36:心配なんです - 3/4

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 屋根の上から、如何にも不審者と言った洋装の男が二人、その光景を覗き込んでいた。下には自分たちの影を映しださぬように、立ち位置も計算しているあたり、彼らはその道のプロであろう。しかしながら、至極、とても、この上なく、そう、非常にと言わざるを得ない程非常に残念なことに、彼らが覗きこんでいる目下に広がる光景は、いかつい男たちが机を囲んでいる姿でもなければ、反対にぴりぴりと緊張した雰囲気漂う取引の現場でもなければ、銃弾が飛び交う薄暗い倉庫でもなかった。そう、彼らが覗きこんでいるものは、数人の保育士と、牧場関係の人間と、並べられた牛と、そして一頭の牛を囲むようにして興味津津の目を輝かせている――――可愛らしい子供たちであった。
 プロの、既に成人しているであろうと思われる男二人のうち一人、流れるような銀髪を持った男は、漆黒とも呼べるその黒髪を持ち、ほっそりとした髪一筋の隙間から赤い、まるでルビーのような眼を持っている男へと普段からは考えられない程にその声を潜ませて話しかける。
「ボスさんよぉ。いつまでこうやってるつもりだぁ?」
「うるせぇ」
 XANXUSは全く面倒だとばかりな空気を纏っているスクアーロへと暴言を投げつけた。この男に言葉が足らないのはいつものことであるが、そろそろ本気で帰りたいものだと正直にスクアーロは思った。全く、いい(ではなく悪い)迷惑である。
 目下、その覗き込んでいる男と同じくらいに真黒な髪を持った小さな子供がおずおずと牧場員へと近づく。牛の乳の下には大きな一つのバケツが置かれていた。
 男は小さな子供、自分の子供、名前はセオ、とその牧場関係の人間の会話に耳を傾ける。うしさん、と幼い声が不思議そうに首をかしげている。
「でないよ?」
 小さな紅葉の手は牛の乳を握っているが、その先、バケツの中には一向に乳白色の液体が落ちてこない。セオは不安げに隣で見守ってくれていた男性へと目を走らせる。それに男は笑って、そうだねと返した。
「きっと牛さんが驚いたんだ!ほぅら、こうやって優しく握って上から下に」
 丁寧な指導をしながら、男は大きな手でその小さな手を包み込み、上から下へと指の力を込める。内側に会ったセオの手もそれに合わせて動いた。そうすると、牛の乳からは勢いよく乳があふれ出した。セオはそれにわぁ!っと歓喜の声を上げる。
 手を離していても、乳はそのまま一定期間でつづけた。世にも不思議な光景にセオはきらきらと目を輝かせて、その口から素直な感想を述べた。
「すごい!」
「すごいだろう!ルチアは一番の美人なんだ」
「ルチア?」
 女性の名前にセオは一旦バケツに注ぎ込まれていく牛の乳から目を離して、その名を口にした男へと目を向けた。変わった銀朱の瞳に、男はそうとその大きな使いこまれている手で、セオの目の前に立っている雌牛の尻をぱしんと優しげに叩いた。
「ルチア?」
「そう、彼女がルチアだ。よく見て御覧、とても美人だし、器量もいい。最高の女さ!」
「…ルチア、すごい!ルチア、きれい!」
「もっともっとほら、褒めて!」
「えーと、ルチアきらきら!おおきい!それに、それに、おいしい!」
 食べるつもりなのか、と牛は一瞬言いたげに長い睫毛をぱちんとさせたが、それはセオの知るところではない。
「セオ、ルチア大好き!」
「おおっと、こりゃ、随分と男前な子が彼氏に名乗りを上げたぞ、ルチア。良い女は辛いね」
 ははっと笑った男に、園児たちはがやがやと騒ぎ、セオにつられるようにして、ルチアを褒め称える。牧場のマスコットキャラクターではないのかと思わせるほどの反響ぶりであった。
 ところで、と男はセオに尋ねる。
「なんだか随分と一生懸命搾ってたみたいだが…誰か、渡したい人でもいるのかい」
「バッビーノ!と、マンマ!えーと、それからスクアーロに、ルッスーリアに、ベルにも。レヴィとマーモン!ルチアびじんだから、レヴィがね、ようえんだからきっとルチア好きになるよ!」
 最後の方は明らかに子供の文章とも呼べるおかしな言葉を男は朗らかな笑顔で受け止めた。
「はっはっは。沢山あげたい人がいるようだが…ぼくの手は随分と小さいし、まだまだ力も弱いなぁ。それだけの人に持って帰るのは大変だぞ」
「だいじょうぶ!セオ、おとこのこだもん!」
 豪快に笑った男に、セオはにこっと満面の笑顔を向けてそう言いきった。そんな子供の可愛らしい笑顔に男はにっと笑ってセオの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。じゃぁ頑張れ!としっかり応援を付け加える。セオは男の応援に、元気よく頷いた。
 ルチアがんばりやさん!と最後に牛の足を小さな手で撫でてから、セオは次の子へとその場を交代する。
 それを上から眺めていた子供の父親はむすっと口先をとがらせていた。照れ隠しなのかどうなのか、その隣にいる男は判断しかねる。尤も、大変嬉しい言葉を次から次へと紡いでくれたことには間違いない。
 嬉しい事言ってくれるじゃねぇかとスクアーロは頬を緩ませる。セオは愛情表現に対して(誰かさんと違って)大いに素直であるから、とても気持ちがいい。ここまで好いてくれると、嬉しいものである。こんな子供の可愛い光景も見られたことだし、そろそろ戻っても構わないのではないかとスクアーロはXANXUSへと声をかける。
「う゛おお゛ぉ゛い、ボス。そろそろ帰らねえかぁ?東眞の弁当も大人しく座って食べられる場所探そうぜぇ」
 しかし返事はなく、XANXUSは未だ我が子のもとへと視線を注いでいる。確かに可愛いが、そこまで食い入るほどに見つめることかとスクアーロは反対に疑問に思った。
 XANXUSの目と耳には、未だ目下の状況がダイレクトに伝わっている。
 全員が乳搾りを体験して、子供たちは声を合わせてGrazie!と合唱する。それに牛、ルチアの隣に立つ男はぱんと景気よくその牛の背中を叩いて、こちらこそ有難う御座いました!と返した。園児たちがそろって外へと出て行く中、男はふとセオの小さな背中に声をかける。
「ぼく、がんばりな!」
 男の二度にわたる励ましに、セオはうん!と嬉しげなことこの上なく頬を林檎のように赤くして頷き、そして言葉を続ける。
「あのね、バッビーノにぎゅうにゅうたくさんあげて、やさしくするの!」
「おう!ルチアのミルクを飲んだらみんな優しくなるとも!」
「ルチアすごいから、ね!バッビーノもにこにこするから!」
 きらきらと目を輝かせて、そこでセオは他の園児たちに置いていかれそうになって、男に一度手を振ると、その背中を慌てて追いかけた。
 ああ不味いことを聞かせただろうかとスクアーロは多少うんざりしながら、口元に手を添える。全くロクなことになりそうにない。ゆらりとまるで幽鬼のように立ち上がった自分の上司の背中を眺め、スクアーロはこれはまだまだ帰られそうにないと深く溜息をついた。

 

 絨毯の毛先をこすりながら扉が開き、東眞とルッスーリアは扉が開いた方向へと目を向けた。その扉の下に立っていたのは、つんつんとした頭が特徴的な体格のがっしりした男、レヴィ・ア・タンであった。こんにちはとした挨拶に、レヴィはああと短く返事をして、きょろりと部屋を見渡す。
「どなたか探しておられるんですか?」
 東眞の質問に、レヴィはセオ様はと尋ねる。その手には大きめの袋が一つ下げられており、そこからは赤い球体が沢山のぞいていた。それが一体何であるのかは、聞くまでもないことである。
 レヴィの問いかけに、東眞は最も単純かつ簡単な答えをその口からこぼした。
「セオは今日牧場に遠足です。XANXUSさんはそれにスクアーロを連れていかれましたよ」
 その口からこぼされた言葉に、レヴィはそうか、と酷く落胆した表情を見せる。しょんぼりとしたレヴィにルッスーリアは気にすることないわよ、と明るく励ますようにして声をかけた。まぁ座りなさいなと席を勧められ、レヴィは空回りした元気を拾い集めながら、勧められたソファの一隻に腰かけた。その前にカップを置き、ルッスーリアはコーヒーを注ぐ。レヴィは礼を一言言うと、芳しきそれをそっと口にした。
 いつのまにやら唇のピアスが退いていたのだなと東眞は思いつつも、それを口にすることはせず、大人しくルッスーリアがお代りを淹れてくれたコーヒーを飲む。
「Jrなら、お昼ごはんを食べたら帰ってくる予定だもの。ボスも同行?してることだし、すぐに帰ってくるわ。ねぇ、東眞」
「はい。きちんと無事に連れて帰ってくださると思います」
 ルッスーリアの投げかけを東眞はきっちりと受け取って、それをレヴィに返した。二人のやりとりに、そうかとレヴィは頷いたが、すぐさま心配そうに手元の袋を覗き込む。
「だ、だが折角もぎたての林檎が手に入ったのだがな…セオ様がお喜びになられると思ったので、走って持ってきたのだが…そうか、まだお帰りになられていないか。ボスも大丈夫だろうか」
「ボスの心配なんてしなくても平気よ、平気。むしろ襲いかかってくる敵の心配をすべきね。それに、少なくとも手を出してぶち殺されるのはきっとあなたよ?」
「む…っし、しかし…まぁいい。女」
「ああ、はい」
「いい加減に名前で呼んでもいいんじゃない?それともタイミング逃してるだけかしら」
 くすくすと楽しげに笑うルッスーリアに、レヴィはうるさい!と一喝すると、東眞にその手に持たれていた林檎がたくさん入っている袋をつきだした。
「ご自分で渡された方が、セオ、喜ぶと思いますけど」
「そうしたいのは山々なのだが、な」
 できんのだ、とレヴィはそう言ってそれを東眞に押し付けた。強制的に受け取る形になって、東眞はああと納得し、どちらへと尋ねる。それにレヴィはフランスだとぶすっとした様子で答えた。
「エッフェル塔ですね。セオがこの間マーモンに写真を見せてもらって、行きたいってせがまれましたっけ」
 零れた何気ない一言に、レヴィは何!と強い反応を示す。まさかここまで反応されるとは、東眞も予想外だったようで、いえと短く言葉を濁した。
 それにレヴィはセオ様はと続ける。
「セオ様はエッフェル塔をご覧になられたいのか!」
「あ、あぁ、はい。まぁ。でも、幼稚園もありますし、フランスは近場ですけどやっぱり一泊くらいはしたいですよね。セオもそっちの方がゆっくりできそうですから」
 長期の休みのときに頼んでみようかと思ってますと続けた東眞に、レヴィはそうか、と僅かに乗り出した体を下げてうんうんと唸る。一体何を考えているのかは分からないが、それがセオに関することなのは言われずともよくよく分かった。
 本当にセオはここの人たちに好かれているものだ、と東眞はその光景を眺めて目を細めて微笑む。
 彼らは人を殺す職業についている。だが、それでも彼らは同時に人間なのである。優しく温かい面は、確実にセオを笑顔溢れる元気のよい子へと育てて行った。自分ももっと遊んでやれたらいいのだけれどとそればかりは悔やまれるが、どうしようもない問題である。
 少しうつむきがちになった東眞の肩にルッスーリアはそっと手を乗せて、サングラスの上にある表情を豊かに見せている眉を少し下げ、困ったように笑った。そして、心を呼んだかのように語りかける。
「そんな顔しないのよ。大丈夫、東眞はちゃんとJrと遊んであげてるし、Jrも十分に満足してるわ。それに、東眞が寝たきりの時は、スクアーロもいるし、勿論私だっているんだから。それに、ベルやレヴィ、マーモンだっているじゃない。気にしなくても、Jrの相手くらい苦じゃないわ。むしろ楽しいくらいよ」
 だから気にしないでとルッスーリアは太陽の日差しのような笑みを東眞に向けた。暖かく、心地よいそれ。東眞はそうですね、と陰っていた表情に明るさを取り戻しながら、微笑み返した。
 ルッスーリアはその笑みに安心したように東眞の肩に手をそっと優しく添えた。
「心配しなくてもいいわ。Jrだって、寝ている母親に我儘を言ったりして困らせたりする子じゃないでしょう?レヴィやスクアーロが買って帰ってきたスィーリオもきちんと情操教育の一環を果たしてるみたいだしね」
 そう言ってはしらせた視線の向こう、ぽかぽかと日差しが心地よい当たりの床でごろんと腹ばいになって、大きな犬が欠伸を一つした。レヴィはうむとルッスーリアの言葉に首を上下に振る。
「貴様がどう思おうが俺の知ったことではないが、セオ様はまっすぐに育っておられる。流石はボスの御子息…!」
 最後の一言はどう考えても心酔故の言葉であろうが、その一言にも励まされ、東眞はレヴィにも有難う御座いますと礼を述べた。
 そしてちらりと時計を見て、そろそろ昼ご飯の時間だろうと腰を上げた。それにルッスーリアは手伝うわと東眞の隣に立って袖をぐいとまくる。少し置いてけぼりになったレヴィは、食卓を片づけようと一言いい、そちらへと足を運んだ。

 

 えへ、とセオはわくわくしながら、母から預かった弁当包みを開く。溢れんばかりの好奇心の下に広げられた弁当の中に入っていたのは、セオの大好きな大好きな大好きなものがたくさん詰まった色どりのよい弁当であった。パニーノなどの簡単な弁当が多い中でセオは自分の弁当は一番であると、口元を緩めた。しかし何を思ったのか、弁当に箸をつける前にすっくと突然立ち上がると、弁当箱を抱えたまま動物たちが遊んでいる柵の方へと近づく。柵の中に囲われているのは羊である。先程突き飛ばされて脅かされた羊にセオは意気揚々と近づく。
 同じへまをしでかすつもりなのかどうなのか、判断しかねる行動をXANXUSたちは先刻と同じように木の上に腰かけて弁当を口に放り込みながらその光景を眺める。
 セオは先程の群れへと近づいた。そして、にぃいと笑って、自分の弁当を羊たちに見せびらかすかごとく、手元の弁当箱をぱっと差し出した。
「セオのおべんとうすごいでしょ!うらやましいでしょー!えへへ」
 だが、そんな子供の見栄が動物に通じるはずもない。
 代わりにセオの目の前には、セオは見覚えのある羊、それはもう脳髄までにしっかりと刻み込まれた羊が群れの中からすいと姿を現す。セオはさらに笑みを深めて、うらやましいでしょともう一度繰り返そうとした。が、しかし、その行動は瞬間的に凍りつく。
 セオは目の前の光景が信じられなかった。がつがつと差し出された弁当箱の中身に羊が鼻を突っ込み―――そして、食い散らかしていた。
「あ、ぁ、だめ!これ、セオの!」
 慌てて取りあげようとしたが、食べ物に関してこれでもかと言うほどに貪欲である羊の動きの方がもっと早い。ずいと無理矢理下げられようとした弁当箱に鼻を押し付けて、セオの手から取り落とさせる。東眞が作った弁当は無残に牧草の上に散った。弁当に鼻を突っ込んだ羊はそのままセオを突き飛ばして、落ちた弁当、既に羊の餌と化したそれを食い散らかす。
 眼前の光景にセオははくと思考をまとめられないまま手を振りあげて、食べ物に集中している羊に拳をそのまま打ちおろした。残念ながら、その立派な羊毛に阻まれてセオの拳なぞ大した、どころではなく全く威力を持たない。
「やーっだっ!それ、セオのおべんとう!セオの!セオの!」
 叩く子供を煩わしいと判断したのか、羊はふぶっと鼻を鳴らしてさらにセオを突き飛ばす。食べ終わった弁当は羊の蹄に砕かれた。そこにようやく大人、それはセオに乳搾りを体験させた男が到着して、慌てて羊を追い払う。
「ぼく、怪我はないか?」
「う、ぇっ、え、セオの、おべ…っと、」
 たべられた!とぼろりとその銀朱の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。XANXUSの攻撃にも羊の頭突きにもめげなかったセオだったが、楽しみにしていた弁当を羊に食い散らかされた上に弁当箱まで破壊されたのは余程こたえたらしく、ぐずりと鼻をすすりあげた。
 それに男はうん、と一つ唸ってから、ぼく、と唇を噛んで俯いたセオに語りかける。
「強い男だろ。イタロに弁当食べられたくらいで泣くんじゃない。な?」
「…でも、っ、で、も、セオのおべんと…っ!マンマが、ね、つくって、ひっう、つくってう゛――――」
 男の言葉にセオは首を横に振って、さらに涙をこぼす。それに男は苦笑をこぼしながら、その大きく太い手でセオの落ちる涙をぐいとぬぐい取った。
「マンマやパパーにルチアの美味しいミルク届けてくれるんだろ?泣き顔で渡したら、ルチアのミルクが美味しくなくなるぞ?マンマもパパーも笑顔になれないかもしれないな。ぼく」
 その言葉に、セオはぐすっと鼻をすすりあげて、自分の袖で涙をぬぐった。そしてちらりとぐしゃぐしゃになってしまった弁当箱を一瞥して、小さく頷いた。
「…ん、セオ、つよいおとこ、だから…がんばる」
「おう、頑張れ。イタロは俺が後で叱っておいてやるから」
「いい!」
「?」
 元気よく跳ね上がった声に男は怪訝そうに首をしかめた。それにセオはきっと強い目でイタロと言う名の羊を睨みつけた。顔を覚えられる能力のある羊は全く、小憎たらしいくらいの顔をしている。
「セオが、イタロ、めってするから!もっとつくよくなって、イタロめってする!」
「…なら、イタロは覚悟しとかなくちゃならないな」
 笑った男の隣で、セオはべぇとイタロに向かって舌をだした。
 そして、その一部始終を観察し終わった男は、隣の男から溢れだしている殺気のような、否、まぎれもない殺気を感知しながら、遠い目をした。本日の晩御飯は本気で食べきれぬほどのマトンになるかもしれない。
 カスが、と地獄の底から響いてくるような声。
 スクアーロは本日の彼の子供の初遠足が無事に何事もなく終わる姿を、どうしても想像できなかった。