36:心配なんです - 2/4

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 ストーカーと尾行の違いはなんだろうかとスクアーロは考える。
 隣からとっとと行けとばかりに頭を殴られつつ、先方に見える小さな可愛げのあるバスを黒い重厚な、いかにもなタイプが乗る車が追いかけている。勿論そこは、ある程度の距離を保って。
 俺の溜息はオゾン層破壊に今日も貢献しているに違いないとスクアーロは項垂れて、車のアクセルを景気よく、ではなく思いっきり不景気そうな顔をして踏んだ。それに合わせて車が前方へと動く。バスの後ろの窓からはきゃいきゃいと小さな子供が楽しげに笑っていた。こうやって幼稚園バスを尾けているのは、はたから見れば、幼児趣味のちょっとどころではなく、人とは一線を引いた趣味の持ち主か、もしくは、否、もしくはなど存在しない。考えられるとすれば、事故を起こしてやろうともくろむ人間くらいである。
 ボスとぼやいた声に、XANXUSは何だと短い声で返す。
「…まさかとは思うが、本気で牧場まで付いていくんじゃねえだろうなぁ?流石にそれは、ないよな?」
「文句あるか」
 大いにあると言いたい所存だが、それを言えば、頭骸骨陥没は免れそうにない。赤い目の男に媚を売るのは最も嫌いな行動だが、命惜しさにスクアーロはないぜぇと魂の入っていない声で返事をした。
 大体、とスクアーロは声にすることなく、その不満を心の中でバケツを返したように大声で叫ぶ。考えなしに叫びたい。が、できないのが口惜しい。子供が心配でわざわざ遠足までこっそり尾けていく親が一体どこにいると言うのか(今現実問題隣に座っているわけなのだが)普段あれほどまでにぼこぼこ殴っておきながら、心配と言うのも笑わせる話である。
 赤信号がちっかちっかと光って、スクアーロは車を止める。フロントガラスの前を老若男女が通り過ぎていく。
 横断歩道の向こうにバスは消えてしまったが、ある程度距離を置いて尾行(もといストーカー)をしているので、あまり問題もない。それに何よりも牧場の場所は知っているのだから、わざわざバスを尾けずとも普通に牧場に直行すればよかっただけの話である。
 その方向性が明らかに間違っている心配を普段から向けてやればよいのにと心底思いながら、スクアーロは青になった信号を確認してからアクセルを踏んだ。
 これから牧場につくまで十五分前後、遠足が終わる時間まで三時間。それまで、この父親は色々なことに耐えられるのだろうかと溜息をつきながら銀の瞳が時計の文字盤を見た。一日はまだまだ始まったばかりである。

 

 きらきらとセオは目の前の光景にその銀朱の瞳を瞬かせて、感激をあらわにする。子供を見る保育士が、何かを言っているのだが、そんなことはもうセオの耳には届いていなかった。見渡す限りの青い原、そこを優雅に駆け回る馬、向こうには牛、そしてさらに向こうにはもこもことした羊の群れ。ボーダーコリーがちょこんとそこには鎮座している。
 子供の好奇心をこれでもかと言う程にそそる光景に、好奇心の塊が我慢できるはずもない。数人の子供たちは保育士の言葉を最後まで聞かずに、ぱっとその中に飛び込んだ。無論その中には、目を輝かせたセオもいる。
「おい!」
 ぐえ、とスクアーロは脇腹を肘で突かれて、蛙が潰れたような声を上げる。しかしながらそこは暗殺部隊、大声を出して気付かれるようなへまはしないし、気配は一般人には分からぬ程度に消していある。尤も、こんなところで使うべき能力でもないのだが。
 葉がよくよく茂っており、本当によく見なければ外側から内側はのぞけないであろう高い木の枝の上に二人は身を潜めていた。もう帰っていいだろうかとスクアーロは全身全霊を持ってそう願いながら(だがそれは到底叶わぬ願いなのだろう)太めの幹に体を預けて、木の葉の間からのぞける小さな子供を観察している上司へと目をやる。
「あの糞餓鬼…!人の話は聞きやがれ!」
「…てめぇがそれを言うかぁ…ボスさんよぉ…」
 ぼそっとこぼした鮫の名を持つ男に、XANXUSは一言うるせぇ!と怒鳴りつけて頭を殴る。災難である。否、人災である。毎度の理不尽な暴力にスクアーロは皮膚下にある血管をまた一本ちぎりながら、今回は、彼の息子の手前怒鳴るのを耐えきった。
 可愛い彼のためである。ならば仕方があるまい。
 そう、スクアーロは押し切って、何しやがると腹の底から声をあふれさせたい衝動をどうにかこらえた。小さなセオの初めての遠足を台無しにすることだけは避けたいものである。
 ぐすと一つ鼻をすすってスクアーロはXANXUSが眺めている同じ方向へと目を向ける。その先には、蜘蛛の子を散らばすようにわらわらと散らばって行く子供や、固まって保育士の足元に残るものなど様々であったが、元来活発なセオは前者に分類されているらしく、自分たちの環境下の中、ある程度鍛えられ、他のチビたちよりも倍くらいは早い駆け足で草を駆けていた(尤も、大人が全力で追いかければ余裕で追いつける速さである)
 上から眺めているだけでもこれは結構面白いかもしれないとそんな風に思いつつ、スクアーロはそっと横目で、その問題児の父親を盗み見る。眉間には深い皺がより、何故大人しくしていないとばかりに拳が固く握られている。もしもこれが普段であれば、握られた拳は小さな頭に見事に吸い込まれたことであろう。セオにとっては幸いにもその手が届く範囲にはいなかったが。
 匣兵器の動物たちに慣れているせいか、セオは物おじをすることなく色々な動物に近づいていく。流石に馬の柵を乗り越えようとした時は、保育士が血相を変えてセオを止めた。セオはそれに酷く残念そうな顔をしたが、すぐさま興味を他のものに移して、とっとと小さな足で次へと進む。
 牛の柵を越えて、小さな影はもこもことした生物が密集している柵へと興味を向けた。何やら暖かそうとでも思ったのか、セオは両手を大きく振って速度を速めると、まるでダイブをするかのごとき踏切でその小さな体をもふもふとした羊の群れへと放り投げた。
 な、と短い驚愕じみた声が上がる。
 幼い体はぼすんと狙った先に着地した。だが、相手はベッドでもなければソファでもない。上から突然舞い降りる、などと可愛らしくはなく、衝突されれば羊は驚いてセオを背中から振り落とした。丸い円を描いていた羊の群れが、まるでドーナッツのような円を、セオを中心として作り出す。
 真ん中にすとんと落ちたセオはぱたぱたと尻と膝、服についた草を払いながら楽しかったのか、わくわくとその目を輝かせる。だが人間に以上に動物は甘くない。
「ひつじ!」
 幼い声とまだまだ短い指が、セオの目の前に警戒心を剥き出しにしているもこもこの物体へと向けられた。もう一回とセオは助走をつけかけたが、その前に目の前の動物の蹄ががりっと地面をひっかいたことに気付く。持ち前の危機察知能力でセオは何か不味いことをしたことを理解した。あう、と小さな喉が動く。
 羊の群れで作られたコロッセウムが如き状況にセオは、はっきりとした敵意を感じた。防衛本能とは恐ろしいものである。それは匣兵器には決して存在しない生存本能であり、そしてセオはそれを知らなかった。唯一生きている動物のスィーリオはXANXUSによって厳しくしつけられており、セオがその恐怖を味わう機会は一度としてない。
 マンマ、とセオは動物と同じ、本能的に自分を助けてくれる存在を求めた。不幸にも、ここに助けてくれる母はいない。遥か遠く、木の上から舌打ちをして傍観している父ならば居たのだが。
 一歩身を守るために後ずさったのだが、それが羊を刺激する。逃げ腰を見せた相手の弱気に羊は強気になった。羊の嘶きにセオはびくりと身を震わせて、そのままわっと逃げ出した。群れている羊をどうにかかき分けて、転がるようにして逃げる。だが威嚇をしていた羊も逃げ出した獲物(※羊は草食動物です)を追いかける。
 幾ら他の子供より足が速いと言っても、毎日地面を踏んでボーダーコリーに追い回される羊、さらに言えばきき本能に訴えかけられて興奮状態の動物にセオがかなうはずもない。どん、とセオは見事に羊の頭突きを背中に食らって倒れた。ここで泣きださないのは、XANXUSの日ごろの教育(と呼べるかどうかは甚だ謎だが)の成果かもしれない。とはいえ、痛かったのは痛かったらしくぐすんと鼻をすすりあげて、しかし今度は膝をついた状態で振り返ると、強い眼差しで自分を攻撃してきた羊を睨みつけた。
「…あっちいきなさい!いたいでしょ!」
 しかしながら、セオの怒声など羊にとっては蚊に刺される程度値せず、ぶふと羊は鼻息を荒くした。セオの顔に怯えが走る。
 そんな光景を眺めながら、スクアーロはさてセオが次は何と言うかを少しばかり楽しみにしていた。助けに走ってやってもいいのだが、羊に食い殺されるわけでもなし、むしろこれでまた少し強くなってくれれば嬉しいものである。
 すっかり父親気分でスクアーロは表情に笑みを乗せて、子供と血の繋がりを持つ父親へと目を向けた。
「う゛お゛おい゛、見ろぉ。Jrの野郎ぉ、」
 が、と言いかけて、スクアーロはぎょっとする。全世界の羊を全滅させるような殺気を込めた赤い瞳がぎらぎらと黒髪の奥に潜んでいた。そしてその掌には煌々と最高の破壊力を誇る憤怒の炎が灯されている。
 野郎、とぼそりと唸るような声がスクアーロの耳をかすった。
「今日の晩飯はマトンだな…?えぇ?カス」
「ま、待て待てぇ!!何物騒なこと言ってやがんだぁ!別に羊に食われるわけでもなし、Jrだって平気な顔してるだろぉ!」
 スクアーロの尤もな制止をXANXUSはるせぇ!と怒鳴りつけることで弾き飛ばして、くっと頬を微かに吊り上げる。本気でこの牧場の羊を全頭丸焼き(どころではなく灰になるかもしれない)にしかねない勢いである。無論言うまでもなく、そうこうしている間にもセオと羊のにらみ合いは続いているわけだが。
 数秒にらみ合ったのだが、結局セオの方が根負けをして、ずるりと一歩、ほんの一歩後退する。攻撃態勢に入った羊がそれを見逃すはずもなく、セオが一歩下がったのと同時に踏み込み、頭突きを喰らわそうと頭をすっと下げた。羊には山羊のような角がないのは全くセオにとって幸せ以外の何物でもなかったであろう。しかしながら、それでも十分に羊からの全身全霊の洗礼とも呼べる初撃はセオに鮮烈なまでの恐怖を刻みこんでいた。また、痛いのを喜ぶ気質は残念なことにセオは持ち合わせていない。
 小さな手に汗を握って、セオは立ち向かうか逃げるかの究極の選択の中、迷うことなく逃げるを再選択した。
 おお、とスクアーロはそんなセオの選択に少し嬉しそうな顔をする。剣士としては全く褒められない行動ではあるが(自分の信念に反する、と言うべきか)到底どう考えても倒すことのできない相手にとる選択としては間違っていない。一時退却、その判断が体に備わっていることだろうかとスクアーロは考えた。しかしながら、現実のところは、ただ怖いから逃げたと言うそれだけの話である。多少どころではなく、かなり買被りすぎであることを訂正してくれる人間はここにはいない。
 とはいえども、逃げるという行為は相手よりも絶対的な力量がある場合、もしくは偶然に奇跡が重なった場合でしか逃げることはできない。セオは背中から見事に羊に突き飛ばされた。二度目の痛みに、セオはけほけほと咳をしながら背中を丸めた。それにとどめを刺さんとばかり、羊は前足を一度軽く持ち上げてその体をさらに大きく見せた。まるでモンスターのような光景にセオはマンマ!と助けを再度母に求める。無論、救世主は現れない。
 結果的にセオは一頭の羊の猛攻からどつかれ弾き飛ばされながら、地面を転がりつつ逃げる羽目になる。ここでびえびえと泣きだして地面でうずくまり、さも被害者面でいたのであれば即座に誰かが駆けつけてくれたことであろうが、不幸なことに、セオは普段からの父親の拳を受け続けているせいか痛みに対する防御策には、他の子供とは異なる決定的な差があった。脚力を鍛えている、というにはいささかどころかかなり問題のある光景が繰り広げらるが、小さな子供が泣き叫びもせず全力疾走している様子はただ微笑ましいだけであった。全く、不幸なことである。
 ―――と、いうことは流石になく、セオが羊に追い回されているのに気づいた保育士が慌てて、牧場の人を呼びにかかる。そして、係員は慌ててボーダーコリーに指笛を拭いてセオを追い回している羊を元の群れに追い戻させた。
 ようやく助かったと言える状況になったセオは、子供ながら動物の本気の恐怖をその身を持って実感した。大慌てで駆け寄った保育士にわぁっと飛び込む。
 隣でちりちりと焼け焦げるような憤怒の炎の光にスクアーロは、もういいだろぉと必死にXANXUSをとどめる。
「落ち着けぇ!ほら、もうJrの野郎も無事に羊から逃げたぞぉ!大体、あんなに沢山のマトン誰が食うんだぁ!」
 少しばかり最後には方向性が明らかに違う余計なひと言を添えながら、暴走気味の上司にスクアーロは待ったをかける。羊ばかりではなく、馬の丸焼き、牛の丸焼きも拝めてしまいそうな辺りが恐ろしい。
「舐めた真似しやがって…かっ
「不吉なこと言うなぁ!…ボスさんよぉ、そんなことしたらセオの遠足が台無しになっちまうぜぇ?東眞にも言われたじゃねぇがっは!」
「…ちっ、胸糞悪ぃ」
 胸糞が悪いのは理不尽に殴られたこちらのほうだと、スクアーロは全く真剣にそう思いながら、それでもXANXUSの掌から憤怒の炎が消えたことにホッと一息ついた。そして、セオたちがわらわらと一か所の屋根の下に集まっているのに気づく。ボス、と呼ぼうとしたが、肝心の上司は風の如き速さで自分の隣から消え、気付けばそちらの屋根の下がよくよく見える方へと姿を移動させていた。
 どっちの子守だか分かりゃしねぇ。
 スクアーロは本日頭が痛くなるほどに繰り返した、溜息をつくという行為を再度行った。頭も痛くなってきた。

 

 そわ、と東眞は壁にかかった時計へと視線をやる。それに、となりでファッション雑誌を読んでいたルッスーリアがくすと微笑んで気になるの?と問うた。穏やかで、しかし安定感のある安堵をもたらす響きに、東眞はいえと短く答えた後、しかし数秒置いて、まぁと言い直した。
「気になってます。これじゃXANXUSさんのことをとやかく言えませんね」
「あら、いいんじゃない?母が我が子の心配をするのは尤もなことよ。まぁ、そこで心配だからって見に行くのは親馬鹿になっちゃうわね。あ、ボスは帰ってきてないかしら?」
 帰ってきていないのを知っていて、ルッスーリアはおどけた様子できょろとあたりを見回す。そんな仕草に落ち着いて、東眞は刺繍の続きをする。その手元を覗き込み、器用ねぇと多少の敬意も含めた声が上がった。
「そんなこともないですよ。慣れれば誰にだって出来ますし…することがないので、何かすることを探した結果趣味が広がったと言うべきですか」
「家庭菜園もその一つ?」
「そうですね」
「主婦って大変ねぇ。ちょっと私にはなれそうにもないわ。毎日が刺激のない同じことの繰り返しだなんて、耐えられそうにないもの」
「大変ですけど、楽しいですよ」
 本当にと微笑んだ東眞にルッスーリアは本当?と疑わしい目をサングラスの奥から向ける。それに東眞ははいと頷き、そして二人は顔を見合わせて楽しげな笑いを場に響かせた。それに、と東眞は一旦刺繍をしていた手を止めて、それを膝の上に置く。
「あの二人は見ていて飽きませんから」
 あの二人、が誰を指すのかは一目(?)瞭然である。東眞の言葉にルッスーリアはおおいに同意した。
「そうねぇ。今時期の子供ってとってもかわいいし、ボスが必死にJrの相手をする姿は、悪いけれど笑えるわぁ。完全に手探りでやってるじゃない?本の一冊でも参考にすればいいのに、余計なプライドが邪魔するのかしらね」
「かもしれません。でも、そっちの方がXANXUSさんらしくて面白いです。何だかんだでセオが泣く回数も少なくなってきましたし。それに、セオってああやって殴られ怒鳴られされているのに、結局XANXUSさんが大好きなんですよ」
「健気を通り越してるわ」
「XANXUSさんも、セオのこと好きでしょう。大好きなんですよね、でも素直に大好きって言えないだけで」
「素直に大好きっていうボスがリアルに想像できないわ…怖いわね、考えると」
 そう言われて、東眞はセオのことを大好きというXANXUSを想像してみる。確かに、想像は難しい。けれども、彼の場合は些細なことで心配したりするところ、詰まり行動に表れている。殴ったり怒鳴ったりは、かなり暴力的な照れ隠しも含まれていることだろう。セオにとっては迷惑この上ないだろうが。
 それでも、時折はちゃんと頭をなでたり、寝る前に本を読んだり、散歩につきあったり、ささやかな――――そう、例えば頼まれてもいないのに、子供の遠足について行ったり。
「困ったお父さんですね」
 くすと笑った東眞に、ルッスーリアはそうねぇと壁にかかった時計を眺めた。彼らが帰ってくるまで、まだもう少しの時間がかかりそうである。