東堂雅と幸福 - 1/3

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 女に出会った。何のことはない、仕事先の同僚。けれども彼女はとても優しかった。それが上辺だけの優しさなのか、それとも本当に優しくしてくれていたのか。その時の自分には全く分からなかった。けれども、その優しさは温かくて、心地よくて、一生浸っていたいものだった。
 一体何の因果か、社会人になって親孝行をと思った矢先に両親が旅行先で死んだ。もう自分を自分自身で養える年齢であるし、社会的責任も当然あって、親戚をたらいまわしにされると言うことはなかった。ただ一般的に平穏平和な家庭で育ち、善すぎもなく悪すぎもない一般的な環境で育った。小学校へ行き、中学校へ行き、県立高校へ行き、勉強を頑張って国立大学へ入学して、とんとんで就職も決まった。家庭内暴力や家庭崩壊なども知らず、いじめも知らず(ああそれは本の中の世界の出来事だと思っていた)平穏に、生きていた。
 葬儀を済ませて、両親を荼毘にふし、骨壷を墓に納めて終わった。夏の暑い日だった。蝉がよく鳴いていた日のことだった。
 この年になっても涙は出るものなのだと、遺骨を納めながらそんなことを思った。四十九日を過ぎて、生活も元に戻り始め、同じサイクルが続く。延々延々、延々、延々と。ただただ同じ毎日が繰り返される。人が二人死んだくらいで世界は変わらないのである。
 そんな自分を慰めてくれたのかどうなのか、気を使ってくれた女性が一人いた。今はもう名前も思い出せない。なんという、名前だったろうか。そして自分はその女性に恋をした。その女性を愛した。一番つらい時に、一番側にいてくれた女性を愛した。
 それだけなのだ。ただ、それだけである。

 

「雅!」
 声を掛けられて、藤堂は振り返りふと上を見上げる。見上げた先にはベランダで手をひらひらと振っている自分の誰よりも愛しい人。
「お弁当!!」
 忘れてる、と二階から弁当箱が降ってくる。何もそんな位置から投げなくても、と藤堂は思いながらもどうにかそれをキャッチした。すると女性はナーイスキャッチ!とぐっと親指を立てて笑った。そんな様子が可愛らしい。
「行ってきます!」
 ひらりと手を振ると、行ってらっしゃい、と優しい声が返される。ああ自分はなんて幸せなんだろう、と藤堂は思った。
 彼女の腹にはまだ生まれてはいないが、もう八ヶ月にもなる自分の子供がいる。触れれば、時々お腹の中から蹴ってきて、とても可愛らしい。話しかければきっとそれは通じているのだろうと思う。
 妻の様子も心配であるし、最近は仕事をできるだけ早めに切り上げて帰ってくるようにしている。つらそうに見えたら腰をさすってやったり、掃除や洗濯を手伝ったり。二人で産まれてくる子供の名前を考えたり。小さな小さな、これから自分たちに訪れるとても幸せな世界を二人で、否、これからは三人で作り上げる。
 おはようございますと会社に到着しすると挨拶をして、同僚や上司と会話をしながら仕事進める。デスクワーク。目が痛くなるほどの書類やパソコンとにらめっこをしつつ、十二時の鐘がなれば、愛妻弁当をぺろりと平らげる。一緒に食事をする同僚には、全くラブラブだねと笑われるが、何のことはない。幸せだ。
「だったら、奥さん作ったらどうだ?」
「その前に出会いを探さないとなー」
 今夜一杯どうだ、とくいと酒を飲むしぐさをされたが勿論断る。それに隣に座っていたもう一人が、駄目駄目と手を振って笑う。
「藤堂は奥さん一筋だから誘ってもこねーよ。それにそろそろ妊婦さんも大変な時期だろ?いやーお前も頑張ったよな。で、産まれてくる子は男?それとも女?お前みたいな変な趣味持ってなきゃいいんだけどなぁ…」
「ああ、能面だろ?なんだってあんな悪夢にうなされそうなもん集めてんだ、藤堂」
「趣味だよ、趣味。ああ見えて奥は深いぞー。それに子供受けもいいと思うし…」
「子供受けぇ?いや、あんな怖い面見たら泣きだすに決まってんだろ…むしろお前の顔がおかしくて笑うんじゃないのか?産まれてくる子もお前の顔見たら夜泣きぴたりとやむかもな」
「そんなことないさ、ちゃんと子供は能面の良さを分かるんだからな…多分」
「最後が自信無くしてるぞー」
 からからと他愛ないおしゃべりで昼休みが過ぎていく。そして午後の時間も仕事に励み、残業にならないようにきっちり定時で上がれるように努力して、そして鞄を持って電車に乗り込む。勿論帰るのは愛しいあの人とまだ生まれてはいないが、愛しい子の待つ家に。
 ふらと見上げた家にはもう明かりがついていた。腹の出た人影が一つ、ベランダから手を振っている。それに手を振り返して、駆け足で部屋に帰る。そして、家に帰って体の調子を聞いて、ご飯を一緒に食べて。そんな幸せな日常が繰り返されていく。
 そのはずだった。
 いつものように帰ってきた。ベランダの明かりはついていたのだ。ただ、いつもそこにいる人影がなかったくらいで。尤も、随分と冷えてきていたので寒いから中にいるのだろうと思っていた。
「ただい、
 ま、と口を半開きで止める。視界に飛び込んできたのはぐちゃぐちゃにかき回された部屋。玄関の鍵は開いていた。いつも、開いていたのだ。自分が帰ってきたときに、お帰りなさいを言う人がそこにいたから。
「   」
 その人の名前を呼ぶ。愛しい人の名前を呼ぶ。持っていた四角い皮鞄はどっさりと泥で汚れた床の上に落ちた。靴を脱ぐなど考えていられない。心臓の音が早い。鼓動は体を置いて、どこかへと先走ってしまっている。
「   」
 もう一度その人の名前を呼ぶ。返事は、ない。
「   」
 台所へと走る。料理の音はしていない。
 居間へと走る。ソファに座る姿はない。
 寝室へと走る。本を読むその人はいない。
「   、   !    。どこだ!」
 名前を繰り返し繰り返し、しつこいくらいに呼ぶ。トイレのドアは開けっぱなしで、誰もいない。押し入れを開けるが、いない。
 自分のものではない、そもそも日本の住居に土足で入るなどという法則はない。荒らされた部屋、通帳がしまってある引き出し周辺はひどく荒れていた。しかし大事なのはそこではない。
「   」
 喉が酷く痛む。何度も何度も繰り返し名前を呼ぶ。返事をしてくれ、と祈る。ただ祈る。早く帰ってきたのに。いつものように、ただ君だけを想い。お帰り、を、まだ聞いていない。
 そして見つけた。見つけてしまった。真白な、目もくらむようなその色。
 風呂場で、ざぁざぁとシャワーが流れていた。タイルに落ちているシャワーヘッドは水流でバタバタと暴れ、天井まで水を撒き散らしている。色の抜けた、やけに白い死体がそこにあった。背中から生えているものは、天使の羽ではない。
「あ」
 血の臭いはしなかった。排水溝へは、ただ綺麗な綺麗な、悲しいまでに綺麗な透明の水が流れていた。ぐっさりと背中に突き立った、肉や野菜をまな板の上に置いて切る道具。料理の時は、いつも袖をまくっていた。そのまくられた袖から伸ばされた手は、やけに白い。指先までもが白い。ぬくもりのある爪が、白い。
 どろどろと水だけが、流れていく。
「   」
 もう一度名前を呼んで、指先に触れた。生きているかもしれないとそんなかすかな希望を持って。しかし触れた指先は恐ろしいほどに冷たく、そして奇妙な感触がした。全くはりがなく、気持ち悪ささえ一瞬感じて、触れた指先からはねのけるようにして手を離す。
 そこでふと、彼女が平らなことに気付いた。優しくなでていた腹はそこにはなかった。うつぶせになっている妻を一縷の望みを賭けて、否、もはや望みなど既になく、ただぼんやりとした思考でひっくり返した。すると桃色の真っ二つに切り裂かれた服だった。あるべきはずのものが、そこにはなかった。
 何か、とても、不吉で、不快で、口にするのもおぞましいような感覚にとらわれながら、水が流れ落ちていく少しへこんだ排水溝へと視線をずらす。とぷとぷと流れ続ける水。そして、そこから、小さな手が、
 生えていた。
 溺れるように、求めるように。
 吐いた。昼に食べた、妻が作ってくれた、とてもおいしかった、消化されつつあるそれを、吐いた。喉が焼けつくような感覚を覚えるほどに、吐いた。気持ち悪い、のではなく、脳が現状を整理できていなかった。整理したくもなかった。夢だと、思いたかった。
 なんだ、この悪夢は。
 そこで今更ながら、救急車、と濡れた手で滴り落ちる滴の中で電話をかけた。なんと言えばいいのか分からなかった。どこか遠くで誰かが話している声がする。問いかけている声がする。だがけれども、何を言えばよいのやらわからず、ただ愛しい人の名前を繰り返した。そして、そして。
「   が、   が。赤ちゃんが」
 冷たいんです、と。
 暫くもすれば、救急隊員の人が部屋へ踏み込み、呆然としている自分の後ろに立ち、そして息をのんだ。そして警察もそれに合わせて入ってくる。白服の人間が首を横に振り、黒服の人間が首を縦に振る。そして肩にはやけに重たい布がかけられた。
 黒い服の人たちはひどく親身になって話しかけてきた。いつ帰ってきたのか、や、夫婦間で何か諍いはなかったか、や、それから、ああもう覚えていない。質問をされて、それに機械的に答えていく間に、自分という人間崩壊していくような感覚に襲われた。指先から、ぼろぼろと崩れていく。
 そして、その質問が終わって、白い布を顔に掛けた人間にあった。それは動くこともしなければ、身じろぐこともない。お顔を、と言われて退けられた白布の下にはやはり白い顔があった。
 妻の顔はこんなに白くなかった。もっと、温かくて、優しい色をしていた。そう言えば、部屋を出た先で待っていた黒服の男はひどく悲しそうな、憐れみを持った目でお悔やみ申し上げます、と静かに告げた。
 車で送られて、家に、箱庭に戻る。もうそこは家ではない。家と呼ぶには冷たすぎる。寒すぎる。
 一週間ほど、経った。会社の同僚はこのことを人伝に聞いたらしく、暫く休みを取れと上司から連絡が入れられた。だが会社のことなど、もう頭からすっかりと抜け落ちていた。そして連絡が入っても、どうでもよかった。放り投げた手足。随分と剃っていないせいで伸びてしまった無精髭。風呂は、どうにも足を入れる気になれなかった。
「ただ、いま」
 お帰り、と呼ぶ声はそこにはない。温かな家庭はもう存在しない。触れていた、新しい命も、愛しい妻も、三人で築いていく家庭も、そこにはない。三人で、幸せな家庭が、失せて、はじけた。
 スーツで身を固めた人間が、チャイムを鳴らして、犯人はつかまりました、と言われた。あっさり。
 法律は大学でかじる程度に学んだ。刑法 第二十六章殺人の罪、第199条(殺人) 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。人は、人を殺しても生きていくことができる。死を味わうこともなく、悲しみも味わうこともなく、囲った世界で生きていくことができる。
 死刑になったとしても、日本では絞首刑だ。絞首、と聞けば人は余程苦しい思いをするのだろうと勘違いする。けれども、そんなことはない。絞首刑は苦しまない。足の板が外されて、動脈が締め付けられるその一瞬で人は失神状態に陥る。そして、死に至る。苦しみなど、あってないようなものだ。そして死刑囚には死への時間があるとはいえ、そんな精神的なだけの苦しさなど、そんなもので、体の痛みが分かるものか。
 愛しい人は苦しんだ。未だ自我のない我が子は無理矢理母の温床から引きずり出されて、産声を上げることもなく冷たい水に沈んだ。母の血に、流れいずる水の勢いに殺された。失血し、次第に体と意識が離れていく中で、そして包丁を持って追いまわされる恐怖。そんなものが、そんな一瞬の死と取り換えられてたまるものか。
 会いますか、と言われて小さく首を上下させた。車に乗せられ、透明の壁越しにその男を見る。どう見ても、精神状態は普通そうに見えなかった。一見すれば、の話。へらへらと笑っている。両端に、見張りの人間がついていた。口を開いて、何かを言おうとすれば、訳の分からない言葉を相手が発した。理解できなかった。涎を撒き散らし、狂っていた。何を言っているのか、分からない。呆然と、した。
 目の前の男はだんだんと透明の壁を叩き始めた。小さな穴のあいた、会話用の場所で、男は暴れ、けたけたと笑う。何を思ったのか、ズボンを下着と一緒にずりおろそうとしている。両脇の警察官が慌ててそれを止め、後ろで拘束するとずるずると引きずって行った。
 弁護士が、ぼそぼそと大変気まり悪く言っている。心神喪失と判断されるかもしれません、と。嘘だ。そんなものが、裁判で認定されてしまえば、あの男は一生生きていける。心神喪失者は一生を精神病院で暮らす可能性が高い。しかしどうだろうか、仮にそれがもしも、もしも退院することができて、誰も知らぬ土地で社会復帰できるとするならば。  どうなる。
 白い手が、白い手が、白い手が、白い手が、妻が、子が。
「――――――――――――――――――ぁ、あ、あ、ぁっ!!!!」
 壁を叩いた。拳で叩きつけた。叫び声は届かない。絶対にあの男は正気だと、自分の全神経が言っていた。目が、正気だった。面で幾ら繕っても、周囲の人間を幾ら騙しても、自分だけは騙せない。人の顔は、能面ではない。揺れ動き、たゆたい、必ず色がある。あの男の顔は、狂った面をかぶった人のものだ。分かるのだ。分かるのだ、わかる、
 の
「心神喪失により、無罪――――――――――――これにて、閉廷」
 だ。
 嘘だ。
 へらへらと笑う人間が、男が、気違いを装った男が連れ去られていく。やめろ、と叫ぶ。喉が裂けるほどに叫ぶ。
「嘘だ!嘘だ!嘘だ!そいつは、正気だ!!嘘だ!やめろ!連れていくな!」
 落ち着いてください、と弁護士が体を押さえる。男に掴みかかろうとすれば、配置されていた屈強な警察官が、まるで自分の方を犯罪者のように抑えつけた。
 信じてなるものか。こんな不条理な世界など。法律など、社会など。
 正気だ、と抗う私を狂ったふりをした男が一瞬振り返って、そして、歪んだ。目が。膝から崩れ落ちる。もう何もかもが、全てが壊れた。無罪確定すれば、もう二度とその男を引きずり出すことは叶わない。こと、日本においては。仮に検察官の上訴が認められたとしても、心神喪失が崩されることは不可能だろう。
 控室に通されて、一人にされた。
 誰も裁けない場所に男はいた。ならばどうする。どうするのだ。人を殺してもいいのか。心神喪失ならば、そんな仮面をかぶってしまえば、人はいくらでも人を殺せるのか。ならば、自分もおかしくなってしまえばいい。人を殺してもいいのだ。人は、殺してもいいのだ。人は、所詮生き物だ。物だ。意識があるだけの、物だ。どんな人間も、動物と然程代わり映えしない。家畜は殺していいのに、何故人は人を殺してはいけない。
 法律など知るものか。そんな、人を見抜けぬ法など必要ない。明治が敵討を廃止したことが心底悔やまれる。そんな合理的かつ素晴らしい法律があれば、人はいくらでも人を殺せただろうに。人を殺したならば、殺されることによって裁かれるべきだ。心神喪失など知ったことか。そいつが殺した事実には変わりない。
 殺したい。殺したい、殺したい。ならば、殺せばいい。どうすれば、殺せる。自分の幸せを奪った男と。妻を、子を奪った男を。あのぬくもりを自分から奪い去った男をどうすれば、殺せる。
 ころせる。