1
翁面。それをかぶっている人間の体付きは男のものである。
外は暗闇。その中で白いその翁の面だけがぽっかりと浮いていた。月の光すらも届かないところで、ただ家の光をその白い面は受けている。
するりと男の腕が持ち上がって、インターホンを鳴らす。ぴぃんぽん、と静かな音が無音の空間に響く。男が腕にしている時計は丑三つ時を指していた。しかしその時刻でも、この玄関からは明かりが漏れている。インターホンを鳴らしてから暫くすると、からりとその玄関が引かれて家の中があらわになる。男の前には顔に深い傷のある男が立っていた。
「邪魔をします」
翁面の奥からその声が響く。面の影響か、随分と音がこもっている。
哲はその場に立つ男を知っていた。佐藤清隆、シルヴィオが日本での片付け屋の仕事をやめて、それから紹介された男である。尤も、その男の名前はどの道偽名だろうと哲は思う。否、確信している。何しろこの男は、名前を聞かれた際に「佐藤清隆、とでも」と言ったのだから。それが偽名以外の何物でもない証拠である。そもそもこの仕事をしていて、名乗った名前が本名であると言う場合は少ない。ほぼない、というのが正確か。
「何の用でしょうか、佐藤氏。仕事を頼んだ覚えはありませんが」
「あなたの仕事ではありません」
すいとその視線が揺れ動いて、哲の背後へと向いた。静かな足音とともに姿を現したのは、インターホンを聞いて身形を整えて出てきた少年。坊ちゃん、と哲は反射的に名前を呼び振り返った。だが、その顔のすぐそばを人の気配が過ぎ去る。ごぅ、と風の音が鼓膜を撫で上げた。
玄関先にあった能面の男の背中を哲の目が既にとらえていた。背中に掛けられているのは、武器。
ぞぁと哲の行動は速かった。行動を脳が指令を発する前に、脊髄反射のごとく腕が跳ね上がって懐の拳銃を手が掴む。そして即座に遊艇を引き、目の前を高速で走り抜けた男の後頭部へと狙いを定める。撃ったとしても、銃弾は貫通せずに男の脳内で止まる。
しかし、迫った男の動きに、修矢も即座に対応する。この時間帯に来る人間は大抵まともな職についている人間ではない。腰に帯びる刀の柄を握り、男が持っている刀に反応しながら、それを鞘に滑らせる。男の後ろで銃を構えている哲の姿も視認している。一撃を受け止めて、動きを止めれば男は確実に死に至る。
目の動きさえ読みとれない能面では視野が狭まり、哲の動きを悟ることは不可能である。
修矢はずるりと相手が引き抜いた背中の武器、刀とも剣ともつかぬ刃を己の刃で受け止めようとした。だが、その刃は、目の前で消えた。なに、と声を上げようとした次の瞬間には、背後から静かな声が掛けられ、銃口をこちらに向けている哲の姿が障害なく修矢の視界に入る。
「遅いですよ」
ぴたり、と喉元に鋭い刃。鋭利なその刃物は、こくりと唾を呑んだ修矢の皮膚に柔らかに当たった。背骨の位置を砕くためなのか、それとも他の目的なのか、肋骨を避けるために水平に構えられた小刀の切先も合わせて押し付けられている。
背後から深い声が響いて、玄関先でこちらに瞳に鋭い光を宿らせたままに銃を構えている哲に届く。
「撃つならば、撃ちなさい。あなたの銃弾は私ではなく、この少年を貫きます」
修矢の背後に完全にその体を隠している能面の男は、佐藤清隆(偽名)はそう静かに告げた。だが、その男の動きが僅かに怪訝そうな空気を持つ。刃を向けている少年の気配が、少しばかり揺れて、そして静かな水面となった。
哲、と刃を添えられたままの喉で修矢はその名前を呼ぶ。
「構うな――――――――撃て!」
男は能面の下から、哲の動きをみる。先程の一言で、揺れていた気配が静まり、微かに引き金を引く音がした。それに男はようやく修矢首元から武器を離し、背中に押し付けていた切先を一回転させて元来のホルダーへと戻す。
「銃を下ろしなさい、榊哲。攻撃の意思はありません」
男の言葉に修矢は隣に出てきた能面をちらりと見て、哲へと手を伸ばし銃を下ろすように指示する。修矢の行動に、哲は警戒心だけは解かないまま銃を懐にしまった。
「失礼しました、桧修矢」
「――――――仕事の金は支払ったはずだ、佐藤清隆」
鋭い怒りを滲ませて、修矢は警戒心と共に男を睨みつける。それに佐藤、と呼ばれた男は違う、と否定する。
「シルヴィオ・田辺に伝えられませんでしたか、桧の組長」
何の話だ、と修矢は怪訝そうに眉を潜めた。男はゆっくりとした動作で顔を隠す能面を取った。浅い茶色の瞳が暗い影から光の下に晒される。その顔に、哲はその名前を、呼んだ。
「La Morte」
「死神、ですか」
スクアーロが剣の手入れをしている側で、東眞はセオの背を叩きながら寝かしつけていた。暫くもそうしていれば、セオは母の腕の中で瞼を閉じて、一層重たくなる。
赤子が寝たことに気付いてスクアーロは声量を下げてから話を続ける。
「お゛お゛、死神だぁ。日本にある流派ぶっ潰しに行った時についでに死合うつもりだったんだがなぁ…」
「会えなかったんですか。それとも」
「いや、事故だか何だか…よく覚えちゃいねぇが、死んだようでなぁ。流石に死人に剣持たせても使えやしねえ」
ありゃ残念だった、とスクアーロは至極気落ちした様子でそうこぼす。そんなに強い相手だったのかどうかは東眞に判別はつかないが、スクアーロがここまで切望した相手ならば、なかなかの相手に違いない。
剣の刃の具合を眺めながら、スクアーロはもう一度溜息をついた。
「生きてりゃ、是非とも剣で語り合ってみてぇもんだぜぇ。死神の名は伊達じゃねぇだろうなぁ…聞いただけでもぞくぞくしてくる」
強いものをひたすらに求める剣士の顔になってスクアーロは口元を歪めた。東眞にその感覚は全く理解できないのだけれども、ここまで楽しげな顔をしているスクアーロを見るのも久々である。
スクアーロは剣の表と裏を確認してから、その刃を布で最後に一拭きしてから義手に取り付ける。かちんかちんと無機質な音が晴れた空の下で妙な具合に響いた。
「年の程は知らねぇが、その殺しっぷりは凄まじいもんだったんだとよぉ。話だけだが…まぁ、死んじまったもんは仕方ねぇ。地獄に行った後にでも探して、決闘を申し込んでやらぁ」
「随分と先の話になりますね…スクアーロはそれまで待てるんですか?」
「う゛お゛おぉ゛い、俺をどこぞの待てのできねぇ男と一緒にするんじゃねぇ」
誰かとは言わねぇがなぁ、とスクアーロはにやりと笑ってしっかりとつけた剣を振るった。ごう、と風を切る音がする。スクアーロ曰く、待てのできない男、が投げつけてくるグラスや銃弾は今日は幸いない。
言われたい放題だなぁと思いつつ、東眞はその言葉を完全否定しない、できないあたり苦笑をするしかない。
「惜しい男をなくしたぜぇ」
ぽつん、と剣の動きが止まってぼやかれた言葉に東眞は視線をずらして、スクアーロのその背中を見る。
強いものばかりを追い求め、剣の道に生きる男はそうやって戦いを常に求めている。スクアーロ、鮫、の名のごとく止まれば呼吸ができなくなり死んでしまうのではないだろうかとそんな風にすら思えた。
「スクアーロは、剣帝を倒したと…ルッスーリアに聞きましたが」
「おお。強かったぜぇ…あれはいい戦いだった…腕一本差し出しただけのことはある」
そう言ってスクアーロは既にない義手へと視線を止めた。そこには、剣士の顔があった。ざぁと吹いた風に銀色の髪がさらわれて流れていく。だがまぁ、とその銀色の中から声が響いた。
「俺はあいつについていくために、もっと強くなる。それから剣の道も極める」
風がやみ、流れていた髪はするらと下へと流れて、しっかりとした表情でそう言ったスクアーロがそこに立っていた。そういやとスクアーロはそこで話を変える。
「てめぇの弟も刀やってたなぁ」
「はい。自己流なんですけど…でも強いでしょう?」
「…ああいう、覚悟のできてるやつは俺は好きだぜぇ?」
強いかどうかの答えをスクアーロは器用にはぐらかして、東眞の隣の椅子にどっかりと腰を落とす。足を組んで義手からその刀をはずし、こきんと義手の動きを見る。
「死神、ですか…」
ぽつんと東眞は最初に呟いた名前を繰り返した。死を運ぶ神、死を司る神、死を受け入れる神。このスクアーロにそれほど言わせる男は一体どのような人だろうか、と東眞は思った。しかし、それはもう墓の下である。
そんなことを考えていると、腕の中でふくしゅ!と小さなくしゃみが上がる。寝たままではあるが、やはり少し寒いと見える。東眞は羽織っていたカーディガンを脱いでセオの体を寒くないようにとくるむ。それを見ていたスクアーロは東眞に声をかけた。唸るような濁点交じりの掛け声に東眞はその声に耳を傾ける。
「コーヒー淹れてくれねぇかぁ。ボスもそろそろ戻ってくるだろうしだな…茶菓子でも用意してやったらどうだぁ」
「……そうですね、そうしましょう」
ささやかな気遣いに東眞は言葉にそった返答をすることで頷いた。
今日の茶菓子はどうしましょうか、と聞かれたスクアーロはそれにクッキーでいいんじゃねぇかぁと笑った。勿論、待てができない男は、隣のそう朗らかに笑う女性が作るものならば、文句を言わずに口にするのであろうが。
哲の呼んだ、佐藤清隆、とは全く別の名前に修矢は眉を顰めた。男は哲に呼ばれたその名前に、表情を動かすことはなく、一言、懐かしい呼び名ですと唇だけを動かした。
「まさか…死んだはず…」
どうやってと狼狽している哲に修矢は哲、と声をかける。哲はそれに我に返り、すみませんと謝罪した。そして修矢は隣に立っていた冷たい目をしている男から二三歩距離と取り、そして鋭い瞳で男を一瞥した。その唇が動く。誰だ、と。
「―――――――その、死神の藤堂っていうのは」
無論答えを知るべきものは、翁の面をはずした男のみ。