30:la Morte - 3/8

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 あく、と大きな欠伸を一つして修矢は布団からむっくりと起き上がった。ぼんやりとしたままの頭で廊下の上を足を引きずりつつ歩きながら洗面所へと向かう。
 とりたてて朝が苦手というわけでもないのだが、やはり眠るのが遅いと朝に響く。
 今日は学校だったろうか、とカレンダーを後で確認するとにする。朝食は自分が作る日だったから、朝から地獄を見なくても済むとほっとしながら修矢は廊下を歩きながら、その途中にある雨戸を開けた。そして、その光景に一気に冷水をかぶせられたように絶句した。
 タイムスリップ、でもしたのだろうかと思わせるようなその前近代的な光景。盥の中に水を張って、服を洗濯板でごしごしと石鹸の泡と共に洗っている。鼻歌混じりな上にその様子が板についている様子が恐ろしい。
 男は、昨晩「師匠になりに来ました」と発言した藤堂雅はああ、と声漏らした顔をこちらに向けた。流石に朝から仮面はつけていない様子で、起きて早々悲鳴をあげそうになる事態は避けられた。
「おはようございます、修矢」
「…お、はよう…ございます…」
「そこの洗濯板を貸してもらいましたよ」
「ど、どうぞ…」
 では朝食にしましょうか、と藤堂は最後の洗濯物をぎゅぅと絞ってから洗濯棒にひっかけると、縁側に置いてあった下駄を脱いで廊下にあがる。まるで自分の家のように行動しているので、修矢も呆気にとられて何も言えない。
 顔を洗おう、とひょっとしたら夢かもしれないと淡い期待を抱いて修矢は洗面所へと向かった。
 しかしながら洗顔を終え、着替えを済ませて今に入っても、目の前の現実は一切変わっていなかった。ただ、一つ変わっていることといえば、普通の料理が食卓に並べられていることだった。ぱちん、と修矢は一度瞬く。
「さあ、食べましょう」
 ご飯と味噌汁、それから焼き鮭と添えつけの小鉢に小松菜の和え物。哲はといえば麦茶を食卓に置いて、同様に驚いた表情を隠し切れていない。
 修矢は促されるままに据わり、そして手を合わせていただきますと告げると箸を料理につけた。見た目がまともで味は壮絶な料理など今まで幾度となく食べてきた。期待と不安におびえながら修矢ははくんと和え物を舌の上に乗せた。そして、その味が普通、一般的に見て美味しい部類に入ることに気付く。こんなまともな朝食を食べたのは久方振りである。
「どうですか?まともな食材を使った料理は久々なのですが…不味くはないでしょう」
「お、美味しい」
「敬語はどうしましたか?」
「…です」
 しっかりと敬語になっていないのを注意されたが、それは今気にするところではない。
 うわ、と修矢は自分が作った(随分と焦げ臭い料理)でもなければ、哲が作った異常な甘さを醸し出してもいない料理に感激しながら箸を進めた。無言でただ食べることに集中している修矢をちらりと見て、哲は少し悔しげに味噌汁を啜った。勿論甘みが足りない、と思いつつ。
 そのうち哲が砂糖水でご飯を炊くようになるんじゃないかとおびえながら食卓についていたのだが、この奇跡に修矢は本気で感動していた。おかわり、とすっともともと東眞が座っていた席に茶碗を差し出して、そこではっと止まる。その席には、誰も据わっていない。
 細い指先が茶碗を取ってご飯をよそう。そして適度な量に盛られたご飯茶碗が自分の方に返ってくる。と、そんなことはもうあり得ない。修矢は差し出した茶碗をいったん引っ込めて、机の上にことりと置く。
「おかわりならありますよ」
 響いた、本来ならばそこにいない異質物の声に修矢はいりません、と短く返事をした。哲はそんな落ち込んだ様子の修矢に目を向けて、微かに眉を顰めた。
 それから後は、やけに重苦しい食事を済ませて、食器が食卓の上から片付けられる。
 カレンダーを見れば今日は日曜日で学校もない。
 修矢はご飯を腹八分目に食べ終わって、今の壁に背を預けた。何故あんな行動をとってしまったのか、悔やまれる。居ないと分かっていても、つい、行動してしまった。いつになっても寂しく、心にはぽっかりと穴が開いたようである。忙しさで目を背けて、幸せであればいいと思い、幸せであるからそれでと。時折送られてくるメールや手紙を見ては、嬉しくなって同時に寂しさを覚えた。
 この家に、もう姉がいないのだと、悉く思い知らされる。
 いつだって帰ってこられるように姉が出て行った部屋はそのままにしてある。ごっそりと荷物は減っているが、それでもそこは姉の場所であった、そして、ある。
「坊ちゃん」
「いい、哲」
 心配そうに声をかけた哲を修矢は手を振って拒絶した。
 哲は、姉とは違う。どんなに近くにいても、それは姉ではない。自分が無条件に心を開ける存在ではない。その姉はもう自分ではない男のそばで、新し家庭を築いて、微笑んでいる。
 苦しい、と酸素のない液体に放り込まれたような感覚に襲われる。どぷんと水の中に落ちて、酸素を吐き出しながら、肺の中に水がたまっていく苦しさ。立ち止まってはいられないし、自分にはしなければならないことも落ち込んで気を抜くことも、許される立場ではない。
 それでも日常のささやかな幸せが、なくなった。帰って来た時の、お帰りという優しい声がなくなっただけで、つらい。自分にとっての姉が、どれだけ大きな存在だったのか、あらためて実感される。締め付けられる。
 姉は世界であり、場所であった。自分が帰る場所だった。
「――――――――――あね、き」
 体育座りになってその両膝に顔を埋めかけた。が、その動作を一瞬でやめて、修矢は足を崩して襖の方へと注意を払う。その後すぐに、襖が開かれて、そこには浅い茶色の男が立っていた。
「誰に茶碗を出したのですか?」
 どくんとその言葉に心臓が跳ね上がる。弱みを見せてはいけないと喉で言葉が止まった。
「関係ありません」
「東眞ちゃんですか?」
「――――――――――、!」
 ばっと顔をあげて驚きの表情で見つめてきた修矢に藤堂は当たりですか、と朗らかに微笑んだ。なんで、と修矢は喉からわずかに引きつった声をあげて、壁に立てかけてあった刀に手を即座に手をかけた。
「姉貴に、何の用だ!」
「敬語が抜けていますよ、修矢」
「うるさ―――――――――ぐっ、ぁ!」
「敬語が、抜けていますよ」
 一瞬で間合いを詰められて、藤堂の腕が修矢の胸倉をひっつかむと畳にドンと強い勢いで倒した。喉元を押し付けた拳の強さとその痛みが脳が浸透して、修矢は呻き声を漏らした。大きな音に反応して、出ていた哲がばんと襖を開け放つ。
 哲が向けている銃すら恐れることなく、藤堂はやわらかく告げた。
「敬語が抜けていますよ、修矢」
 三度目になる言葉を告げて藤堂はゆっくりとその手を離した。そしてくるりと哲に向き直り、まるで子供を注意するかのような声で伝えた。
「こんなことでいちいち反応するのはやめなさい。あなたがそうやって過保護になっているから、この子は成長しないんです」
「な…っ!」
「シルヴィオに教えられませんでしたか?目上の者には敬語を使えと。黙って見ていなさい、榊哲」
 これは教育です、と有無を言わせぬ口調で藤堂は哲に告げた。決して声を荒げているわけでもないのに、その言葉は相手に次の言葉を紡がせぬ迫力がある。
 げほ、と数回せき込んで修矢は藤堂をしっかりと睨みつける。その目線に藤堂は言っていませんでしたかと加えた。
「私は彼女の親戚にあたります。遠縁ではありますが…彼女の両親にはよくしてもらいました。ようやく日本に帰ってきたときに亡くなったと聞いて…彼女を引き取りに来たのですが。まあ私は鬼籍に入っていますけれども、このような危ない場所に彼女を置いておきたくはありませんから。ここは彼女の家でしょう?」
「姉貴は…ここには、いない」
「いません」
「…いま、せん」
 しっかりと訂正を喰らって、修矢はまだ痛む喉を押さえながら渋々と訂正した。
 ではどこに、と続けられて修矢は口をつぐむ。この男の言うことがはたして本当であるか、修矢には判断できない。それでいて姉を危険にさらすことはしたくない。
「信用できませんか、私が」
「できな…できません。田辺さんからの紹介だという証拠は、ない」
「では連絡を取ってください。彼の答えは私の言葉と一緒でしょう」
 電話代が多少無駄になるだけです、とあっさりと答えた藤堂に修矢は言葉に詰まる。そもそも哲とシルヴィオが師弟関係であることを知っている者自体非常に少ない。確認、せずとも答えは一緒かと修矢は歯を噛んだ。
「信じていいのか」
「敬語はどうしましたか?」
「…信じていいんですか」
「結構です。私は嘘は言いません。面倒ですからね、訂正とか」
 一拍置いて、修矢は頷いた。信ずるに足りる、と判断する。そして非常に言いづらそうに、実際に言いづらいのだがその言葉を唇に乗せる。
「姉貴は…嫁に、行った」
「…どこへ?」
「イタリア。あなたが昨日言っていたイタリア暗殺部隊のボスに」
「連れて行かれたのですか」
「ついて行った。姉貴の、意思で」
 顔の色が初めて変わった藤堂に修矢はどこか安心をおぼえる。ついて行ったと自分で言っておきながら、言った瞬間に胸が痛んだ。
「―――――――――、姉貴は幸せなんだよ。邪魔、する…しないでください」
 姉が幸せなことは、修矢が一番誰よりもわかっている。あの男の隣が、姉にとっての一番の場所であることも。頼ることしかできなかった自分たちと違って、姉が頼ることのできる男だということも、修矢には分かっていた。だからそんな幸せな姉の邪魔をしてほしくないと、修矢は思った。切実に。
 だが、藤堂はゆっくりと立ち上がって修矢に微笑みかけた。
「修矢、私は自分の目で見たものしか――――――信じないのですよ」
 そして修矢に手を伸ばして、その目を一枚の布で覆い隠して目隠しをする。何を、と言いってそれを取りかけた修矢に藤堂は取ってはいけませんと忠告する。
「私が帰ってくるまでの間、それをつけて生活をしなさい。人の気配、物の気配、それを感じなさい。ああ、勿論下からのぞき見るというズルはしないようにしてください。分かりましたか」
「どこに行くつもり…っ!」
「言ったでしょう?私は、
 自分の目で見たものしか信じないのですよ、と藤堂は修矢の頭を撫でて二人に背を向けた。だが扉のあたりで立ち止まって、そうそうと笑う。
「少し変わった結びにしておきましたので、外したりすると分かります。ちなみにはずしたら罰則です」
「な…っ、ぅ、わ!」
 追いかけようとして修矢は机に向う脛をぶつけ、あまりの痛さに悶絶しながら遠のいていく足音を耳にした。
 真暗な、何も見えない世界で手を伸ばす。哲、と呼んだが反応はない。這いながら、手をうろつかせてその大きな体に触れる。
「おい、しっかりしろ!」
「…っぐ、ぅ」
 呻き声に昏倒させられていたのか、と修矢は気付く。いつ、とうろたえた。
 自分がこの目隠しをされてから、狼狽したその一瞬で、ということになる。この哲を。修矢はぞっとした。
 すみません、坊ちゃんと謝罪の声が響く。修矢はぐっと歯を噛んで、哲にシルヴィオに連絡を取るように告げた。そして、その目隠しを取ろうとしたが、シルヴィオの答えが出るまではと結び目に掛けた手を下に落とした。
 丁度その時、哲の胸元から泳げたいやきくんのテーマソングが流れた。

 

 東眞はよいとセオの体を持ち上げて、体を大きな肌触りのよいタオルで拭く。
 もう両足で自由に動け回るのでその小さな足ではたはたと地面を蹴ってタオルから逃げようとしているが、そこはしっかり捕まえて髪の毛を拭く。どうやらタオルで一瞬視界が遮られるのが嫌いらしい。マンマぁ、と声が上がって母を求める。
「ここにいますよ、セオ」
 はい、と東眞はその柔らかな髪を拭きあげて、にこりと微笑む。その笑顔に安心したのか、セオはへらと笑ってマンマぁ、と東眞の膝の上に倒れこむ。
 そんな小さな存在を上から眺めていると、さらに上からぽたぽたと滴が落ちてくる。大きな影が一人分かぶさった。
東眞は顔をあげて、それが誰なのか確認して笑う。
「XANXUSさんも、髪を拭かないと風邪ひきますよ」
「拭け」
 ずい、とタオルを押し出してXANXUSは東眞に背を向けるとどっかりと腰を落ち着けた。膝にセオを抱えていた東眞は素っ裸のその小さな子供の服を着せる方が先だと思っていたのだが、板ばさみにされる。
 そこにルッスーリアがセオの服を持ってきて、心配しないで頂戴、とセオを東眞の膝から抱き上げる。
「さ、ルッスお姉さんとお気がえしましょうね」
「るーっす!」
「んまー!可愛いわぁ!食べちゃいたい!」
 うっす、ではなくルッスと無事にきちんと発音できるようになったセオを抱きしめて、ルッスーリアは微笑みながら、その小さな手足に服を着せていく。まだおむつだが、いつになったらおむつでなくなる日が来るのかは、本人次第である。
 そんな二人の光景を眺めながら、東眞は剥き出しの背中にまで落ちてきている滴をタオルで拭った。エクステのついていない髪を拭きながら、意外に柔らかなその感触をタオルの上から感じる。
「セオとお風呂入った感想はどうですか?」
「うるせぇ」
 それは東眞に対しての言葉ではなく、風呂に入っている間のセオのことではあったが。
 XANXUSは始終風呂で言葉を発し続ける子供に半ばうんざりしていた。抱いていないと間違いなく水死するであろう高さであるのも面倒である。これを毎日続けていた母親、もとい東眞にXANXUSは少しばかりの尊敬の念を抱いた。その上、風呂に浮かべていたアヒルのおもちゃが遠くに行けば、それだけで泣きだしそうになるし、髪を洗うために上から水をかければせき込む始末。子供一人風呂に入れる作業は、ある意味暗殺よりも面倒くさい。
 次はねぇ、とXANXUSはそんな風に思った。
「でも、セオ凄く嬉しそうです」
「…フン」
「ティモッテオさんが買って下さったアヒルのおもちゃも随分気にいってるみたいですし…今度ティモッテオさんが来たらお礼伝えておかないといけませんね」
「構いやしねぇ」
 放っておけ、とXANXUSは横柄にそう告げた。
 少し視線をずらせば、ルッスーリアがセオの着替えを済ませていた。二つの朱銀の目がこちらへと向けられる。何の用だと言わんばかりにXANXUSはその二つの目を睨みつけた。が、しかしそれは伝わっていない様子で、とてとてと手を伸ばしてバランスをとりつつこちらまで歩いてくる。
 そして放り投げたXANXUSの足にセオは倒れこみ、縋りついた。
「ばっびぃの。うらーちぇ」
 Grazie、と言いたいのだろうが言えていない。情けねぇとXANXUSは素直に思った。最近とみに語彙が増えて(意味が分かっているのかどうかはともかく)本当によくしゃべるようになった。お陰で騒がしい。
「うらーちぇ」
「…Grazie」
「ぐぅらーぇ?」
 言葉が遠のいてXANXUSは失望を目に宿す。セオはそんなことはお構いなしにXANXUSの足を伝って、広げられた足の間へとよじ登る。だが、そうしようとした試みは頭の自重でどんと頭を床にぶつけた。そして今度は金切声のような泣き声が上がる。
 東眞が手を伸ばしたが、XANXUSが動くなと命令をする。
「あらあら、ぶつけちゃったの?大丈夫かしら」
 そうしていると、代わりにルッスーリアが慌てた様子で転がった子供を抱き上げる。そっとXANXUSには見えない位置で東眞にウィンクをした。
「こぶはできてないみたいね。はーい、もう泣かないのよ。可愛いBambino。パパーの膝の上に乗りたかったのかしら?」
 ボス、とルッスーリアは伺うようにしてXANXUSに問いかけた。それにXANXUSは片腕を伸ばして、少し下げられた位置に抱えられたセオをつかみ取る。そんな乱暴に、と言われそうな持ち方であるが、もう皆慣れてしまった。慣れとは恐ろしいものである。
 泣きわめく子供をXANXUSは開いている足の間に落とした。ぐずぐずと始めはぐずっていたが、次第にそれが収まって、望んでいた場所にいることに気付くと笑顔を浮かべる。
「泣いた烏がもう笑う、っていうのはまさにこのことですね。はい、XANXUSさん。できましたよ」
 髪を拭き終えて、東眞はそのタオルを外す。
 母が仕事を終えたのを膝の間で理解したのか、セオは下に向けていた顔を上にしてXANXUSの胸を支えに起き上がると手を東眞に向かって伸ばした。きらきらとうっかり星さえ見えそうな笑顔が東眞に向けられる。
「まーんまぁ、」
 抱っこを求めてきた手に東眞はゆっくりとXANXUSの背中から手を伸ばした。しかしながら、その体は東眞が抱き上げる前に後ろへとこける。それは決して自重などではなく、たんにXANXUSが突き飛ばしただけだった。再度どんと背中と頭を下にぶつけて、セオはうるりとその目に涙をいっぱいに溜める。
「…XANXUSさん…」
「るせぇ」
 泣きわめきだした子供にXANXUSは拗ねたようにそう言うと、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。そして東眞とルッスーリアは顔を見合わせて軽く肩をすくめると、涙を流すセオをあやした。