29:こっちを向いて、バンビーノ! - 1/6

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 きゃら、とその表情が笑顔になる。銀朱の瞳が細められ、小さな手が持ち上がった。赤子特有の目元。一歩、体がうつぶせの状態から腹が持ち上がって手足の筋力だけで前進する。
 そんな様子を見ている白髪の老人が一人、目を赤子に負けず輝かせてとろぉりとすっかり表情を緩ませていた。
「――――――――…っ、XANXUS!セオがはいはいをしているよ…!」
「はっ!俺の餓鬼だ。当然だろうが」
 そして、そんな目を輝かせている老人の隣には勝ち誇った表情の顔に傷が入った男が一人。二人揃って絨毯に座り、各々の手に赤子を誘導するためのものを手にしている。
「ぁーんまぁー」
 はい、とその体が動く。ぺたぺたと絨毯に手足を沈めながら歩く様子ははいはい、と名付けられているのは一般知識である。子供の成長過程、大体九か月ごろに見られる現象で、早い赤子であれば八ヶ月ごろにマスターしている場合もある。
 老人、ボンゴレ九代目のドン、本名ティモッテオはやけにリアルなクマのぬいぐるみを腕に抱えてセオ、とその子の名を呼ぶ。とはいえども、実質的にその名前を呼んでいる者は意外に少なかったりするが。
「セオ、ノンノのところへおいで」
「ぁーんまぁ」
 それに子供の実父は、独立暗殺部隊VARIAボス、XANXUSは純粋な赤い瞳に鋭い対抗意識の色を滲ませて、隣の父親を睨みつけた。その手にはガラガラと喧しくなる玩具が握られている。強面の男が隣の男性を睨みつけてそれを鳴らす姿はいっそ地獄の番人であろう。
「黙れ老いぼれ。てめえはパラディオーゾ(天国)にでも行って帰ってくんな。来い、クソ餓鬼」
「XANXUS、クソ餓鬼はないだろう。お前が折角良い名前をつけたのに。セオ、おいで。私のバンビーノ」
「まんぁ」
 そんな光景を馬鹿馬鹿しいと思いながら眺めているのは銀髪の男。VARIAの剣士、剣帝を倒した男、ボスに悉くいびられる男、S・スクアーロ。
 全くくだらねぇ、とスクアーロは心のうちでぼやいた(口に出せば飛んでくるのは二人分の炎である)大体はいはい自体はもう随分と前から始めていたし(何分目の前の二人が忙しいせいか目にはしていなかったようだが)、先日など壁伝いにではあるが、伝い歩きをして東眞とルッスーリアが一緒に喜んでいた。レヴィなど感涙までしていたようだが。ベルフェゴールも時折手を引いて歩く練習(というよりもほぼ遊びだったが)をさせているようだった。
 そう言うわけで、実の父親が子供の成長過程を一番知らない、もしくはその情報に遅れているということになっている。嘆かわしいとは思わないが、もう少し家庭を顧みる――――――ことをすべきではないだろうか。
 赤子は二人の手元に在るその自分が好きな玩具に目を奪われているが、それと同時に火花を散らしている(ようにも見える)光景に微かに後退していた。そして何を思ったが、くるりと踵を返してこちらに向かってくる。そして足にすがりつくと、あぅと声を漏らした。この状況は非常にまずいもの、とスクアーロは認識した。背中を冷や汗がびっとりとつたう。二人分の、視線が向けられていた。
「ぁーお、あーぉ」
 自分のことを呼ぶ声である。どうやら各個人の名前も最近覚えてきているようで、拙いながらも呼べるようになってきていた。まるで犬猫を呼ぶようではあるが(ワンワンやらニャーニャーのような)子供ってそういうものですよ、と笑う母親にそうかぁと返したのは記憶に新しい。
 しかしながら、目下の問題はそんなことでは、ない。
「…スクアーロ…ノンノの私よりも先に名前を覚えてもらうなんてうらやましいものだねぇ…」
「…カス鮫如きが…」
 普段であれば、足を叩かれれば抱き上げてやるところだが、この場面で抱きあげれば自分の命はないだろう。
 変なところばかり似る父子にスクアーロは涙した。懐かれていないからと言って、こちらに殺気を飛ばすのは筋違いというものである。泣きそうだ。
 しかも残念なことにさらに足元の子供は自分のことを呼び続ける。あーぉ、とせめてアーロとでもしてほしいところだが、まだ口がよく動いていないのかどうなのか、しっかりした発音はしてくれない。レヴィなど「えいぃ」と呼ばれて、まさに、という話題で笑った。先日手に入った匣兵器がまさにそれだからである。ちなみにルッスーリアは「うっす」で日本の国技、相撲の掛け声に似てるわとルッスーリアが何とも言えない微妙な顔をしていた。逞しい呼び方である。それからベルフェゴールは「える」でマーモンは「まーおん」である。この中で一番まともなのは「まーおん」であろう。尤もこれも怪獣のようだが。
 大体こちらに不平不満の瞳を投げつけるくらいならば、もっと家族サービスを心掛けるべきなのである。いや、もう少し子供に呼び掛けるとかどうかをするべきなのだ(普段から足元に置いていたりはしていたから)時々しか来られない九代目とは違うのだし、本来ならば母である東眞の次に懐かれていてもいい存在なのだ。
 しかしながらそれがないのは、単にこの自分の上司である男が話しかけなどの行為をさぼったせいであるからして、自分のせいでは断固ない。言いがかりも甚だしい。足元に転がしているだけで実際に面倒を見ているのは自分たち幹部であると言っても過言ではない。
東眞が不在でルッスーリアがいるときは彼女(彼?)が一番面倒を見ている。まぁ、それでもルッスーリアをマンマと呼ばないあたりは母の力は偉大なりといったところだろうか。
 スクアーロは二人分の脅威から逃れるべく、思考をフル回転させた。
 笑顔で杖を持つ老人と、気のせいではなくて手に光をともす男はこちらに殺意を持っている。社会から抹殺される、というのは彼らが言えば洒落にならない。
 せめて二人のうちどちらかの名前を呼んでくれればと心底思うが、そんなに甘くはない。教えてもいない言葉を言うはずもない。
「あぁおー」
 ぐず、と抱き上げてもらえないので、とうとう赤子がぐずり始めた。東眞はどこ行ったぁ!とスクアーロは全身で母を呼ぶ。母を呼ぶのは何も子供だけではないのである。こうやって父親と祖父の脅威にさらされている人間もそれを唯一回避できるための最終兵器を呼ぶ。最終兵器○女、そんな日本の漫画もあったような気がする(恐らく内容は全く違うのだろうが)
「あーろぉーっ」
「!な、何だぁ、呼べるじゃねぇかぁ」
 ぽろ、とこぼれた正しい自分の名前にスクアーロは思わず反応してぱっと顔に笑顔を浮かべる。しかし、これは不味かった、とスクアーロは顔に笑顔を浮かべた瞬間にその笑顔を引きつらせた。
「アーロぉー」
 呼ぶな、とスクアーロは笑顔を強張らせてぎこちない動きで、父と祖父の方向へと首を回した。
 二人とも、目が据わっている。全く笑っていない(尤も片側の目が笑っている瞬間などそうそう見たこともないが)殺される、とスクアーロは社会的抹殺を覚悟した。しかしながら、そこにさらに言葉が重なる。
「おす、おーす」
 おすおす、と幼子はXANXUSを指差して笑う。ボス、と確かに呼ばれているので、確かに父を意味するパパーやバッボなどよりは聞き慣れているのだろう。XANXUSは発音自体が子供には難しいと思われる。せめて言えるならば、最後の「あす」くらいでだろう。しかしどちらにしても日本の挨拶を彷彿させる。
「おーす」
「ボ、ボスって言いたいんじゃねぇのかぁ?」
 赤い瞳の攻撃色がなくなり(これも日本のアニメで聞いた覚えがあったような気がするのだが)口元が微かに持ちあがる。そして老人の方へと赤い目が動いて、これまた勝ち誇ったように鼻が鳴らされた。むしろヴァリアー内では敗者と言いたいのだが。
「は」
「…まぁ、私はそうそう来れないのだから仕方がないか」
 と、言う割には笑顔で悔しがっているようにスクアーロには見えた。実際悔しがっているのだろう。
 ほっとしてスクアーロは足元の赤子を抱き上げた。すると、セオはスクアーロの長い髪をきゅぅきゅぅと引っ張りながら、アーロ、と呼ぶ。どうやら今度からは普通に呼んでもらえそうだとスクアーロは少しばかり嬉しく思った。
 すると二人分の視線が棘のようにぐさりと突き刺さったのに気づいた。二人の手には未だ玩具が持たれている。しまったと後悔しても時すでに遅し。
「い、いや、待てぇ…これはだなぁ、その」
 言い訳を試みたスクアーロだったが、目の前の二人が現状話が通じるとは到底思えない。ひぃ、とスクアーロは喉を引きつらせた。だが、丁度その時、背後の扉がノックされる。レヴィでもルッスーリアでもない、軽く叩く程度の。
「失礼します」
 と、顔を覗かせたのは子供の母親だった。流石に母親には勝てないのか、抱えた子供は東眞の姿を視認すると、そちらに手を伸ばす。
「まんまぁ!」
「はい。スクアーロ、有難う御座います」
 スクアーロは助かったの命の大切さを噛みしめながら、気にするなぁ、と胸をなでおろした。
 東眞はスクアーロからセオを抱き取り、こんにちは、とティモッテオと挨拶を交わす。
「セオ、ノンノですよ」
「おーんの、おーんのぉ」
「はい、ノンノ、です」
 言葉の先生である。ティモッテオの隣にいる男の表情がどんどんと不機嫌になっているのを分かっていてそれを繰り返させるのは勇者ではあるが。
 スクアーロはこれ以上の人災から逃れるためにそっと退出した。そして東眞は慣れた様子で失礼しますと断ってから腰を下ろした。
 玩具を手に立っていた二人は顔を見合わせてから、XANXUSは(その場にもしスクアーロが残っていれば投げつけられたであろう)玩具を投げた。<そして、ティモッテオはやけに写実的なリアルさをどこまでも追求したぬいぐるみを手にしたままソファに座りなおした。
「東眞さん、セオを抱かせてもらったもいいだろうか」
「勿論です、どうぞ。セオ、ノンノですよ」
「のーんの!」
 同じ言葉を繰り返すと、セオはそれに反応して、今度はしっかりとノンノ、と言う。無論面白くないのは、その隣に座る男だが。パパーは認めたくないにしても、何かしら父に関連する言葉を覚えさせたい。
 これ以上ないほど幸せな顔をして自分の息子を抱く父の側頭部で紅茶のカップを叩き割りたい衝動にXANXUSは駆られた。
 抱くのに満足したのか、ティモッテオは子供を東眞に返す。
「連れて帰りたいほどだよ。目に入れても痛くないというはこういうことを言うんだね」
 ティモッテオが言うと冗談に聞こえないあたりが恐ろしいのだが、東眞は笑顔でそれをかわした。そしてXANXUSの方を向いて、抱かれますか、と問う。しかしながら、XANXUSは首を横に向けて紅茶のカップを取ることでそれを拒絶した。まるで自分が抱きたいかのようではないか、と思っている様子なのは見ていても分かる。
 ところで、とティモッテオは話を変えた。
「匣兵器はどうだね、XANXUS」
「問題ねぇ」
「匣兵器、というと…スクアーロの鮫やレヴィさんのエイ…ですか?」
 ルッスーリアは孔雀ですよね、と東眞は確認する。それにティモッテオはそうだよ、と優しく微笑んだ。
「セオにも一つ用意しようかと思っているんだが…」
「死ぬ気の炎も出せねぇ餓鬼に何言ってやがる」
「そのうち入用になるだろう?」
 くだらねぇ、と吐き捨てたXANXUSにティモッテオはどうしようかと難色を示す。東眞はそこでふと思い出した。
「XANXUSさんは何なんですか?あまり、出されていませんよね」
 あまり、どころか開匣されたところを東眞自身見たことはなかった。とはいっても東眞は戦闘に出ることがないせいかもしれないが。
 それでもルッスーリアやベルフェゴールたちはよくその匣兵器を開匣しているわけだから、戦闘時に限って出している、というわけでもないのだろう。何かしら理由があるのだろうかと東眞は勘繰ったが、XANXUSは一瞥してから口を閉ざした。
 それにティモッテオが助け船を出す。
「XANXUSの匣兵器は天空ライオンだよ、東眞さん」
「ライオンですか…また、大きそうですね」
「ほいほい出すもんじゃねぇ」
 XANXUSの言葉に東眞はまぁそうだろうと納得した。それにライオンであれば場所を大きく取りそうである。東眞さんも、と言いかけたティモッテオだったが、そう言えばと話を思い出したように切り出した。
「東眞さんは死ぬ気の炎は」
「私には必要ありません」
 そう、東眞は軽く手を振った。一度XANXUSにそれ専用の指輪を渡されたが、どの属性のものにも反応はしなかった。
 死ぬ気の炎をともすために必要なのは覚悟だと聞いたが、東眞にはその覚悟がどのようなものかよく分からない。覚悟はあるが、それがどういうものか分からないのである。尤も知る必要もないと思っている。だから、灯せないのだろうが。とはいえども、身を守るための最低限の体術はルッスーリアからの指導は受けている。これも当然一般人よりも少しできる程度ではある。以前からやっている銃も相手の急所に確実に当てられる、というわけではない。だが相手の体に確実に当たる腕ではある。
 戦闘員としては全く役に立たないし、戦闘員として望まれているわけでもない。自分の役割がそこにないことを東眞はよくよく知っていた。自分の役目は戦うことではないことも、知っていた。
「でも、それで構わないんです。私に炎は――――匣も、必要ありません。私は私にできることをするだけですから」
 その東眞の答えにティモッテオは目を優しげに細めて、そうか、と答えた。
「それでセオは」
「だからまだいらねぇっつってんだろうが、この老いぼれ。必要になったらその時に作る」
「リングくらいは…」
「俺が作るっつってんだよ」
「…私にも少しくらい…」
「るせぇ」
 取りつく島も与えずに、XANXUSはそっぽを向いた。
 東眞はそんな会話を聞きながら、ふと思う。成長したセオは、やがて「この世界に」入るのだろうかと。まだ立つことがようやっとの小さなこの赤子の時からこのような話をするのは少しおかしな話かもしれないが、そう思う。
 その時、ごぉんと部屋の時計がなった。それにティモッテオは慌てて腕時計に目を落として立ち上がる。
「おやいけない。今日は約束があって…」
「こんなところで油売ってる暇があるんだったら、とっとと行け。この耄碌爺」
「風邪をひかないように、XANXUS。それから東眞さんも。また来るよ」
「二度と来るんじゃねぇ」
 お決まりの会話を交わしてから、ティモッテオは部屋から出て行った。見送りはいいよとの言葉にその部屋で分かれる。ティモッテオが去った後、XANXUSはぽつんと言葉を漏らす。
「そいつが、決めることだ」
「え」
「そいつが、決める。この世界はそんなに甘いもんじゃねぇ」
 そこで東眞はXANXUSがセオのことを言っていることに気付いた。東眞が気付いたのを悟ったのか、XANXUSは続ける。
「気付いて、そいつが望むならそいつはこちらに来る。そうでなければ、関係ねぇ一生を送るだろうよ」
 それこそが、誰も知らない、沈黙の世界。しかし確実に存在する世界。望む望まざるに関わらず、などということは本当はない。あったとしてもほんの一握りしかないのだ。
 この世界は本来は実力社会。力なきものは即座に死する。だから嫌々入らされば、それは確実に力を望む者に排除され、除外される運命に在る。名誉ある男の息子が名誉ある男になるとは限らない。何しろ知らされないのだから。気付かなければ、見なければ、振り返らなければ、それは触れることの叶わぬ世界。それに気付くだけの洞察力がなければ、入ることすら叶わぬ。しかしながら、そういう「素質」がある者は、そのように育てられる。し、自然と育つものである。だから気付いて、望む結果になる。
 母の手に抱かれた存在が、果たしてどう転んでどう育つのかは、本人次第。
 気付くのも自身であれば、踏み入るのも自分自身。誰も強制などしはしない。ただ、一度踏み入れば抜け出すことは許されない。抜け出す時は流した以上の血を持って。すなわち、死を意味する。
 XANXUSはカップをソーサーにかちんと置いた。そして東眞が抱えていた赤子を渡すようにと、両手を差しのべた。