シャルカーン・チャノ - 1/4

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 肌に触れる手。それを汚らしいと思う感覚も感情も、既に持ち合わせていない。突き上げられる嫌悪感に吐き気を覚えながら、善がっているふりをする。気持ちよくもない行為を白いシーツの上で繰り返す。
 前方ガラスの部屋の奥では、獣が子供を食べていた。動物の子供ではない。人間の、子供を。明日は我が身かもしれない、とそんなことを思う。いつ、このベッドから引きずりおろされて、あの血の臭いが染み付いた床の上で、獣の腹におさまるかしれない。
 家族、なるもののと日々を楽しんでいたのは一体いつまでだったか。否、そもそも自分は売られたのだ。貧困に喘ぐ者だから、自分には戸籍も存在していない。戸籍を作れば税金を支払う義務が生じる。だから、ない。そんな無戸籍の者を奴隷や玩具や、そういった類のものを商売など珍しくとも何ともない。表だってされないだけで、裏では何でもやりたい放題だ。見つからなければそれでいい。見つからなければ問題にならない。殺されない。享楽に幾らでもふけられる。
 眼前の、自分を組み敷いている豚のような男が表の世界で何をしているのかは知らないが、金持ちであることだけは間違いがない。そもそも一般家庭の人間が、こんなところで子供を獣に食わせるところを見ながら、同じ子供に突っ込んでいるなど、ありえない。それはもはや、一般ではない。否、この閉ざされた閉鎖的な世界に世界的一般を照らし合わせる方がおかしいのだ。照らし合わせるべきは、この世界においての一般。つまり、これは普通である。
 子供が獣に食い殺されるのも。それを大きな人でなしが眺めて笑うのも。下の穴から酒を飲まされるのも。犯されるのも。家畜のように扱われるのも。地面に這いつくばって与えられた食事、ではなく餌を犬食いするのも。普通である。
 ぁ、と声を漏らす。吐き気だけがするこの行為に既に心は何も言ってはこない。声を漏らせば、豚が喜ぶ。ただでさえ汚い顔をさらに汚く歪める。初めは抵抗もした。しかし、それは初めての一回だけだった。一度抵抗すれば、もうそれがどんなに無意味なことか、子供の頭でも理解できる。そして目の前のガラスの小部屋で同じ子供が食われる様を見ればなおさら、理解することは容易い。食われるか、犯されるか。答えなど、聞くまでもない。
 ここまで落ちぶれても、なお生にしがみつくあたり、自分も相当下卑た存在かもしれないとそんな風に思い、感じる。普通は死にたいと思うのだろうか。だが、生きたい。死にたくはない。如何に尊厳を剥奪されようと踏みにじられようとも、生きたい。
 自分はまだ生きたいと願っている。そして同時に、こうやって思考ができているあたり、人間だとも思っている。人間でないと誰が言おうが、何と言おうが、自分だけは、自分を人間だと認めて疑っていない。家畜扱いされてもなお、そう思う。
 生きたい、のだ。
 気色悪い、おぞけすら走る行為に耽っている豚のような男を一度見た。揺さぶられる体は、もはや骸のようである。滴り落ちる汗にぞぉりと鳥肌が立った。ガラス窓の向こうで、子供の頭部が獣の牙で砕けた。目玉がぷちゃんと弾ける。それを見て男は、見ろ、と笑った。腰の動きだけは止まっていない。そんなことを言われなくても、獣のように犯されているのだから、嫌でも目に入る。
 獣が頭を振るえば、子供の首から上は体を大きな足と体重で押さえられているために、ぶちぶちとちぎれて、そしして体は頭を無くした。醜く食いちぎられた部位からは、まるで噴水のように血が噴き出した。手足がびくびくと痙攣して、血の勢いは次第に弱まっていった。汚れた床に飛び散った床は、きっと後から掃除をされてその血の池をなくすのだろう。子供の体が背中から鋭い牙と爪に食いちぎられていった。ただ一つの救いといえば、子供は頭を食われた時点で即死であっただろうから、生きながらにして食われるなどということにはならなかったということである。
 何が愉しい、と嗤う男の声を聞きながらそう思う。肉の打ち合う音が耳を侵食していく。シーツを掴む手に筋が浮かんだ。憎らしいと思う心だけは未だ健在らしい。それでも食われたくがない故にこうやってベッドの上で善がる。
 人は言うだろう。そこまでして生にすがりついてどうすると。だがそんな人間が言えば、言ってやりたい。お前は死にたいのかと。生きている限り存在する希望に縋りついて何が悪いと。その先に在るのが希望か絶望か、分からないのだ。万が一つにでも生き残る可能性がないわけではない。スーパーマンに期待はしないが、死神にも期待はしない。
 誰でもいい。誰でもいいから、「きっかけ」をくれ、と願わずにはいられない。逃げ出すチャンスを、生きる機会を、世間一般で言うこんな家畜のような人生から逃げられる可能性を。願う。
 そして、それは唐突に訪れた。
 ずるり、と結合が解けて、背中に何かがぶちまけられた。生暖かい、それは、青臭い臭いではなく鉄錆びの臭いであった。背中で何かを蹴りつける音がして、ベッドの下に、今まで自分を犯していた男が転がった。口や鼻から血があふれ、もうピクリともしない。おそるおそる振り返れば、そこにいたのは黒い人間だった。こちらを見ていた。何の感情もなく、ただ見ていた。
 何か行動を起こすのかと思ったが、男はただ背を向けただけだった。鳴り響く警報音が部屋に充満する。男は何も言わずに背を向けたまま、そのまま窓の鍵を叩き壊して出口とばかりに開いた。だが、ここは高層ビルの最上階である。そんなところを壊したところで逃げられるわけがない。飛び下りれば、地面にぶつかって、それはもう見るも無残な死体が一つ、できるだろう。
 だがそれでも、それでも自分は訪れた、たった一つの「チャンス」を逃したくはなかった。
 ここにいても、殺されるかもしくはまた同じような玩具になるか。訪れた男が誰なのかそんなことはどうでもよかった。これはチャンスだった。
「待って…!」
 声をかけて、裸のまま男の服の端を掴む。男は動きを止めて、その深い茶色の瞳をこちらに向けた。それに侮蔑の色はない。ぎゅぅと絶対に放さないとばかりに男の服から、男の腕をしっかりとつかみ直す。
「連れて行って!僕を、連れて行って!ここから、連れ出して!」
 だが男の返事はなかった。首を傾げて、口を指差してから首を今度は横に振った。そして暫く経ってから、何か、自分では理解できない言語を口にした。それは、ここにいた男たちが使っていた言葉だった。
 しかしながら、それは自分が使用できる言語ではないのでわからない。首を激しく横に振れば、男は何か、また別の言葉を口にする。それも分からない。何度かその問答を繰り返し、そしてようやくどうにかこちらが理解できる言葉(勿論完全ではない)を男が使った。
「(私、言うこと、分かる?)」
「(連れて行って!僕を、連れて行って!)」
「(速い、君、言う、分かる、ない)」
 どうやら早口すぎて分からないらしく、今度はゆっくりと一語一語区切って伝えたい言葉を口にする。部屋の扉をたたく音に心臓が早鐘のように響く。
「(連れて、行って!一緒に、逃げたい!)」
 今度は伝わったのか、男は一拍二拍と大きな間を開けた。そして、窓に向けていた背中をくるりと反転させて、先程のベッドに向かう。そしてベッドシーツをず、と物凄い勢いで引きはがすと、それをこちらの体に巻きつけて、体をふいと持ち上げる。男はそのままもう一度窓に歩み寄って、下を見下ろす。下は、見えないほどに高い。抱きあげられた腕で、男の体をしっかりとつかむ。
「(しっかり、掴まる)」
 こちらが頷いたのを確認して、そして男は窓から飛び降りた。内臓が取り残されたような気分を味わう。飛び出したと同時に、中の扉が開いた音がしたが、もうこちらの体は空中に投げ出された後だった。
 重力に従って体は落ちていく。死んでしまうのか、と一瞬だけ後悔して、それから落下していく中で気を失った。