30:la Morte - 7/8

7

 伸ばされた手の先、その指先を東眞の視線がまっすぐに見つめていた。しかし、藤堂の手へと東眞の指はピクリとも動かない。それに藤堂は怪訝そうに首を傾げた。
「東眞ちゃん?」
 呼ばれた名前に東眞は口元を微笑ませて首を横に振るった。その反応に藤堂はひどく、大層ひどく悲しそうな顔をする。
「どうしましたか?帰りましょう。ここは、あなたのいるべき場所ではない。とても危なくて、命をいつ落としてもおかしくない場所です。修矢から聞きましたが、結婚されたそうですね。相手がどこの誰とは聞きませんが…兎も角、危ない男であることは確かでしょう。ここの二人はあなたの護衛ですか?それとも見張りですか?」
 ここの、という言葉は見事にXANXUSとスクアーロを示していた。だが、東眞にはその前に藤堂が口にした名前に目をまたたかせた。
「修矢?」
 今、自分と彼との会話はひどく混乱していて、よくよく相手に話が伝わっていない。
 一見すれば伝わっているように見えている会話も、結局のところ分かっていなくて、質問に返すだけという形になっている。相手の真意も分からず、ただ表面上の言葉だけがやりとりされていた。
 それに、と東眞は思う。先程からスクアーロが言っている「死神の藤堂」と自分が言う「藤堂のおじさん」がはたして同一人物なのかとも。自分が知っている「藤堂のおじさん」は能面集めが趣味な人であった。よく家に遊びに来ては、一緒にお手玉や双六、トランプなど色んなことに付き合ってもらった。両親からは、母方の遠縁だとしか聞いたことがない。しかしながら、幼い時分にはそれで十分であった。良き遊び相手であり、良きおじさん。それ以上に何を求めようか。だから東眞は藤堂が一体どんな仕事をしていたか知らないし、知る必要もなかった。勿論これからも、それはない。
 修矢と名前を呟いた東眞に藤堂はそうですよ、と優しく返した。
「彼の指導を頼まれましてね。荒削りではありますが、磨けば光る子だと私は思います。尤も、東眞ちゃんとは住む世界が違うようですが」
「私の、弟です」
「無理矢理、の結果でしょう。意に染まらぬ結果であなたは半ば無理矢理引き取られた。私が…鬼籍になど入っていなければ、もしくはその時点で即座に帰国していれば、こんなことにはなりませんでした」
 本当にすみません、と藤堂は頭を下げる。
 子供のころには感じ取ることのできなかったその歪さを、今の東眞ははっきりと感じ取ることができた。
 彼の世界には、ただ一人、彼しか存在しない。他のものが一切存在しないのである。法も秩序も、全てがただ彼でしかない。他人と比べることをしない。比較対象を求めない。それ故に、自分の言葉は彼の言葉を上滑りして、そして消えてしまう。
 XANXUSとはまた違う。彼は他人と自分を比較する傾向が強くある(見下す、という意味でだが)だから彼に話しかければ、それに沿った答えがきちんと返ってくる。彼には彼の法律しかないが、その法律は彼を形成する社会の中できちんと機能するものだからである。
 彼の世界において、自分が今いるこの世界は非常に危険なものであり、幸せなどあるはずもない世界なのである。成程それでは話が伝わる訳もない。幸せだと、いくら声を張り上げたところで、彼は首を傾げるばかりだろう。
 ぴくりと動いた東眞の表情に藤堂は伸ばしていた手をするりと下ろした。
「そこに繋がれているのですか?成程、彼らのやり口というのはそう言うものです。裏切れば、裏切った張本人をどん底まで苦しめる。本人ではなく、その周囲を死に至らしめることで」
 あなたは優しいから、と藤堂はまた筋違いのことを言った。
 そんな藤堂の言葉にXANXUSは、静かに、ただ静かに何を言っている、と思った。
 東眞がただ優しいだけの女なわけがない。この女は、状況に応じて、冷酷に切り捨てることのできる部類の人間である。全体を見た上で、一体何が最善かを模索し、最良の一つを取ることによって払われる犠牲を覚悟するタイプだ。ただ一つ、それが自分たちと違うとすれば、それは彼女はそれを悲しむということだろう。自分たちは、悲しまない。決して。
 死んだ仲間に捧げるのは、哀悼ではなく尊敬である。
 こんな馬鹿げた男に、自分の隣に立つ女がついていくことはないだろう、とXANXUSは銃をしまった。無理矢理、という方向も目の前の男には一切感じられない。そうならば、すでにもうかっさらっていてもおかしくはない。
「修矢はあなたが幸せだと言っていましたが…私には、そう見えません。あなたは、もっと自由にしているべきです。囲われた幸せなど、どんな両親が望むでしょうか。そんな前近代的な幸せは老いが来れば無残に捨てられるか殺されるかです」
「私は、幸せですよ」
 おじさん、と東眞は伝わらないことを承知で口にしてみた。とても幸せですと続ける。だがやはり、想像通り、藤堂は首を悲しげに横に振った。
「この世界にすむ男は、酷い人間ばかりです。いずれ、あなたは泣かなくてはならなくなる。あなたがそれで言いといっても、相手はあなたを捨てて、悲しみにつき落して喜んぶのでしょうから。幸せになってください、東眞ちゃん。死んだご両親の分も」
 言葉だけをとれば、どれもこれも正論である。しかしやはり彼の言葉は浮いている。
 これ以上話が長引くならば、XANXUSは彼を殺すだろうと東眞は思った。それは何の躊躇いもなく。できることならば、それは避けたい。スクアーロも刃を振りかざしたくてうずうずとしている様子である。
 何しろ目の前の自分の親戚は、あのスクアーロの「la Morte」なのだから。戦いたいと体が叫んでいることは、東眞から見ても分かってしまうほどに。
 自分の知り合いが殺されるのは、気持ちがいいものではない。しかも今回は絶対ではないのだから、できれば見たくない。殺し合いを回避するための方法は、藤堂が逃げの一手を取るか、もしくは自分と和解して大人しく引き下がるかである。身内贔屓といわれればそうかもしれないが、何も藤堂は自分の命を奪いに来たわけではない。ただの善意で、ここにきているだけなのだ。多少、ひねている善意だが。
 だがどうすれば藤堂が引き下がってくれるのか、東眞には分からない。言葉が通じないのであれば説得のしようがない。どうするか、と東眞は唇を噛んだ。
 じゃり、とその時地面を踏む音がした。

 

 からからと扉の引く音。それから全く体にすっかりと染みついてしまっている煙草の匂い。シルヴィオは入ってきた途端、奥から響いた激しく物が落ちたり壊れたりす音に口元をにやにやと笑わせた。
「じゃまするぜー」
 相も変わらず返事がないことを気にしないままで、シルヴィオはまるで我が家のようにその板でできた床に上がる。そして激しい音がした方向へ向かって、廊下の殺風景さに悪態を時折告ぎながら向かった。
 シルヴィオの手が暖簾を上げると、そこにはやたら物が散らかった(間違いなく今しがたこけたのだろうが)光景が広がっていた。修矢は目隠しをしたまま、落ちてきたものに頭でもぶつけたのか、酷く痛がっている。そして哲はと言えば、落ちてきた箱から飛び出した五月人形やらを溜息をつきながら元通り、箱に戻していた。
 シルヴィオは足元まで転がってきた、五月人形の首を拾ってほいと哲に渡す。
「おーおー随分と大変な様子だな、坊主」
「田辺さん」
「何をされに来たんですか。今すぐ帰ってください。げっとばっくほーむ、です」
「…一丁前に英語を使えると思いきや、とんでもなくひでー発音だな…英語を話す人間に対してこれほど酷い侮辱はねーよ」
「そこまで言われる必要はありません。自分は身の丈に合った英語を使っていますので」
 真顔で言い返した哲にシルヴィオはあまりにも気の毒そうな目線を向けて、首を軽く横に振った。この完全に馬鹿にしているほか何でもない行動に哲はむっと顔をしかめたが、それを今ここで言い合っても仕方ない。
 シルヴィオは物の散乱している部屋をそれ以上散らかさないよう道を選びながら、少し先にあった椅子を回して腰掛けた。まるでこの屋敷の王たらんとしているようなその行動に、無論哲は非常に不満げな表情をあらわにしたが。
「何をって哲坊。そりゃお前の訳のわからんプレイを見に来たわけだ」
「何がプレイですか。誰もそんな怪しげな行為はしていません」
「自分の主が目隠しされて狼狽する姿を見ながら内心喜んでたりするんじゃないのか?」
「今すぐ頭をぶち抜かれたいようですね」
 じゃき、と哲は銃の安全装置を外した。額にはくっきりと青筋が浮かんでいる。そんな哲を眺めながら、シルヴィオは遊んだ、とばかりにさてと本題を切り出した。
「藤堂の奴がしっかり仕事してるかどうかの確認、と、まぁ嬢ちゃんの心配はいらねぇってことの細く説明に来た。今回のことは俺も絡んでるしな。アフターサービスもばっちりです、と。次回のご利用は計画的にってやつだ」
「色々混ざってますけど、田辺さん…」
 修矢の冷たい突っ込みにシルヴィオは細かいことは気にするな、と手を振った。そして修矢はどうして心配がないんですか、とシルヴィオに尋ねる。修矢の問いにシルヴィオは簡単に、それはもうあまりに単純な一言を返した。それは、

 

「マーンマ!バッビーノ!」
 そこに白い花で両手を一杯にしたセオがふらつきながらやってきた。前が見えているのか見えていないのか、それほどに沢山抱えているのはスノードロップ。
「アーロ!」
 その隙間から、武器を構えていたスクアーロも見えたのか、セオは嬉しそうにその名前を呼んだ。とてとてと小さな両足で一歩ずつ進みながら、セオは東眞たちの方へと歩く。
 東眞は一度藤堂へと視線を向けたが、すぐにセオに視線を戻して、セオの方へと手を伸ばす。だが、セオはたどり着く前に、ぱったりとこけてしまった。そうすると、東眞の前に沢山のスノードロップの花がまるでハンカチを散らばしたように広がる。ふ、と小さくセオがぐずった。しかしすぐに泣くのをやめて膝小僧をはらうと、落ちてしまったスノードロップを二つほど拾い上げ、東眞へと差し出した。
「マーンマ」
「…グラーチエ、セオ」
 差し出された花を受け取って、東眞はセオをその両手で抱きあげる。するとセオは、ぱしぱしと東眞の腕を叩いて、今度はXANXUSの方へとその小さな手を伸ばす。同じようにスノードロップ。
 女以外に花など渡された記憶などないのだろうか、XANXUSは差し出された花を一瞬ためらってから、不承不承受け取った。XANXUSの手に花が渡ったのを見て、セオは嬉しそうに顔じゅうに一杯の笑みを広げた。
 東眞はそこでふと藤堂の表情が酷く驚いたものになっていることに気付いた。信じられないものを見た時の表情である。
「―――――――――――東眞ちゃん、」
 あなたは、と言葉が本当にゆっくりとした調子で紡がれる。そして驚愕の表情はゆるりと目を細めて、それはもう大層優しげなものへと変わった。
「幸せなんですね」
 一転した言葉に、今度は東眞が驚くこととなる。一体何を持って今の藤堂がそう言ったのか、全く見当がつかない。分からない。
「あなたが幸せならば、幸せであることを願うのが一番でしょう。引き離すというのは、あまりにも悲しい」
 周囲を置いてけぼりにして、一人で納得している藤堂にスクアーロが怒鳴りつけた。
「う゛お゛おぉ゛お゛い!!何てめぇ一人で納得してやがんだぁ!!」
「安心してください、銀色の人。私は彼女を日本に連れて帰るのはやめますから」
 銀色の人、で一蹴されてしまったスクアーロはぱくりと、怒りのあまり声も出ない。そして、藤堂はちらりとXANXUSへと視線を動かして、あなたなんですね、と確認を取る。返事はないが、それを了承と取ったらしい。
「では、東眞ちゃんを宜しくお願いします。彼女はとても、幸せなんですから」
「…?知るか」
 そう言うが否や、藤堂はひらりと東眞に手を一つ振って、地面を強く蹴った。そしてあっという間に木々の中へと姿を消す。スクアーロははっとそれに気付いて、慌てて後を追った。
 取り残された東眞とXANXUSはその二人が消えた方向へと視線をやっていたが、すぐに互いへと視線を交わす。
「誰だ」
「小さいころによく遊んでもらったおじさんです。生きていたのは、びっくりでしたが」
「…入れ、冷える」
 そう言って、XANXUSは東眞の上から泥まみれになったセオをつかみ取ると、片腕で抱き上げる。一つ冷たい風が吹いて、隊服が大きく揺れた。がつごつと乾いた地面をブーツが削りながら歩いているその後ろを、東眞はふと振り返って、そしてまた前を向く。
 幸せなんですね、とのたった一つの言葉はやはりどこか浮いていたけれども、それでもその一言は何故だかとても嬉しかった。後で凍えて帰ってきそうなスクアーロのためにコーヒーでも淹れようかとそんなことを思う。
「おい」
「はい、今行きます」
 そして扉は何事もなかったかのように閉じられた。

 

「子供」
 哲が繰り返した言葉にシルヴィオは頷いた。
「そう、子供だ子供。藤堂にとって、子供は幸せの象徴なんだな。男と女の幸せって何ですかという質問がありゃ、あいつは絶対に子供だと答えるだろーよ」
「で、姉貴には子供がいるから大丈夫だと」
「幸せだったら連れて帰らねーっつったんだろ?だったら平気だ。あいつは、約束だけは守る男だからな」
 煙草に火をつけようとしたシルヴィオだったが、哲がその手からライターをかっさらってばっきりと破壊する。それにシルヴィオはやれやれと溜息をついて肩をすくめると、煙草を胸の内ポケットに戻す。
「なんで、子供が幸せなんですか?別に、子供がいるから幸せってそういうわけでもないんじゃ…」
「それから先は別料金だ、坊主。ただの昔話さ、聞いてもいいことは一つもねーし、聞いたところでいい気分になる話でもない。別に嬢ちゃんに関係のある話でもなし、必要なのはどうしてそうなのか、ではなくて、そうであること、だろ?」
 どうする、と切り出されたが、修矢はいいですと話を断った。そして、だけどまぁと自分の目にしっかりとつけられた目隠しに溜息をつく。
「こんなものつけてどうなるんだか…俺は少しも意味が分からない」
「そりゃ坊主―――――――ま、一つ、教えてやってもいいぜ。ヒントくらいなら、この優しいシルヴィオ兄ちゃんが教えてやろう」
「…どこの誰が幾つで兄ちゃんですか…全く反吐が出ますね。言葉の上の若づくりもここまで来ると」
 精一杯の仕返しとばかりに哲は毒づいたが、シルヴィオは然程気にした様子もなく、哲にボール、と命令する。長年の経験か、それとも反射か、どちらにしろ教え込まれた哲はシルヴィオに自動的にボールを一つとって手渡した。
 そしてシルヴィオは修矢の前で右手左手、とそのボールを投げて動かす。ぱし、ぱしと音がした。
「今、ボールはどうなってるか分かるか?」
「…田辺さんの手の間を動いてます」
「何で動いてるって思う」
「それは、音がして…」
「では今は?どっちの手に?」
 ぱし、と音が止まって、動いていたボールの気配が消えてしまう。しかし、修矢ははっきりと右と告げた。勿論ボールはシルヴィオの右手にある。
「で、何で今、俺の右手にボールがあるって分かったんだ?」
「それは右で音が止まったから…で」
「そうだな。じゃあ、これは」
 そう言ってシルヴィオはボールを修矢に向かって転がす。しかし、部屋の中は物が散乱しており、それが修矢のところに届くはずもない。案の定、それはシルヴィオから数歩離れたところにあった本にぶつかって、方向をずらすと、哲の方へと転がった。
 途中まで向かっていた音が、何かに当たる音がして曲がる。床を転がる音。遠ざかっていく音。
 修矢はそこでふと止まった。何かに気付いたような表情にシルヴィオは、ここまでだ、と両手を上げた。
「つまり―――――いや、待って下さい。田辺さん。それは、つまり、気配のない物の位置を察知するんじゃなくて、そうじゃなくて…。その、気配のあるものから、気配のないものの位置を探すってことですか?」
「さーなぁ。それはまぁ、お前のお師匠になる男に聞くことだな」
 シルヴィオは椅子からのんびりと腰を上げて、大きく伸びをした。そして、哲に向かってこう言った。
「で、今夜は一体何の出前を取るんだ?」
 ポケットから大量に渡された出前の紙に、哲は恨みがましそうな目をシルヴィオに向ける。しかしながら、シルヴィオは非常に楽しそうな顔をして、俺は寿司がいい、と言って笑った。