此処は何処

 すとんと刃が相手の肉を切り裂き、そこから血が大量に溢れだす。暗闇の中を真赤な色が染め上げる。
 足元には無数の動かぬ骸。廃ビル内部は薄気味悪い色で染まり、そこには錆びた鉄の臭気が充満していた。月の光も届かぬその中で、一人の男、男と判断するのはただその体格のみだが、彼のみがするすると空間を縫うようにして動いていた。手にしている鉄色をした武器は、奇妙な斑の赤黒でしっかりと色をつけている。まるで刃は踊るようにして生きる人間を死する屍に変えていく。ばち、ぴち、と飛び跳ねる赤い球体の中で、翁の面をつけた男は屍の山を積み上げていく。
 銃声が鳴る前に、指が切り落とされる。ナイフは突き立てる前に、手首からなくなる。爆弾は起爆スイッチを押す前に、腕が宙に舞う。
 翁の面はくるくる回りながら、薄暗い緑の色をしたパーカーのフードを揺らした。白のスポーツシューズはもう真赤になってしまっている。
 切先が、目をえぐり取る。太腿を斬り払う。胴がろっ骨の隙間を縫うように背骨をえぐり取る。心臓を二つに切り裂く。肺を割り捨てる。顎を突き抜けた刃は液体をまき散らしながら、頭蓋を砕く。ごり゛ぃ、と奇妙な音とともに頭蓋から鉄製の武器が姿を現す。下から赤い靴が頭部を蹴りあげて、ごりごりと刀身と骨がこすれ合いながら、ぐずりと中身を撒き散らしつつ体はどうと倒れた。
 死神。
 仲間が、先程まで生きていた仲間が次々と死に絶えていく。死んでいく、では足りない。肉片へとなっていく。体は人なのに、人の尊厳を与えられないまま、殺されていく。翁の化物は、血まみれの武器を持って全てを斬り払う。目も口も表情も、何もかもが取り払われたそれで、奪っていく。
 死神。死をもたらす、神。
 しかしながら、目の前の男は神などではない。神は、きっともっとずっと、寛容な生き物であるはずだ。こんな風に人間をただの肉塊へと変えていくような残虐性は、おそらく、願わくば持ち合わせていない。
「ああ、まだいたのですか」
 翁の面の向こうから、仮面一枚隔てた死神の声が廃ビルの壁を反響してこちらまで届く。
 かちんと震えた指先から銃が落ちる。拾い上げようとしたそれは、震える指先のせいでうまく拾えない。歯の根がかみ合わず、おやおやと声で笑う死神の足音と奇妙でミスマッチな音楽を奏でた。ぴちんぴちんと仲間が死神の武器から滴となって落ちて、古ぼけて埃にまみれた床へとへばりつく。
 翁の面の空いた部分、丁度目のところに目が見えた。何もなかった。それは、何もない目だった。殺意もない。殺意のかけらすらない。そこに、死神の殺意はない。あるのは、他の誰かの別の人間の殺意だけだった。勿論それはこの男からではなく、この男の所作からくみ取れるだけである。この残虐な陰惨な光景だけがそれを伝える。
 怖い。怖い、怖い怖い怖い怖こわこわここ怖こ怖い。
 恐ろしいと全身から汗が噴き出た。ぬるりと指先は銃を拾わない。ふらついた足が言うことを聞かずに、尻餅をつく。べちゃんと冷たい血が跳ね上がった。
「たす、」
「私は、早く帰りたいんですよ。温かい家とそれから待ち人がいますからね。あまり待たせるとご飯が冷めてしまいます。折角あの子が真心込めて作ってくれたのですから、美味しいうちに食べたいでしょう?レンジでチンは、申し訳ないですから」
 男の言葉は状況と違ってただただ上滑りしていく。しかしその言葉は、自分に思い出させた。そんなものがまだ、あったことを。喉が震える、声が溢れる。
「――――――――――おかぁ、さ、ん」
 その一瞬、能面の男の動きが止まった。助かったのか、と錯覚を起こす。
 だが、次の瞬間思考が一瞬途切れた。かふ、と口の中から真赤な味が溢れかえる。視界がぐるりと天井を見上げて、いる。胸から何かが突き出ている。その先には男の手があった。翁の面の男はそこに立っている。だが、思考はもう、薄ぼんやりと消えていく。自分と言う形が拡散して消えていく。何もかもが薄れてあやふやになって、そして、から、だ、からだ、し、て、お

 

 動かなくなった体から、ぐず、と鉄製の武器を藤堂は引き抜いた。口から言葉がするりと先程の言葉への返答をする。
「何をいったい。『此処』に立った以上あなたは親にすがる子供ではないでしょう?『此処』は大人が立つ場所ですよ。立った以上は、その責務を求められ、覚悟を求められ、命のやりとりを求められる。おかあさんは助けに来てくれない場所です。そしてあなた自身が選んだ場所です。おかしなことを言いますね、本当に」
 そう、藤堂は言いながら、服の端で血まみれの武器を一拭いする。
「それにあなたは無理矢理立たされたわけでもなさそうでした。私が初めに聞いた時、あなたがたは喜び勇んで武器を向けました。自分の意思で全てを決められる人間が、子供であるはずがないでしょう。子供とは、親の庇護を必要とする存在です。そしてまた、親の愛情を追い求める存在のことです。あなたは、子供ではない。おかあさんなんて、一体誰を呼ぶんです?良い大人が情けないですよ。必要な時にだけ親の救いを求めるなんて、なんとまぁ堕落した大人でしょうね。嘆かわしいとしか言いようがありません」
 ああ、と藤堂はふとポケットの携帯電話が震えたのに気づく。マナーモードになっているそれは、アラームを鳴らしていた。ぶるぶる震える携帯電話の表示時間は丁度午後九時。藤堂は面の下で緩やかに優しい目をする。この場に、不釣り合いな目である。
「もうこんな時間ですか」
 藤堂のスニーカーは肉塊になってしまった、先程お母さんと救いを求めた屍を遠慮なく踏みつける。ゴロンとそれが転がって、藤堂は反対側に足をつける。廃ビルの中で、動く者はもう彼一人。
 そして月も出ていない窓から外を眺めた。
「今日の晩御飯は、確かカレーでしたっけ。美味しくできているといいですね」
 誰に聞くまでもなく、藤堂は窓をすとんと蹴る。血の靴跡が真赤に残っていた。警察がこれを取り調べることは――――――ない。それを追いかけることも、ない。あり得ない。何しろ自分はもう死んでいるのだから。それ以前に、頼まれ仕事の主はそんなことを警察に調べさせもしないことだろう。
「鶏肉カレーでしょうかね、それとも秋鮭のカレーでしょうか。普通に牛肉のカレーもありですか…野菜カレーかもしれませんね」
 さてどれでしょうかと笑いながら、藤堂は翁の面をはずして、ポケットの中の携帯を再度取り出す。薄暗い路地裏に入って、そこでのんびり歩きながら、そこで藤堂はアドレス帳を探ってから電話をかける。
 そして、ああもしもし、とかかった電話に、のんびりと話しかけた。
「今から帰りますけれど、ご飯…ちゃんとカレーだけでなくて、サラダも作っていますか?」
 栄養バランスに偏りが出ますからね、と藤堂はそう笑った。