30:la Morte - 4/8

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 随分と煙たい部屋の中で、シルヴィオは非常にゆったりとした様子で大きなソファに体を埋めていた。その片耳には携帯電話を押し付けて、相手が出るのを待っている。
 今頃は「もう一つの依頼」をあの死神が始めているころだろうと、見当をつける。
 ぷる、と相手を待つための音が止まった。

 

 修矢は目隠しの下でその何とも言えない気の抜ける電話呼び出し音に顔をしかめていた。目は隠れているが、口元は軽く引きつって、ぴくぴくと痙攣するように動いている。
「おい、哲」
「…か、構わないでしょう。どんな音を呼び出し音に使っても…」
非 難めいた響きに哲は視線を気まずそうにするりとそらしながら(もともと目隠しのせいであってはいないが)、携帯を内ポケットから取り出した。緊迫な空気を一瞬で華麗に見事にこれでもかと言うほどに無残に破壊した「泳げたいやきくん」の電子音は哲の指先が通話ボタンを押すことで止まる。
 携帯の画面には修矢も、そして哲もよく知る人物の名前が表示されていた。耳にあてた携帯からはいつものように全くひょうきんなことこの上ない明るい声が響く。
『よぉ、哲坊。元気にしてるか?』
「…貴方が持ち込んだ厄介事でまた騒がしいのですが」
 あからさまに嫌そうな顔をして哲は不満げに電話に向かってそう告げた。そうすると、電話はまあそう怒るなよ、と相変わらずの様子で返ってくる。修矢も耳を塞がれているわけではないので、そのやりとりは聞こえていた。ならばあの男が言っていたのは事実かと認識した。
『あいつはああ見えて腕が立つ。今の坊主にゃ持ってこいの逸材だろうよ』
「では本当に田辺氏が」
『御名答。それで?頑張ってんのか?』
「…頑張るも何も…お嬢様のことを聞いてイタリアに…」
 その言葉にやれやれとシルヴィオは溜息をつく。そして、その後に何だもうばれたのか、と呆れ調子でそう言った。
『藤堂が嬢ちゃんの親戚ってのは事実だ。尤も随分と遠縁にあたるがな。しっかしもうイタリアに行っちまうとはな…辛抱が足りねーと言うべきか何と言うべきか…で?』
「で、とは」
 言葉を求められて、哲は訳が分からないと言った様子でそれに答える。短い返答にシルヴィオは相変わらずの単細胞め、と哲を貶してから坊主はと付け加えた。
「修行だか何だか知りませんが…目隠しをされて」
『まさかお前がしたんじゃねーよな…?おいおい、哲坊。そっちの道にとうとう目覚めたか』
「あまり失礼なことを言わないで頂けますか」
 そう頬を引きつらせて言葉を波立たせた哲にシルヴィオは冗談の通じない奴だ、とひょうきんに返した。一拍置いた後に、それに関しての感想を言う。
『まぁ、あいつがそうしろってんなら従っとけよ。それは坊主に足りない何かを補うためのことだろうさ。色々誤解されがちな奴だが、仕事はきちんとこなすからな。嬢ちゃんのことは心配いらねーよ』
 と、まぁ坊主にでも伝えとけとシルヴィオはそれだけ言うとぷっつりと電話をあっさり切ってしまった。
 突然かけてきて、突然切られて、哲は腑に落ちないと言ったように不満げな顔を携帯に向けながらも、それを内ポケットに戻してから修矢を見やる。ある程度の会話は聞こえていたのか、修矢も視線を落として、まだ目隠しは外していなかった。
 哲は十分な間を、修矢が考えるだけの時間を開けてゆっくりと問いかけた。
「イタリアに、行かれますか?」
 俺は、と修矢は哲の質問にかすかに震える声で俯いた。固く強く握りしめられた拳がわなないている。
「―――――馬鹿だ、哲」
「坊ちゃん、いえ、そのような…」
「きっと、あの男に姉貴のことを話したのは…目隠し引きちぎってでも追いかけなかったのは…どこかで、小さく望んでたからじゃないのか。あの男が、藤堂雅が…姉貴を連れて帰るかもしれないってこと、に。いいや、望んでたんだ。俺が、できないから」
 くそ、と修矢は自分の膝を拳で打った。
「俺は―――――…っちっとも変っちゃいない…!まだ、俺は、姉貴に―――――――頼って、ばかりだ…っ!側に、いて欲しがってる…!今一番俺が守らなくちゃいけないものが何かなんて分かってるけど、でも、でも」
 それでも側に、と修矢は呟く。自分よりも一回りは年数の少ない少年に哲は目を下ろした。
 彼は素直に甘える時期がなく、東眞が現れてからというものはその反動か何かでべったりであったし、即座に依存から抜け出すのは難しいものがあるだろう。
 だから哲としては、XANXUSが現れて強制的に彼女を修矢から引き離したことを幸運かと思ってさえいた。確かに少し、目の前の自分の仕えるべき人間は変わった。そして変わっていった。より自分の立場を強く認識するようになった。しかしながら、それは結局抑圧の結果だったのだろうかとそう思えてきた。今の修矢を見ると。
 酷く混乱している。連れ戻せるかも、再び自分が寄りかかれる場所が手に入るかもしれないと、それを認識しただけで。
「――――――――――情けない。本気で」
 今この目隠しの下はどんな目をしているのか、哲には想像もつかなかった。だらりと力なく垂れた腕が、畳の上にその甲をつけて付け根からぶら下がっている。
「なぁ、哲」
「はい」
「強くなれるか。もしも、俺がこの人の言うことに従ったら。強くなれるか?姉貴に頼らなくていいくらい」
 イタリアに行きたいとは言わなかった。それだけでも随分進歩したという証であったのに。そして、哲はふとシルヴィオと自分の関係を思い出す。いろんな意味で、自分はあの時に成長した。ならばと考える。
「坊ちゃん次第です。強くなろうと、そう決めたのであれば」
「…取り敢えず、これをつけて生活すればいいんだな。姉貴は――――心配、ないんだな」
「田辺氏は心配いらないと」
 なら、と修矢は唇をきっと引き結んで立ちあがった。哲にはその姿が、少しばかり大きく見えた。
「あの男が帰ってくるまで、待つ」
 そう言って歩みを進めた修矢は目の前にあった襖に激しく激突した。

 

 だら、と涎が垂れる。その流れた涎はサンドイッチを取ろうとしていた手にぼったりと掛かった。
「……摘まみ出せ」
「何言ってるんですか。拭けば平気ですよ」
 はい、と東眞はXANXUSの手に落ちた涎を側にあったタオルでちょいちょいと拭いた。随分と手なれた仕草である。机の上で悪戯に歩かせているからこうなるのだ、とスクアーロはそんな風に思ったが、命が惜しいので口には出さない。東眞が机の上からセオを下ろそうとしたのを、そのままにしておけと言った張本人なのだから騒ぎようもない。
 嬉しげに歩きまわって、そしてサンドイッチに小さな手が伸びた。だがそれはXANXUSの手で机を滑り、また遠くへとずらされる。全くひどい父親である。それがまだ食べられないのを知ってずらしたのであれば、また話は別だが、彼の場合はそんなことがないのだからただの嫌がらせである。
 曰く、食べられないこともないらしいのだが、今回のサンドイッチにはマスタードが入っているから食べられないらしい。
 取りあげられた食べ物に机の上に乗っているセオは、じわりとその目尻に涙を浮かべ始めた。全く、この男の息子とは信じられないほどによくなく子供である(とは言えども、この無愛想無頓着傲慢高慢誰様俺様XANXUS様も赤子の時期はあったのだろうが)
「セオ」
 こっち食べましょう、と東眞は涙目になったセオをひょいと小さな子供用の椅子(言うまでもなくどこぞの孫馬鹿が買ったものである)の上に座らせた。そして、その前にはストローのついたりんごジュースと、それから小さなカップに入ったプリンである。随分と黄色みが強い。
「そりゃ何だぁ」
 疑問に思ったスクアーロの質問に、東眞はこれはと答えた。
「かぼちゃのプリンです。結構簡単に作れるんですよ」
「ふぅん…そりゃ、一個しかねえのかぁ?」
 少しばかり赤子の食べるものというものが気になって、スクアーロは東眞に尋ねてみると、今持ってきますと下ろしていた膝を上げた。それに小さなスプーンを持っていた子供が反応を示す。
「やーぁ、まーんまーぁ」
「すぐに帰ってきますよ、セオ」
 スプーンと一緒に東眞の長いスカートの裾をつかんで駄々をこねるセオに東眞はゆっくりと優しく諭す。
 スクアーロと言えば、その隣のソファでどんどんと眉間に皺の数があからさまに増えていく上司の顔を横目で見て、口元をかすかに引きつらせた。どこまで嫉妬深い、もとい、子供っぽいのか。スクアーロは慌てて、これ以上XANXUSの臍が曲がらぬようにと東眞に声をかけようとした。
 だがしかし。
「ところでXANXUSさんも食べられますか?」
「持ってこい」
「分かりました」
 相変わらずこの会話を続けていて、東眞の堪忍袋の緒がどうして切れないのか、スクアーロにははなはだ疑問である。
 そして、赤い目が目に優しい木目造りのベビーチェアへと向けられる。それに呼応するかのように銀朱の瞳がくるりと動いてXANXUSを見つめ返す。
 一見微笑ましいこの構図だが、はたから(今までの状況が分かっている人間からすると)随分とぞっとしない光景である。俺のものは俺のもの、お前のものも俺のものというジャイアニズムはよくよくわかったから、赤子から母を取りあげる真似だけはしてほしくないものだ。
 スクアーロは切実に、そう、いたって一般的な考えを胸に秘めつつ、皿の位置が変わったサンドイッチを一つとって口に放り込んだ。レタスと卵の薄焼き、それからハムとチーズがはさんである。しかしながらパンが随分と薄っぺらいとスクアーロは思っている。
 日本のサンドイッチというものはどうにも薄くて、噛み応えがない。不味いとは言わないが、まぁ、軽食、よりもおやつ感覚である。パニーノ、がイタリアで言う日本のサンドイッチに当たるものだが、全く違う。日本のサンドイッチに近いのは、トラメッジーノである。それでも日本の薄っぺらいパンとは違うが。
 パニーノで絶品なのは、生ハムとモッツァレラ、それからルッコラにクリームチーズ。それだけで十分に旨い。さらに言えば、非常に手軽である(何しろパンを切って挟んで塗るだけ)あんな薄っぺらいパンにわざわざ卵を薄焼きにしたり、ハムをはさんでレタスをはさんで、さらにそれを切るという感性が全くよくわからない。
 東眞はルッスーリアにパニーニの作り方を教わるべきだとスクアーロはひそかに思っている。そのうち教えられそうだが。
 そんなことを考えていると、目の前に陶器で作られたカップが置かれた。中にはセオに出されたものと同じものが入っている。XANXUSの方に先に差し出しているので、先に出された男と言えば、礼一つ言うこともなく、スプーンを無言で手にとって、がつがつと食べてしまった。勿論感想などない。ただ空っぽになった陶器だけが机の上に戻った。
 スクアーロもスプーンを手にとってプリンを掬って口に運ぶ。それが舌先に乗り、喉を通った。
「…結構、かぼちゃの味がすんだなぁ」
「まぁ、かぼちゃのプリンですし…でもセオはこれよりも林檎が好きみたいで」
 結構食べるんですよ、と東眞はするすると林檎の皮を座った状態で剥き始める。
 セオはと言えば、ベビーチェアでスプーンを陶器に突っ込んで、プリンを一生懸命掬っていた。当然そんなきれいに掬うこともできずに、プリンが見事にぐっちゃぐちゃになっていく様をスクアーロは目撃していたのだが。
 東眞もXANXUSも取り立ててそれに文句を言うことはせず、スプーンを使って口に運ぶという行為を東眞は無条件に褒めていた。
 それが嬉しいのか、セオはスプーンを使ってもうぐずぐずになったプリンを一生懸命に掬って口へと運ぶ。だがその途中、スクアーロがじっと見つめているのに気付いて、セオはぱっと笑った。口はカラメルソースで汚れている。
「アーロ!あー、ぁ、あー」
 そう言って、セオはスクアーロに随分とぐちゃりとしたプリン(と呼ぶには随分と原型を崩したもの)をスプーンに乗せて差し出した。隣の男の視線が痛いが、止まっていると、段々と小さな子供の目尻に涙が浮かんできている。ああ不味い、とスクアーロは慌ててそのスプーンを口に含んだ。かぼちゃの味だけではなく、涎の味がするのは―――――勘違いということにしておきたい。
 Grazie、と最後のeを言い終える前に、横から投げられた陶器に脳味噌が見事にゆすられる。その父親の行為にセオはめ!とまた吠えているが、その心優しい弁護がさらに苛立たせている要因であることに気付いてほしいスクアーロだった。
 しかしながら途中で方針を変えたのか、セオは持っていたスプーンをもう一度陶器に突っ込んで残り少ないプリンをXANXUSに差し出した。どうやらこの赤子は自分の父親がプリンがもうないことに拗ねていると判断したらしい(ならばそれは大きな間違いだ)
「ばっびぃの、あー。あー」
 そんなものをこの男が口にするものか、とスクアーロは側頭部の痛みに顔をしかめながら溜息をついた。
 セオが泣きだすまでのカウントダウンはテンカウントで大丈夫だろうかとそんないらぬ心配さえする。しかしながら、スクアーロが見た光景は全く驚くべきものだった。カメラがあればシャッターチャンスだと言わんばかりのその光景。
 九代目に送りつければひょっとしなくてもいい小金稼ぎにでもなることは確実であった。しかし残念なことに、カメラは手元になかったが。
「Buono?(美味しい)」
 きらきらと目を輝かせて(きっと言葉の意味は正確には分かっていないのだろうが)父親にそう尋ねた子供にXANXUSは不機嫌そうな顔をしてそっぽを向いた。
 成程とスクアーロはそこでようやく東眞を見る。東眞は林檎を剥き終え、一口大にカットしたそれを小さな器に乗せるとセオの前に置いた。勿論四分の一しかなく、残りの四分の三は兎カットで平皿、セオの手が届かないところに置かれている。
「よかったらどうぞ」
「おーいただくぜぇ」
 林檎を口内に放り込んで、しゃりしゃりとかじりながら、同じように一口大に切られた林檎を口にほお袋もないのに頬張る子供を眺める。そして、それを見て微笑む東眞を見る。それからそんな二人を見下ろして、始めはどこかつまらなそうに、それでも落ち着いている男を見る。
 そこにはもう立派な父親と母親と、それから子供の姿が一枚の絵としてあった。
 軽く五十回は一口の林檎を噛んでいるスクアーロに東眞は多少心配そうな目を向けてどうしましたか、と尋ねる。それにスクアーロははっと我に返って何でもねぇ、と手を振るった。
「放っておけ。カスはカスだ」
「…う゛お゛お゛ぉい、理由にもなってねぇぞぉ」
 誰がカスだ、とスクアーロは半ばあきらめつつそうXANXUSに口答えした。そして、勿論XANXUSはいつもどおりに、テメェ以外に誰がいる、と最後にもう一度「ドカス」と付け加えて兎の林檎に噛みついた。