Ты шутишь?

 その姿形は常に布越しである。
 布越しに見ない対象は常に肉片へと変じた。記憶に残る布越しではなく視界に入れたものと言えば、片手の指で足りるほどに少なかった。
 ラヴィーナは顔に掛けられている布を指先で軽く引っ張る。
 口こそ出されているが、鼻までかかるその黒い布は顔の半分を覆い隠し、少女の表情を分かりづらいものにしていた。
 この声が、目が、ヒトを壊すものであることを重々承知であったから、少女は少数の人間を覗いて己の顔を決して見ようとしないことを批難する気にはならなかったし、むしろそれを推奨すらした。
 しかし、机の向こうに座る男は少女の願いなど知った上で飄々と、いっそ愉しさすら覚えた顔で少女を彼のみが呼ぶ愛称で呼んだ。
「私のマリンカ。いつになったら私に可愛い可愛い貴女の瞳を見せて下さるのでしょうか」
 水掛け論である。
 ラヴィーナは男の言葉を拒否するように顔布を下へときつく引っ張った。それが拒絶であることは、話しかけた男が誰よりも理解していたはずであるし、それ以外の何物でもなかった。
 しかし。だがしかし。
 はは、と男は爽やかに笑ってラヴィーナの細い手首を大きな掌で掴み引き寄せた。男の行為に少女は慌てて手を顔布から放し、身を引こうと腰を浮かせた。
 しかし、手首を掴む手の力は想像以上に強く、少女の身体は机の上に引き倒される形となり、少女は体が完全に机に倒される前に手を突き唇をきつく引き結ぶと、抗議の視線を布越しに男へとやった。
 いつもであれば、少女と男の間に立ちはだかる大柄の兄は、現在任務のため、遠方へと足を運んでおりここにはいない。
 ここに至るまで一言も発しない少女に男は軽く首を傾げ、その唇を人差し指で紅を引くようになぞり、深みのある声を耳元で囁く。
「是非、貴女が放つ最初の言葉は私の名前であってください」
 マリンカ。
 マリンカ。
 男が繰り返す言葉に身をすくめ、少女は逃げるように顔を振ると、掴まれていた手首を叩き落とし、耳を塞ぐように手を置いた。心なしかその頬と耳は熱を持ち、上気していた。
 少女の初心な様子に男は満足気に笑みを深め、逃げるように後ずさった少女との距離を詰める。
 壁際までその小さな体を追い立て、男の両手で逃げ道を奪い身を寄せ、吐息が混ざり合う距離まで顔を近づける。一つ間違えば顔面が脳髄をまき散らして死に至る、恐れを知らぬ行為であった。
 少女が、ただひとつ喉から言葉を発せば、それだけで男は人ではなく肉になる。
 あまりの近さに少女は久しく味わうことのなかった恐怖に肌を泡立たせ、己の口を片手で覆い隠し、喉を引き攣らせた。厭いた片方の手で距離を取ろうと必死になって男の厚い胸板を押すものの、男はそれすらも楽しむかのように、布越しに軽く鼻を触れ合わせた。
 吐き出す息が、鼓動すらも混ざり合う。
「Не дразни меня.Я хочу знать о тебе всё(焦らさないで。貴女のことを、すべて知りたいのです)」
 男が発した言葉はラヴィーナの肌にねっとりとまとわりつく。
 掌に当たる吐息はひどく生暖かく、それだけで、人を殺してしまえそうであった。
 逃げようにも退路は断たれ、少女は途方に暮れつつ、怯えにも似た恐怖に心の臓を捩らせた。
 助けを求めるべき兄の姿はなく、通信機で助けを呼んだところで、ここに至るまで数時間は要し、その頃にはこの他愛も無い男の遊びも終わり、彼の故郷と呼ぶべき古巣へその身を晦ましていることだろう。
「マリンカ、さ」
 あ、と末尾の言葉は皮膚の色の濃い手がその口を塞いで止めた。
 布越しの、ラヴィーナは細くその見慣れた繊細な指先に安堵の息を指の合間に吐いた。
「無理強い、は、よくない」
「お会いするのは初めてでしょうか」
 視線を下げ、男はラヴィーナから距離を取ると、まるでその姿を後ろに隠すかのように、現れた男とラヴィーナの壁になった。
 ラヴィーナは顔を悲痛に歪め、現れた男、ラジュの方へと駆け寄ろうとするものの、男が壁となり、僅かな動きでそれを制した。男を押しのけるわけにもいかず、ラヴィーナはただただ途方に暮れる。
 ラジュは対面する男にひたと視線を合わせ、唇を薄く開く。
「Владислав=Даниилович=Калашников」
 完璧な発音が普段寡黙な彼からは信じられないほど流暢に流れ落ちた。
 ウラディスラフは名前を呼ばれたことで、目を細めラジュへと視線を流し、薄く笑う。
 ロシアでは、相手を呼ぶ際に苗字を使うことはなく、丁寧に相手を呼ぶ際には名前と父称を使うため、人の言葉で己の苗字を聞いたのは久しくなかった。懐かしさに唇が歪む。相手が、意図的に名前、父称、苗字を連ねたことに、ウラディスラフは牽制の意図を感じ、そしてそれは間違いではなかった。
 普段滅多に話さない男から言葉が滝のように、溢れ出る。
「ラヴィーナから、離れるといい。私はセオからラヴィーナの安全を保持するよう頼まれている。こと、セオの不在時と貴方の来訪が重なった場合はなおさら」
 ラジュの言葉にウラディスラフは敏感に反応し、相好を崩した。そして嘲りにも近い色を含めて腹を抱えて笑う。
「頼まれた、ですか?命令ではなく」
「私はセオの友人で、ラヴィーナはセオの妹。任務ではなく、頼み。妹を心配した、兄」
「失礼、あの男からお願いなんて単語を聞くとは思いもよらず、失笑してしまいました。あれにもヒトらしい部分があったとは、まったく…驚き、」
 最後の部分は発される前に小さな両手が頬を掴み、その笑えるほど弱い力で顔の方向を無理矢理変えたことによって切断された。
 ぞくり。
 と。
 ウラディスラフは回された先の黒い顔布に得体の知れぬ、恐怖、にも似た殺意が背筋を一気に駆け上がったのを感じた。ロシアの空気とよくよく似、故郷の殺伐とした空気が脳裏を過ぎる。
 紅の刷いていない唇が動く。
 スローモーションのようであった。
 黒布がはたと空気で揺らめき、その端に切り揃えられた爪先がかかる。意図的に、顔布が持ち上げられようとしている。映画のワンシーンのように。鼻筋が、頬骨が、下睫毛が。
 淡い、茶色の。
「ラヴィーナ」
 駄目、とウラディスラフの下げられた顔の横から色黒の手が伸び、顔布に掛けられたラヴィーナの手首を押さえた。
 ラジュは再度繰り返す。
「いけない。セオと約束。ラヴィーナ、自分の立場が悪くなるだけ。他の何をしてもお前を庇う。でも、それは、庇えない。セオはそう言った」
 一拍呼吸を置き、ラヴィーナの手から力が抜けたのを確認後、ラジュは手を放すとウラディスラフとラヴィーナの間に滑り込み、ウラディスラフの胸を軽く押して距離を取った。
「貴方は賢い。私はセオから自衛のための攻撃を制限はあるものの許可されている」
「私を、脅しているのですか」
「私の特技は薬。ラヴィーナは私と同じ。貴方は違う。今日、私は貴方の連れを町で見ている。貴方が少しシェスタしても、連れ帰ってくれる人は、いる」
「Понятно(成程)」
 ウラディスラフはラジュがロシア語を解すると判断し、さらりと母国語を零す。
 ラジュはそれに対し、相手がイタリア語を解することをセオから聞き及び知っているため、イタリア語、それも強めの口調で、ラジュにしては珍しく相手を威嚇するかのように語気を強めた。
「Sei sordo(理解しているか)?」
「そう、仰るのであれば仕方ない。まるで私が強姦魔のようではないですか。全く、善良な一ロシア国民をこのように扱うのは頂けませんよ、」
 最後に言い澱んだため、ラジュは再度口を開いて名乗る。
「ラジュ」
「ファーストネームは」
「ラジュ、それだけ」
「…覚えておきましょう、ラジュ。私は人前で、それも身内以外の人間の前で転寝姿を披露するような迂闊な真似はしないようにしています。どうぞ、貴方がなさろうとしていることはやめて頂きたい」
「貴方次第」
 下がれと、出ていけと言外にラジュはウラディスラフに言葉を突きつけ、ウラディスラフはそれに対し、肩を竦めて分かりましたと二人に背を向け、大人しく部屋を、ラヴィーナの部屋から退出した。
 扉が閉まり、ラジュは身を縮こまらせているラヴィーナへと視線をやると、口をへの字に曲げた。尤も、その変化は微々たるもので、瞬きの少ない深い深い青色の瞳からラヴィーナは代わりに視線を逃げるように逸らす。
「ラヴィーナ」
 どこか少女の迂闊さを責める声音がラジュの口から発される。
 自室に、兄の友人と二人になり、ラヴィーナはひどく申し訳なさ気に首を下げた。ウラディスラフという男がラヴィーナの自室に入ってしまったのは、正しくは間抜けにも入れてしまったのは、男の甘言に乗せられたからに他ならない。
 ラヴィーナはウラディスラフが自室を訪れた際の発言を思い出しながら、自分自身の迂闊さに辟易した。
 男の、ロシアの猟犬の言葉が、ただ、ただ。
 嬉しい、などと。
 その身を、背筋を打ちふるわせるほどに、嬉しかったなどと。言えはしない。
 黙りこくった、正しくは唇を引き絞り、悔やんだ表情を見せる少女の頭にラジュは細い指を乗せ、軽く髪の毛をかきまぜた。彼の中で言葉を選び、溜息交じりに発する。
「不注意、気を許してはいけない。ウラディスラフは危険な男。私もセオと同意見。危険。とても。ラヴィーナにとって、彼の言葉は優しいと思う。でも、全てを鵜呑みにするのはよくない」
 手痛いほどの忠告をラヴィーナは両肩を竦めて受ける。
 ラジュの言葉の真意も、その心配も、優しさも理解はしていたが、それでも、心のほんの片隅で、それはひどく小さな小さな本当に小さくて、気を付けなければ見過ごしてしまいそうなほど小さな感情であったそれに、ラヴィーナはどうしようもない程の心の揺らぎを覚えた。
 そしてラジュもまた、ラヴィーナの戸惑いを覚えた僅かな空気の変化を感じ取った。それは、彼女の兄であれば気付かないほど、小さなものであった。
「好き」
 男の発した言葉に少女は顔を跳ね上げ、耳まで真っ赤に染め上げる。
 ああそんなことはないのだと、否定するための文字を書くための手は大層ふるえて意味をなさない。
 自身の感情に名前をうまくつけられない少女に対し、男は再度同じ言葉を繰り返した。
「すき」
 ふるりと小柄な頭が茶色の髪を持って揺れる。深い青色の目はその光景を見、そっと目を伏せた。
 相手が悪い。
 単純にそんな感情を抱かずにはいられなかった。ラジュはそう思う。相手があの男でなければ手放しでの祝福も可能であったのに。当の本人は僅かに芽生えたその感情にただただ戸惑いを覚えているようだが、いつかやがてはそれを胸に秘めることになるに違いない。
 哀れな。
 余程運が良くなければ、あの男との恋愛はかなわないことだろう。ラジュはそう確信していた。そもそも、そもそもの話。
「ウラディスラフ」
 そこまで、名前を挙げて、ラジュは言葉を止めた。憚った。
 あの男の本性、ラヴィーナのことなど遊びにしか過ぎないという事実を、本人に告げるのをラジュは意図的にやめた。告げてもよかったが、淡い、淡いそれである。弄ばれこそすれ、利用されることはない。
 何故ならば、ラヴィーナはVARIAだからである。彼女がその本質を見失うことはありえない。
 それであるならば、これ以上は余計な忠告というものである。
 ラジュはラヴィーナの頭を再度撫で、一二度確かに頷く。ラヴィーナと言えば、ラジュが頷いた意味が理解できないまま、ただおたつくだけであった。
 しかしそれでもよいのだとラジュは再度、今度は少し深めに頷いた。

 

 街中を歩きながら、酒瓶の底を宙へと向け、中の酒を一気に飲み干す。息を吐き出し、中のアルコールは男の胃の中に消えた。そして、脳裏に慌てふためいた少女を描きながら、それがあまりにも可笑しくて背を軽く曲げて笑う。
 おかしいのである。
 単純で。素直で。愚かで。どうしようもなく、純粋で。反吐が出そうである。
 口元に刷いていた笑みが一瞬で掻き消える。
 うんざりする程に、ウラディスラフという男はそのような人間が嫌いであった。人間は余程人間らしい方が好感が持てる。
 吐き出した息は白く濁るほどに寒くはあるものの、ロシアの痛むような寒さとは異なり、肌には十分にやさしい物であった。それでも皮膚は冷たさを覚え、先程胃の腑に落したアルコールに内腑を焼かれるような感触が指先まで浸透することにより、体を温める。
 長く、深く、低く、血生臭い息が空気を鈍く唸らせる。
「ウラド」
 名を背後から呼ばれ、ウラディスラフは首だけを後ろへと回す。
 葉巻が一つ差し出され、慣れた動作でウラディスラフはそれを唇で受け取り、口角に笑みを刷く。黒の皮手袋がマッチを擦り、その先端に火を点すと、軽く振って火を消した。
「遊びが過ぎるんじゃねえのか」
 ちぃと長居しすぎだ、と火を差し出した男はほくそ笑んだ。
 その隣に立つ葉巻を差し出した男は、シガレットケースを懐に戻し、眉間に軽い皺をよせ、溜息を吐いた。
「ナターシャが仕事をサボるなとお冠でしたよ」
「姉上が。それは恐ろしいな」
 吐息ではなく、葉巻の煙が大気へと糸を引き、ウラディスラフは指先で軽く葉巻を叩き余分な灰を少しばかり落とした。
 眼鏡をかけている方の男、ゲオルギーはウラディスラフの肩を抱き寄せ、その耳に唇を寄せ、囁く様に言葉を発する。紡がれた言葉にウラディスラフは片眼をすがめ、体を曲げ、腹を抱え、嘲る様に、引き攣るような嘲笑を響かせた。
 そして、シガレットケースを持っている、ニコライへと視線をやる。
「お前もどうだ、コーリャ」
「本気ですか」
「それは」
 どれのことを言ってるんだ。
 そう、ウラディスラフはニコライへと視線だけで返した。男の本意を探ろうと、ニコライは男の眼底まで覗き込んだが、しかしその答えは分からなかった。
 あるいは、そう、あるいは。
 ニコライ=ロドニンははは、と、哂った。
 首を傾げ、色の薄い唇に指を添える。
「悪い男ですね」
「俺が?」
「悪びれもなく」
「お前もそう思うか?ジョーラ」
 話を振られた男は、そうだなと顎をさすり、メガネを外して拭いた。
 そして、一拍おいて考えるふりをした後、解りきった答えを唇で描いた。
「то не новость.(今に始まったことじゃぁない)」