31:二人でお留守番 - 3/4

3

 もしゅ、と不味そうな顔をして味気ないパンを食べるセオをXANXUSはソファに腰掛けて眺めていた。どうにかこうにかで戸棚の中からパンを見つけて、それを渡すと、泣きやんで大人しくなった。
 上半身はまだ裸のまま、子供は柔らかな乳歯で一生懸命にパンを噛んでいる。余程腹が減っていたに違いない。ふとXANXUSは時計を見上げて、まだこんな時間なのかとうんざりする。東眞たちが帰ってくる時間はまだまだ遠い。何でもルッスーリアと興味のあった映画を見てから帰ってくるのだとか。
 くそ、とXANXUSは手にしていたメモ帳を壁に投げつけた。自分の子供なのに、否、自分の子供であるからこそどう接すればいいのかよくわからない。
 部屋は随分と散らかってしまっていた。上から落ちてきた埃や、投げ捨てられた小さな洋服。それから与えようとして投げ捨てられた林檎。それは結局踏みつぶして絨毯を汚してしまっている。投げられて壁に当たったメモ帳。何が食べたいのか、何を与えるべきなのか、分からなくなった結果大量に散らばされた食事。チーズの欠片など。
 ちらりとパンを必死になって噛んでいる小さな子供に目を移す。自分の視線に気付いたのか、セオはパンから口を離して、ふいとこちらに視線をやる。そして、笑った。あまりにも無邪気な顔で。
「――――――――――――、」
 何故だか、不思議と呼びたくなって口を開けたが、そうすると奇妙に気恥しくなって口を閉じて、言葉を止める。父親が何かを言いたそうに気付いたのか、セオはパンを座っていた場所に放り投げて、よたよたとXANXUSの方へと歩みを進めた。そして放り投げだされた足にぺたりと落ち着いて、その朱銀の目をくるりとさせる。赤い目がそれを見下ろした。
 セオは攻撃色のない目にふわりと頬を緩めた。
「Mi piace Babbino!(バッビーノが好き!)」
「…」
 そう言えば、そんな言葉が書かれていた本をこの間スクアーロが読んでいたような気がする、とXANXUSは思い出す。
 子供の成長は非常に早く、それぞれの言葉を日常会話や本から学んでいくものだ。言葉の意味を正確に理解しているのか、それともしていないのか、そんなことはあやふやなのだが、感じは掴んでいるのだろう。
「…セオ」
「セオ、セオ」
 ニコニコと笑いながら、セオは自分の、XANXUSが口にしたその名前を繰り返す。そして、小さな指で自身を指差して、もう一度セオ、と繰り返す。そしてXANXUSに指を向けて、バッビーノ、と笑った。
「言うじゃねぇか」
 糞餓鬼、とXANXUSもそれにつられて笑う。セオはその行動を再度繰り返した。しかし今度は、バッビーノ、とは言わない。
「セオ、バッビーノ?アーぁロ、ベル、ルッスーリア、レヴィ、マーぁモン…バッビーノ?」
 そこまでセオが口にして、XANXUSはセオの言葉の意図を理解する。そして、唇を動かして、XANXUS、と告げた。X、に縛られた名前だとそんな風に今更実感する。滑稽だ。
「ぁんざす」
「XANXUS」
「ぁんあす」
「…XA、N、XA、SU」
「ざ、ん、あ、す」
 これは駄目だ、とXANXUSは口を閉じた。そして、そんな自分のXの名前を呼べない子供に笑った。
 考えてみれば、イタリア語ではxを使う単語はほとんど、ない。そもそもこの文字はイタリア語の字母には存在すらしないのだ。ギリシア語、ラテン語、現代西欧語のアルファベット字母で、一般的にはksと発音する。それが、XAなどと、全く笑わせた名前だ。それに、このxという文字は、よく「誰かわからない未知の人物」として使用される。よく分からない、というのはとんでもない皮肉だ。確かに自分はよくわからない。母の出自も、父の出自も。結局自分は何者でもない、「X」だ。
 いっそのこと、「Decimo(十番目)」とそのまま名付けてくれた方が納得がいくというのに。こんな誰とも分からぬXをつけた母親が憎い。妄想に取りつかれた女が、全く余計な真似をしてくれたものだ。
「セオ」
 神を意味するギリシャ語、Theos。何故こんな名前をつけたのだろうか、とXANXUSは不思議そうにこちらを見上げている幼児を見下ろしてそう思う。
 夢のお告げかと、そんな風につけた名前だが、響きだけは気に入っていて(それでも自分はあまり呼んでいないが)、それでも誰かがその名前を呼ぶたびに、自分がつけた名前を口にする度に、自分の子供だと言うことを実感した。
「セオ」
「セオ」
「それが、――――――てめぇの、名前だ」
「セオ!」
 俺がつけた、とくつりとXANXUSは肩を揺らして笑う。XANXUSが笑ったことが、嬉しかったのかどうなのか、セオはきらきらと笑って手を叩く。
 そして、XANXUSが腰かけているソファに、どうにかこうにかと必死になってよじ登ると、とすんと隣に腰を落ち着けた。と、思いきやすぐにXANXUSの膝の上に這い上がってくる。騒がしい餓鬼だ、とXAXNUSはセオの行動を黙って見ていた。
 セオは父親の固い膝の上に上半身を乗せると、首をかくんと背中側に倒してXANXUSの目を見上げた。赤い赤い、ルビーのような目の中に濁った灰が混ざった赤が映し出す。
「Bello(きれい)!」
「…ふん」
「Occhio(目)、bello!」
 その言葉にXANXUSは口元を笑わせて、人差し指でセオのまだ小さな鼻を押し潰す。それにセオは同じように笑って、naso(鼻)と大きな声で反応する。その反応が面白くて、XANXUSは次は手を掴む。
「Maso!(手)」
「ちったぁ、頭もついてきたみたいだな」
「あーたま…あたま、testa!」
 そう、笑っているとふとソファの端に置いてあった携帯の音が鳴る。セオは一度背を震わせたが、そちらに目を向けてXANXUSの手が伸びるよりも早くそれを手に取る。
「おい」
「Telefono!(電話)」
「分かったから返せ、糞餓鬼」
「…セオ」
「…図に乗るのも大概にしておけよ」
「セオ!」
 ぷぅ、と頬を膨らませてセオはXANXUSに自分の名前を要求する。その小さな指先は電話の通話ボタンに知ってか知らずかかかっている。XANXUSは一つ舌打ちをし、根負けして、セオと名前を呼んだ。それにセオは満足げに微笑んでから、XANXUSに手の内の物を渡した。
 携帯を受け取るとXANXUSはセオの頭に拳を落とし、それから泣きわめくセオを無視して電話と耳に当てる。ぷつ、と一度音が止まり、それから電話の向こうから声がする。
『XANXUSさんですか?』
 自分のことをこんな風に呼ぶ人間も、それから親しげに日本語で会話を求めてくる人間も、XANXUSが今のところ知る人間では絞られている。さらに言えば、それが女の声で、勿論自分が見知っている人間でいえば、それはただ一人しかいない。
「…どうした」
『…なんだか、酷い泣き声が聞こえるんですが…大丈夫ですか…?』
 ちょっと心配になって、と電話向こうで東眞が多少のうろたえを見せていた。XANXUSはセオの口を無理矢理大きな手で塞いで、平気だ、と答える。
「餓鬼の一人や二人…どうということはね…っぇ゛!この!」
「や――――――!!!」
 XANXUSは指に噛みついたセオの頭に何度目かになるか分からない拳を落とした。当然殴られた子供はぎゃんぎゃんとわめきたてるようにして泣き叫んだ。
「うるせぇ!」
 怒鳴ったXANXUSの声に、東眞は多少の不安を覚えたのかおずおずと申し出る。
『…なんでしたら帰りましょうか…?買い物、終わりましたし…』
「―――、平気だっつってんだろうが。てめぇは映画でもなんでも見てきやがれ」
 見栄でもなんでもなく、XANXUSは今度は噛みつかれないようにセオをソファに押し付けた状態でそう告げた。
 ばたばたと手足が暴れているが、もうお構いなしである。う゛ーう゛ーと唸る声が窒息寸前に聞こえる気もするが、それくらいで死にはしない。どれくらいの長さで人間が窒息死するのかくらいXANXUSはしっかりと心得ている。まだ、もつ(そういう問題ではない)
『な、なんだか急に静かになりましたけど…セオ、寝たんですか?』
「永眠はしてねぇ、心配すんな」
 時計の針を眺めながら、XANXUSは平然と電話にそう返した。東眞はそんなXANXUSにもう一度、帰りましょうかと尋ねた。
 そしてふ、とXANXUSはそんな東眞の声に、おい、と声をかける。
『はい』
「…呼べ」
『セオ?』
「違ぇ」
『…XANXUSさん?』
 その名前だ、とXANXUSは思う。そしてもう一度、と命令した。それに電話向こうの声は狼狽しながら、名前をもう一度繰り返した。XANXUSさん、と。
『あの、どうかしましたか。私やっぱり帰った方が…』
「いい」
 観てこい、とXANXUSは東眞にこれ以上言わせる前に電話を切った。
 そして呼ばれた名前を口先で小さく反復する。XANXUSはソファに押し付けていたセオの頭をようやく解放した。セオはぷぅとほっぺたを両方膨らませて、XANXUSをはじめは睨みつけていたが、放り投げられた携帯電話に興味を示してそれを手に取る。
 名前を呼ばれると言うのは、呼ばれるための名前があると言うのは悪いことではないとXANXUSは小さく笑った。しかしその笑みはすぐさまセオの声に顔から消え去る。
『はい。どうかしました
「マーンマ!マンマ!セオ!」
『…セオ?えぇと、XANXUSさん?あの』
「この…糞餓鬼!!」
 リダイヤルを押したセオの頭にXANXUSはもう一度拳を落とした。そして、XANXUSはセオが取り落とした携帯電話の電源ボタンを押して、会話を強制終了させた。

 

『糞餓鬼!!』
 ぶつ、と切れてしまった電話に東眞は目を丸くする。一度切られたはずの電話がまたすぐにかかってきて、何があったのだろうかと驚いている矢先にセオの声。そして怒声。あまり頭を強く叩きすぎなければいいのだけれど、と東眞はそんなところを心配する。何しろセオの頭はスクアーロの頭部とは違うのだから。
 やれやれと苦笑しながら、東眞は携帯を鞄の中におさめる。
 と、そこにジェラードを片手にしたルッスーリアが戻ってきた。
「はい、東眞。味はオレンジでよかったかしら?」
「はい。有難う御座います」
 そう答えて、東眞はルッスーリアの手からジェラードを受け取る。そしてルッスーリアは東眞の隣に腰を落ち着ける。
冷たいジェラードに舌を震わせて、しかしそのおいしさに口元を緩ませながら東眞は美味しいです、と答えた。
「Grazie.ここのジェラード、この間雑誌に紹介されてたのよね。美味しいわー。で、ボスはどうだったの?ボスは今日一人でしょう?何だかんだ言って、私もちょっと心配なのよね…」
「大丈夫…と、本人は言ってましたけど…」
「それから?」
「映画観て帰って来い、だそうです」
「つまり予定通りに行動して来い、と」
「まぁ」
 その通りで、と東眞はジェラードを一口含んで、口の中で溶かしながら答える。
 とは言えども、心配なものは心配、というしかない。あのセオが大声で泣いていた理由と、それが突然やんだ理由も気になる。
「永眠はしてないって…」
「永眠、ね…ボス…大丈夫かしら…お昼後に出てきたのは正解だったわね…」
「キッチンが地獄絵図になりますよね…流石に」
「その通りよ。いくらボスでも任せられないわ…」
 ちょっとした恐怖ね、とルッスーリアは身を震わせる。それは別にジェラードが冷たいから、というわけでもない。
 東眞は腕時計に目を落として、あと三十分ほどで開演なことに気付く。映画自体は約二時間もある。帰る時間も含めて、三時間と少しは必要である。ううん、と東眞は唸った。そんな東眞にルッスーリアは苦笑する。
「スクアーロはいつ頃…」
「スクアーロとレヴィは駄目ね、明後日にならないと帰ってこないわ。あのジャンが地下室から出てくるとは思えないし…」
「…ですよね…」
 地下室でパソコンと戯れている(多少の語弊があるかもしれないが)姿を思い浮かべて東眞はがっくりと頭を落とす。それにルッスーリアは慰めとばかりに肩をぱんぱんと軽く叩いた。
「そう心配しないのよ。ボスだって…まぁ、生きてるなら大丈夫よ。骨折とかの心配もないでしょうし…ね」
「骨折の心配までは流石にしてませんけど…心配なものは心配で…」
「東眞もいい加減心配性ねぇ…」
 もう、とルッスーリアは子と夫を心配する東眞に苦笑をこぼす。そして、すいと未だ心配している東眞の手を取ってぐいと前に引っ張る。
「まぁ、いいじゃないの。今日は任せちゃいなさいな。ボスが大丈夫なら大丈夫よ。それに折角ボスが観てこいって言ったんでしょう?こんな機会滅多にないわよー。女二人で大いに楽しみましょ!」
 映画館の入り口へと引っ張られて、そして東眞は映画のポスターをちらりと見て。そして、口元を緩めた。ルッスーリアの手を握り返すと、少し小走りになってその隣まで追い付く。
「そうですね」
 そう言って、東眞はルッスーリアと一緒に映画館の券を買うために列へと並んだ。