殺戮者 - 2/2

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 椅子に括りつけられ、顔を焼け爛れさせて以前面影は影も形も残っていないオルガの体を踏みつけ、男は頭を抱えた。ざぁざぁと映像機器は砂嵐だけを知らせている。なんなんだ、と男はオルガに怒鳴りつけた。
「何なんだ!あいつは!!お前は、あいつの…ッ!あいつの何なんだ!!!」
 返事はない。もとより、返事などできる状態ではない。
 混乱をきたした頭で男は椅子に縛り付けられた女の腹を靴先で強く蹴りつける。ぐにゃり、と気持ち悪い感触を地面にこすりつけて、男は女の顔に唾を吐き付けた。
 当てが外れた。当てが外れた。こんなはずではなかった。現VARIAのボスであるセオが妻を溺愛しているという話は確かな筋の情報であった。だから、今回の誘拐を決行したのだ。生憎子供の方までは都合によって手が伸ばせなかったが、妻だけでも誘拐できれば人質の価値は十分にあると見た。だが実際はどうだ。
 男は戦慄した。
 爪を剥がれ絶叫が響いても、息も絶え絶えな姿を見せても、濃硫酸をその顔に浴びせて絶叫よりも凄まじい声を響かせても。あの男の表情は微動だにしなかった。ただその銀朱の瞳は揺るぐことなく、静かに、あまりにも静かに、だからであろう、尚より一層不気味に感じられ、画面を眺めていた。愛する者を奪われ痛めつけられて、動揺一つしない。銃口を突き付け殺すと言った時も、やめろではなく、やったところで構わないと人質を容赦なく切り捨てた。
 男は失いかけていた冷静さをさらに混乱させる。
「おま…てめぇ、本当に最低な旦那を持ったなァ。やれ、だとよ。てめぇの女が殺されかけてるってのに、やれ、だとよ…。頭イかれてんじゃねェのか。いーや、あれは絶対イかれてるね。イかれてなきゃあんなこと言えやしねェ。聞いてんのか!てめぇはな!見捨てられたんだよ!あの男に!恨むならあいつを恨めよ。俺は悪くねェからな」
 はっは、と乱れた呼吸で男は倒れ伏した女の頭に銃口を向けた。そして、引き金に力を込める。だがその瞬間、男は見た。焼け爛れ、引き攣り腫れ上がった皮膚の向こうで、小さく口が、
 笑った。
 引き金を引いた。反動が腕に伝わる。縛り付けられていた体がばくんと跳ね上がり、赤い色が、脳が、人の生命器官を司るモノが飛び散った。灰色の、彩に欠けたコンクリートの床に鮮やかさを取り戻すように、その液体と物体は千千と散らばり、欠けていた彩りを美しく映えさせた。生臭い鉄の臭いが部屋に満ちる。この部屋もそう遠くはなく、腐臭と死臭にさい悩まされることだろう。
 肩で呼吸を繰り返しながら、男は手を額に添えた。ドン!とそこで慌ただしく部下の一人が部屋の扉のノックすら忘れて駆け込んでくる。
「何だ!」
「駄目です!出られません!窓も扉も…爆薬も匣兵器も効かない!なんか…糸のようなモンが全ての窓扉、出入口を塞いでいます!」
「ば…っ、馬鹿言うんじゃねェよ!!ここの場所がそう簡単に割れるはずもねぇだろうが!逆探知阻止の電波妨害具だって設置しただろうが…!」
 何を馬鹿な、と男は報告に来た部下の胸ぐらを鷲掴もうとした。だが、その寸前で、建物が爆音と共に大きく揺れる。悲鳴と銃声。遠くに在ったそれは、次第に距離を詰めてくる。部下は恐怖で視線をぐらつかせ、胸ぐらを掴もうとしていた腕を振り払い、部屋から飛び出した。否、飛び出そうとした。だが、その姿は、一瞬で燃え尽きた。
 目を焼き尽す程の光が、視界を埋め尽くし、まるで始めから部下など居なかったかのように、消え去った。骨も灰も、生きた証一つ残さずに。
 きえた。
 男は怯えるようによろめいたが、慌てて扉を閉めて鍵を回した。がちゃんと内側から鍵を掛ける。薄い板で閉ざされたその向こうでは、地獄など生ぬるい光景が存在しているのではないかと背筋が凍りつくような怯えが走る。がちがちと腕をふるわせつつ、銃に込めた弾丸の数を確認する。数歩後退すれば、既に死人となった女が括りつけられている椅子に躓いて転げた。銃がからからと回りながら血溜を滑って行く。
「Merda!(くそ!)」
 転がっていた椅子の背もたれを蹴りつけ、四つん這いでその銃を拾い上げる。遠かった足音が、ごつんと止まった。時間が、動きを止めた。ドアノブが外側から回される。鍵を掛けてあるので、数度ガチャガチャと音がした。
 男はその間でどうにか銃を拾い上げ、音を上げる扉へと銃口を構えた。血溜、肉片の中に尻を埋め、引き金に掛けた指先の震えをどうにかして収めようとするが、どうにもならない。ドアノブが動くのを止めた。一呼吸すらも、重たく落ちる。
 はぁ。
 は、ぁ。はぁはっあ。
 喉の筋肉が引き攣りそうだった。無音の空気が全身を押し潰しそうなほどに圧し掛かってくる。化物がいる。
 そう、男は感じた。
 扉の向こうに化物がいると、男にはそう感じられた。みぢ、と蝶番が悲鳴を上げた。そして、扉は正しく押し開けられるのではなく、蹴り開けられた。反射的に悲鳴を上げながら、男は引き金を引いた。何回も何回も何回も。がちがちがちがちがち。薬莢が床に散らばる。血を跳ねさせる。とうとう弾倉が空になった。新しいモノを、とポケットを探るが、取り出したそれは、がらんと血だまりに落としてしまった。
 しかし考えてみれば、あれだけの銃弾をその身に受けたら人間は死ぬ。男はへら、と笑ったが、すぐさまその顔に恐怖を張りつけた。二つの銀朱が、暗がりの中に落ちている。がつん、と黒いブーツがコンクリートを叩いた。
「ひ…っ!」
 引き攣った悲鳴が空気を震わせる。鉄を暗く溶かしこんだような色の隊服に赤いラインを混じらせて、画面の向こうに居たはずの男はそこに立っていた。男は咄嗟に持っていた銃をセオに向かって投げた。だがそれは、当たる寸前で目が痛くなる程の炎に焦がされ、溶かされ、灰にされ、それすらも焼き尽くされ、消えた。
 銀の中に赤を混ぜた瞳が椅子に括りつけられ、血に沈んでいる女へと向けられた。その人間味のある一連の動作に、怯えていた男は、はは、と笑い声をこぼそうとした。
「ざ」
「息をするな」
 あ、と声を上げることも許さず、男は向けられた銃口に頭を喰いちぎられた。ぶしゅぢ、と腰から上が消えてなくなる。焼け焦げた下半身の切断面からは血も出なかった。ただ、反射的に脚は横に倒れ、びくんと司令塔を失った筋肉の反動だけで奇妙に動いた。
 見るも無残な、そう称するのが一番ふさわしい遺体にセオは手袋を外して触れた。指先に、凸凹の酷い腫れ上がった皮膚の感触が残る。縛られていた縄を解いた。
 焼け爛れ、面影の一つも残していない顔。後頭部には大きな穴が空いている。脳味噌の半分程は床に撒き散らされていた。爪を全て剥がれた手。鬱血した体。
「オルガ」
 コートを脱ぎ、その顔を誰にも見せないようにそっと覆い、恭しく抱え上げる。そして、最後に残った下半身を燃やし尽した。
 誰も何も、そう、何もかもが存在しないその空間の中、セオはゆっくりと、愛しい女の骸を抱え、歩いた。ゆっくり、ゆっくりと。

 

 外から見れば何の異変もない建物をドンとラジュは静かに眺めていた。
 尤も、その建物は、ドンが建物のさらに外に蜘蛛の糸で作りあげた箱にラジュが幻術で作りあげたものに他ならない。恐らく中では、凄惨、すらも極めたそれ以上の光景が繰り広げられていることであろうことはドンにも想像ができた。隣に立つ、友人の幼馴染は黙として何も語らない。ドンは先にその沈黙を破り話しかける。
 君は、と声が暗闇に落ちた。色の強い肌の中にある青い瞳がゆっくりと動き、再度の落ちた緑を見る。
「どう思う」
「どう」
「そう、どう思う?あれが、正しい行動だったのかどうか。いや、俺達の世界から見て、あれは正しい行動だったと思うけどね。そりゃ。俺達が優先させるべきは、ファミリーであって、家族ではない。そんなの、当然だけれど」
 びぃん、と何重にも張っている蜘蛛の糸が振動で震えた。直接的に炎に触れていなくても、この威力である。ドンは目を細め、中の様相を瞼の裏に想像した。友の背中しか思い浮かばない。
 一つ呼吸を置いて、続ける。
「だけれど」
 愛しい人を、その判断一つで殺した。
 ドンは、セオがどれだけオルガを愛していたのか知っている。見ているこちらが溜息をつく程に、彼は彼女を愛していた。子をなし、月に数日しか帰れずとも、彼は彼女を本当にこの上なく愛していた。大切で愛おしく慈しみ、誰よりも何よりも、愛していた。
 ラジュはその視線を外し、幻の向こう側にいる青年を思う。
「変わらない。何も」
「そんなもの?」
「そんなもの」
「そう言う人間だってのは、知ってるけどね。でもそう、そうんなもの」
 そんなもの、とドンは通信機に響いた男の声の冷たさを耳にしながら、そう、ともう一度口にし、そして糸を解いた。そこにはただ、平地しか残っていなかった。