シャルカーン・チャノ - 2/4

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 ぺちぺちと頬を叩かれる感触に目を開けた。思わず起き上がれば、そこはソファの上だった。
「起きたか」
「?」
 男はこちらが理解できない言語を使って会話を求めた。だが、分からない。しかしながら、こちらの反応を示した言葉であることくらいは分かる。
 白いマグカップが差し出されて、差し出されたと言う行為も本当に久々すぎるのだが、それを受け取った。中には程良く温かく、そして優しく甘い香りのする牛乳が入っていた。
「飲め」
 男はそう言って、くい、とカップを口元に当てて傾ける仕草をした。それが、飲む、という単語だと言うことが分かる。ノム、と口に出してその単語を繰り返した後に、頭を一度下げてからそれを口にした。甘く、美味しかった。
 そして男は言葉を一日一日、ゆっくりと教えてくれた。毎日が、これが普通の生活なのだとそう実感できた。犯されることもなければ、死に怯えることもない。這いつくばるようにして食事することもなければ、殴られることもない。素っ裸で寒さに凍えることもなく、飢えに恐れを抱くことも、また、ない。生きていた。
「コレ、ハ?」
「本だ。この部屋にある書物、読みたければ勝手に読んで構わない」
「アリガトウ、ゴザイ、マス」
 本を読む、という行為に心が躍った。与えられた辞書を片手に、丸一日、その大量の本が並んでいる部屋にこもることもあった。気付けば寝ていることもあり、起きた時に体に毛布がかけられていることもしばしばで、隣には起きた時のためか、水が置いてあることもあった。
 彼がここまで自分にしてくれる理由は全く分からないのだが、それでも、この状況に感謝せずにはいられない。
 男の名前を知らず、男はまた自分の名前を聞こうとはしなかった。相手を呼ぶ時は掛け声で用が済み、自分の場合は大きな男の背中をたたくことでそれが解決していた。
 本には色々なことが書いてあった。特に面白かったのが、東洋医学の本で気の流れについてなど、本当に興味深く楽しい。時々男に頼んでそれを実践してみたが、始めのうちは痛いと言われた。だが、時が経てばそれは慣れと共に男に有難うと言われるようになった。
 男との生活は、全く面白いものであった。やがて自分は笑うことを思い出した。ぎこちないと言われていたので、いつも笑うように心掛けた。すると反対に男は、不気味だと、彼にしては驚くほどに穏やかな笑顔で微笑んでそう言ったものだった。
 ある時、書物だらけの部屋で、一冊の黒い本を見つけた。それは埃をかぶっていた。どれでも読んでよいと言う話だったので、それを居間に持っていき、ソファに腰掛けて開こうとした。が、それは男の大きな手によって奪い取られてしまった。
「ナニ、ヲ、スル、ノ、デスカ?」
「…これを、どこで見つけた?」
 男は自分が持ってきた本を白く固い手で握りながらそう尋ねたので、アノ部屋ニと素直に答えた。自分の返答に、男は一寸手元の本へと視線を落とし、それからこちらへとその目を向けた。
「―――――この本には、人を殺す術が書いてある。俺は、お前が読むのを止める権利はない。お前がこれを読み、その知識をものにしてどうするかも、勿論お前の自由だ。一つ、俺が言えることは」
 ぽすんと、男の手がこちらの頭に乗った。黒い髪をくしゃくしゃと大きな手でかき混ぜられる。細められた瞳の奥には、どこか、触れてはいけないほど冷え切った瞳があった。
「人殺しなんてものは―――――全く、くだらないということだけだ」
 男はそう言ってこちらの手にその黒い本を返した。
 一寸悩んでから、自分はその本を開いた。人殺しをしようという気はさらさらなく、ただ単なる知識欲であった。そこに書かれていたことは、今まで読んだどの本にも書かれていないことであった。人の思いを心を精神を操る術。科学的思考はそこには一切存在せず、完全に理解するには難しいことばかりを書いてあった。
 そして男との生活が数年続き、ある日からぱったりと、男は、帰ってこなかった。
 待てど暮らせど、二人分の食事を用意しても、男は帰ってこなかった。冷めた料理をゴミ箱に捨てる回数が一つ二つと増えていく。お金はあったので、生活には困らなかった。結局十年待っても、男が帰ってくることはなかった。