31:二人でお留守番 - 1/4

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 文字の書かれた紙。サインをするための万年筆。インク。固い机。座り心地のよい椅子。それから光のさしこむ窓の両脇に縛られた重厚なカーテン。そして、人間の言語を果たして解しているのかどうなのか、微妙な生物。絨毯の上に腰をおろして、クレヨン片手に紙に絵を描く。もしもその紙が重要書類の裏だとしたら、クレヨンを持つ生物の頭には拳が一つ落ちることは確実である。
 小さな頭がくるりと動いて、こちらを見上げてきたXANXUSはセオのその動作に僅かながらも眉間に皺を寄せた。
「バッビーノ、マンマ!いた!か」
 きらきらと笑顔で白い紙に描かれたカラフルな絵をセオはXANXUSに提示した。一歳半ばにしてはかなり喋れる方なのだとルッスーリアが語っていたのをXANXUSは思い出す。 しかしながら見せてきた絵は人というよりもただの丸と四角である。どう頑張ってもそれが人に見えることはない。
「下手糞」
 下手糞の意味を知っているとは思えないのだが、罵倒されたことはどうやら分かるらしく、その大きな眼が潤み始める。までカウントダウンは必要か。
 しかし今日はその耳障りな泣き声を止めるための人材はいない。たった一人で、いる。他の連中は全員任務に放り出しているし(何かと最近忙しい)東眞はルッスーリアと一緒に珍しく買い物に出かけている(許可をしたのを今更後悔する)
 どう付き合えば、どう向き合えばいいのかよく分からない。思ったままのことを言えば、このように明るい目に一杯の涙をため始める。かといって、悪戯に上手いなどと世辞を言うつもりもなく、煽てるつもりも自分にはない。世の厳しさを知ればいいのだ。じろりと強い目で見下ろせば、びくりと震えて、下唇を乳歯でくむと噛んで鼻をすする。一丁前に。何を期待しているのかは知らないが(それに分からない)褒めてもらいたければ他の人間に媚びたほうが良い。
 以前東眞が「お父さんですからね」などと言っていたのは覚えているが、今一、父親として何を求められているのかが分からない。それをスクアーロが耳ざとく聞きつけて、父親と子供が一体どう接するべきかを書いた冊子を押し付けてきたので、殴り返した。
 おしめもとれて(今はどうやらトレーニング中らしく)パンツだということは知らされている。
 XANXUSはそこでふと東眞が出かける前に置いて行った小さなメモ帳を手にとって開く。こういう時はこうすればいい、ああすればいいというのが分かりやすく箇条書きにされていた。
「…バッビーノ」
「…なんだ」
「ぽんぽん、へった」
「あぁ?」
 ぽんぽん?と聞いたこともない言語にXANXUSは苛立ち交じりの声を上げる。それにセオは怯えたように目を見開いて、ぱっとその頭の上に先程見せてきた紙を乗せる。そんな程度で守ったつもりか、と怒鳴りつけたかったが、そこはかろうじてこらえて置く。かろうじて、だが。
 父親としての威厳とはいかなるものかがよくわからない今、XANXUSの手元にあるのは東眞から預かったこのメモ帳だけである。カテゴリ別に分けられているので、言葉のページで止まってそれを開くと、上から書かれてある文字をたどっていく。何とも間抜けな光景であるが、それを指摘する者はいない。
「ぽんぽん」
「るせぇ、黙ってろ」
「…へっ
「うるせぇっつってんだろうが。頭ごと吹き飛ばすぞ、この糞餓鬼」
 見つからない文字に苛々しながらXANXUSは指先でもう一度上から「ぽんぽん」なる言葉を探す。へった、はもうそのままへったでいいのだろう。
 そうこうしていると、ふえと情けない声が机の向こう側から上がった。泣きだしたら厄介である。XANXUSは手を伸ばして、ティモッテオが置いて行ったクマのぬいぐるみを鷲掴むと、それをセオに向かって放り投げた。小さな体に大きなクマのぬいぐるみが激突する。もす、と音がして、セオはクマのぬいぐるみに押しつぶされた。しかしXANXUSはそれを気にする様子もなく、文字を探す。取り敢えず泣き始めなかったので、それでいいのかと認識した。
 そしてようやくその言葉の意味を見つける。
「腹?…腹が減ったのか」
 そうか、とXANXUSは少し勝ち誇った気持ちになる。スクアーロから言わせれば遅すぎる、だろうが。しかし腹が減ったことが分かってもどうしたらいいのか分からない。XANXUSはクマのぬいぐるみをようやく押しのけたセオに視線を向けた。
 いつも東眞が何を食べさせてやっていたかを思い出す。プリン、作れない。ホットケーキ、材料が分からない。サンドイッチ、何か食べさせたらいけないものあると面倒。
 XANXUSは逡巡した後に、まぁるい目をしているセオに向かって尋ねた。
「何が食いてぇ」
「Mela!(林檎)」
「そうか」
 話す言葉がイタリア語だったり日本語だったりと何かとせわしい子供である。
 兎も角林檎が食べたいということは分かったので、XANXUSはセオを黙らすために立ちあがって、林檎を一つ台所から持ってた。そしてそれを受け取るのが当然と言わんばかりにセオに向かって放物線を描くように投げる。
「食え」
 勿論、そんな投げ方をして二歳にも満たない子供がそれを受け取れるはずもなく、酷い音を立てて林檎はセオの頭を直撃した。情けねぇ、とXANXUSは子供のそんな様子を見て思わず顔を顰めた。
 XANXUSからの好意という名の攻撃を頭に受けたセオは当然いたいのか、ひぇ、としゃくりあげる。そしてXANXUSが待て、と一言言う前に大きな泣き声が部屋に響いた。痛ければ子供が泣くのは当然である。
「おい」
 剥いてもいないまるのままの林檎を放り投げ、それが子供の頭に直撃して、子供が泣く。
 経過だけ見れば至極馬鹿らしい光景ではあるが、XANXUSにはそれで何故子供が泣くのかが分からない。欲しがっているものを与えれば、当然泣きやむであろうと想定していたのに、何故かなく。たかだか林檎が当たったくらいでと考える。何しろスクアーロとくれば、頭にグラス、花瓶を叩きつけられても平気で涙一つ見せないのだから。
「あ―――――っ!!マンマぁ!マンマ―――――!!」
「…うるせぇ。あいつはいねぇ」
「マンマ―――――!!マンマぁ―――――!!」
 この糞餓鬼が、とXANXUSは持っていたペンを下ろして席を立つ。そしてクマのぬいぐるみのすぐそばでわんわんと泣きわめく子供に目線を落とした。
 セオは父親が側に来たことに気付いて、僅かに声量を落とす。XANXUSは落ちていた林檎を拾い上げて、またセオの前に差し出す。これが欲しかったのだろう、と言わんばかりに。
「食え」
 勿論、セオが知っている林檎とはきちんと一口サイズにカットされており、かつ皮が綺麗に剥かれている林檎である。掌ほどもある林檎、つまり顔の半分ほどもある林檎を差し出されたところで、それを食べるという選択肢はセオにはない。
 無論XANXUSがそんなことに気付くはずもなく、ようやく泣き声をおさめたセオに小さく鼻を鳴らした。
「No」
 ぐず、とセオは顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、XANXUSが差し出した林檎をはたき落した。
「Mela」
「…お望みの林檎だろうが…」
 林檎を握力だけで潰す勢いでXANXUSはセオを睨みつける。しかしセオもこうなれば負けていない様子で、ぎっとその朱銀の瞳で父親を睨み返した。
「No!マンマ!」
「…あぁ?」
 セオが伝えたいことが十分の一も分からずに、ただただ苛立ちだけが募っていく。XANXUSは林檎を潰して絨毯を汚すことはせずに、その林檎をセオの腹辺りに投げつけた。勿論そう力はこもっていない。
「それがMela、だ」
「NO――――!!!りーんごぉ、マンマぁ…っ」
「林檎だっつってんだろうが。てめぇの目は節穴か」
 千人に見せれば千人がそれは林檎だと頷くであろう林檎を睨みつけながら、XANXUSはセオに言葉をぶつける。しかしセオが知っている林檎というものは、こんなに固く丸いものではないので、No、と言い張る。
 そしてセオはXANXUSが腹に投げつけた林檎を両手でつかんで、自身の全力の力をもってしてXANXUSの顔面に投げつけた。だがそこはXANXUSで、林檎を顔にぶつけられる、などという無様なまねはさせない。当たるその一瞬前に投げつけられた林檎を灰にした。  ぐずぐずとセオは両目一杯に涙をためて、XANXUSを強く強く睨みつける。子供の食べ物の恨みは恐ろしい。
「ぽんぽん、へったぁ…マンマ…Mela…へったぁ…」
「うるせぇ。てめぇがいらねぇっつったんだろうが」
 誰もいらないなどとは一言も言っていないのだが、XANXUSから見れば、そうとしか取れない。
「や―――――!!!」
 とうとう癇癪を起したセオは手元にあったものを次から次へとXANXUSに向かって投げつける。勿論XANXUSはそれを体で受け止めてやるようなタイプの父親ではないので、投げられたものは次から次へと灰も残さずに燃やしつくす。ティモッテオがよこした幾つあるかも知れぬクマのぬいぐるみのうちの一つが、残念なことにこの世から消えた。
 投げるものがなくなって、セオはよたよたっとXANXUSの方まで歩いてくるとぺちんとそのブーツに包まれた足を掌で叩く。ぶら、と足をXANXUSが軽く振れば、セオは当然重心が頭に乗ってしまい、ころんとこける。
 数秒間そうやってじぃっとしていたが、そこで何が起こったのかようやく理解して、腹ばいになる。そしてわなわなとふるえると、また声を上げた。
「カス」
「…」
「バッビーノ、カス」
「てめぇ…」
 カス、という言葉が相手を罵倒する言葉だと言うのはセオも学習済みだったらしく、目を潤ませながらも必死に対抗した。ひくり、とXANXUSの口元がかすかに引きつる。燃やし尽くしてやる、とも言えないのが父親の性。
 ただし手だけはしっかり出たようで、XANXUSが振り上げた手は容赦なくセオの頭に落ちた。

 

 ルッスーリアはその綺麗に整えられた指先で可愛らしい服を一着手に取る。そして、くるりと一回転してから、それを東眞に着けた。
「こんなのはどうかしら?値段もお手ごろ価格だし…悪くないんじゃない?新鮮で」
「でもすこし色が派手すぎやしませんか?もう少しおちついた色の方が…」
 そう言って東眞は明るい朗らかな色ではなく、暗色系の色へと手を伸ばす。無論それにルッスーリアは駄目よ!と声を高く上げた。そして東眞が伸ばしていた手の先へとその鍛え上げられた体を滑り込ませる。その肉体美を覆うのは本日も素晴らしいセンスの服。
 ルッスーリアのセンスは大層いいのだが、個人的趣味とは少し誤差が生じているなと東眞は思った。
「いいじゃない。東眞だってまだ若いんだから、もっとチャレンジしてみなくちゃだめよ。こうもっと女としての色気を出す服とかもいいと思うんだけど…ほら、このスリット入りのスカートはどう?」
「スリット深いですよ…いくらなんでも」
「ボスが手を入れやすくて喜ぶわよー」
「…手を入れやすくしてどうするんですか…」
 全く、と東眞は苦笑をこぼして、普通のスカートを手に取る。その大人しめなスカートにルッスーリアは幾度目かになる溜息をついた。
「んもう、東眞。女はもっと自分を見せる服を身につけて、磨いていかなくちゃ駄目よ?常に美しく!」
「XANXUSさんの前でそう気を張っても仕方ないんですけどね…」
「そんな停滞期みたいなこと言わないのよ。ボスだって東眞が綺麗な方が嬉しいに決まってるじゃない」
「…だと、いいんですけどね」
 ぽつ、と呟いた東眞の声があまりにも沈んでいたので、ルッスーリアは小首をかしげる。それに東眞は考えても見て下さいよ、と溜息交じりにルッスーリアが選んだ服を広げてみる。
「私、今まで一度もXANXUSさんに綺麗だとかって言われたことないんですよ。それはまぁ、自分が綺麗だと思ったことはないですけど…。でもお洒落をしてみたり、普段と少し髪型を変えてみたり、やっても何かを言われたことって一度も…ないんですよね…。」
 ああボス、とルッスーリアは寡黙な自分の上司の姿を思い描いて嘆息した。東眞もそんなルッスーリアを見て、分かってるんですけどね、とぼやく。
「確かにXANXUSさんが手放しに私を褒めたら、それこそ熱があるのかと疑いますが…」
「でも一言くらいは欲しいっていうのは乙女心なわけね」
「もう乙女って言う年でもないんですけどね」
 そう、苦笑をこぼした東眞にルッスーリアはそうねぇ、と小指を立ててしばし考える。しかしながら、ルッスーリアにも今一良い考えは浮かばない。あの、XANXUSが人を手放しに褒める姿がまず想像できないのだ。東眞を見て、「綺麗だ」や「可愛い」などという姿が、これっぽっちも想像できない。
 頬の筋肉を僅かに引きつらせたルッスーリアに東眞は小さく困ったように笑っていいんですよ、と言う。
「気付いていてもいないにせよ、まぁ、XANXUSさんですから」
「…東眞…あなた健気ねぇ…」
「慣れって…凄いですよね」
「…」
 少し目が遠い方向を向いていたのだが、ルッスーリアはそれ以上突っ込むのはやめることにした。何か大切なものを失いそうである。
 ああそう言えば、と東眞はふと時計を見て不安げに眉尻を落とした。
「セオ、おやつの時間ですね。メモ帳渡したんですけど…XANXUSさん大丈夫でしょうか」
 大丈夫、とははっきり言えないルッスーリアである。大丈夫なんじゃない、多分、とその後に不確定要素をつけてルッスーリアは小さく笑った。
「でも、ちゃんとやることはメモ帳に書いたんでしょう?だったら、心配しなくても…多分、大丈夫よ。多分、ね。折角ボスがくれた休日なんだし、東眞はもっと羽を伸ばしていいのよ。たまにはボスに育児押し付けちゃいなさいな。Jrは何だかんだでボスの息子だし、ボスは父親なんだから、そんなに心配しなくても世話してるわよ」
「だといいんですけど」
 どうにも心配なんですよね、と東眞は手にしていた服を元あった場所に戻した。そして、自分たちも一服しますかとルッスーリアに笑いかけた。