンはドアを横にして立っていたために、近付いて来る足音をその耳で聞く。酷く重たい音である。上げたり下げたり、彼の気ままに自由になる前髪は、本日深く下ろされている。髪は随分と切っていないのだろうか、彼の父親程に長く伸び、彩度の低い瞳に軽くかかる程になっていた。後ろ髪も、項を隠す程に伸びている。
がつん。足音が隣に並んだ。立ち止まることはなく、手袋が扉の取っ手を握る。押す。開ける。蝶番が微かに音を立てた。油を指すのを怠っていたのは一体誰か。それとも、軋んだ音を立てたのは彼の心か。ドンは視線を足元に落とす。
自分の匣が見た光景を、彼がどう受け取ったであろうか。言うに及ばない。事実しか彼は受け取らない。そして彼は事実を見、それに沿った行動を起こしただけなのである。コーザ・ノストラの一員として、暗黙の了解とも呼べるそれに従い、彼は銃を取った。相手が誰であろうとも全く関係無いのである。否、相手が彼であるからこそ、彼は銃を取る。そうでなければ、こんな瑣末、些事とも呼べる件にVARIAと言う組織の頂点に立つ男が動くはずもない。
下らない。下らなさすぎる。
扉が完全に押し広げられた。隣に在った足音は先へと進む。人間の視野は約200度と言われる。その視界から男のコートが消えた。扉がゆっくりと閉まっていく。ばたん。音を立てた。
全く世界と言うものは、非情な生き物である。
ドン・バルディは心底持って、それを知っていた。そしてそれを、改めて、思い知った。