30:la Morte - 2/8

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 疲れた、と煩わしい意味を込めたその単語を口の中だけで呟いてXANXUSはごつりとブーツを鳴らす。
 伸びてきた前髪は多少煩わしいが、ワックスで後ろに流しているので今は目にかからない。切るのも、また億劫である。
 ごつんごつんとブーツの重たい音が固い床の上に乗って反響する。
 喧しい連中と顔合わせをして、女と無理矢理会わされて(化粧のにおいに吐き気がした)妻子持ちだと言うのに、この待遇。余程消し去ってやろうかと思ったが、体面上それもそれで避けたいものがあり、環境のせいで随分と味気ない食事を済ませることとなった。愛人など欲しくもない。必要ない。無意味である。だというのに、周りからの声は絶えず、一体自分に何を求めているのか分からない。
 そもそも、だ。名誉ある男は妻に敬意を払う生物である。それに不倫はこの社会においては認められていない。確かに名誉ある社会においてはボスが妻を裏切ることには寛容ではあるが。しかしながら、たとえ浮気をしたとしても名誉ある男は決して人前で妻に恥をかかせてはならない。
 その理由としては、嫉妬、である。嫉妬は人の理性を狂わせ、正確な判断を下すことを妨害する。更にはこういったことは、社会の綻びに繋がりかけない。とはいえども、とXANXUSは東眞の顔を思い出す。どうにも嫉妬とは無縁そうな性格をしている。ただ不倫などをすれば、荷物を引っ提げて静かにその場から姿を消しそうな印象がある。させるつもりはないが。
 出会う前までは、それなりに女とも付き合っていたが(詰まるところの性欲処理と言いうやつで)付き合い始めてからはやめている。今後も予定はない。あの場であの厚化粧の女にワインをぶちまけて帰ってもよかったが、女に恥をかかせるのは、あまり、よくない。ある意味よく耐えたと自分を褒めて然るべきなのであろう。
 きっちりときた喉もとが苦しくて、指先にネクタイの結び目を引っ掛けるとぐいぐいとそれをゆるめて、第一ボタンを外す。そうすれば普段のような格好にもどり、ふと一息つけた。
 そう子供だ、とXANXUSは自分の子供、セオのことを思い出す。
 東眞にはああ言った。が、実際のところ微妙なあたりである。選ばれるのは本人の資質次第なのだ。
 周囲の人間が名誉ある男かそうでないかの区別がつくころまで、周囲はとりわけ年長の者は子供を観察する。そしてそれが名誉ある男の資質があるかどうかを見極める。もしあるならば、周囲は「そのように」子供を教育する。自分が行かされた学校も名誉ある者が集まる学校であり、それ以外は存在しない。
 必然的に周囲はそのような社会で構成されて―――――ようするにマフィアが、名誉ある社会が全てとなるのである。外部からの影響をほとんど受けないように育てられると、結果的に子供は立派なマフィオーゾに育てられる。
 選ばれれば、そのような人生を半ば強制的に取らされることとなる。
 本人の意思でそうなるとはいえ、そのような意思に導かれている、という点においては本人の意思とは無関係と言えるのかもしれない。そして自分もその例外ではなかった、と言っても過言ではない。少なくともこの人生に対して不満は――――ない、と思う。多分。
 あの母親から現在のボンゴレ九代目に引き取られてからは、そのように教育されてきた。人の死に対して感情を揺らさないことが初めてであった。
 こうやって思い出すと、あの優しい顔をした老いぼれも根本的なところはしっかりと名誉ある男であることを思い知らされる。銃、爆弾、ナイフ、炎、体術他。人を殺すための訓練は確かに叩きこまれ、そしてあの学校へと送り込まれた。
 自分は資質があったから、こうやって現在も名誉ある社会の一員であるわけだが、途中経過においてそうでなくなった者はどうなるのか、それは言わずもがなである。知りすぎていた場合はそれでも残るか―――――――もしくは死ぬか、この二択しかない。結局ここはそういう社会である。とはいえども、途中経過においてという場合はほとんどない。年長者はそれだけ慎重に、真剣に子供の資質を見極める。そしてその目を持っているのだから。
 自分の息子がどうなるのかは分からないが、そのような資質があれば自分もそのように教育をするだろうことは分かっている。おそらく、自分の妻もそれは理解しているのであろうとXANXUSは思う。尤も資質があれば、の話ではあるが。
 そしてXANXUSはふと現在におけるボンゴレ十代目候補に関して考える。ある意味、あれ以上不幸な男もない。
 今まで平穏な社会で暮らしておきながら、それを無理矢理こちら側に引きずり込むのだ。望まない男ほど邪魔なものはない。不愉快極まりない。
 未だに九代目の、自分の義父の考えは理解できない。あんな人の死一つまともに理解できていない人間が、何を支えることができると言うのか。人殺しはいけないなどと、全くその口を引き裂いてやりたい。人殺しをせずして成り立つ社会ではないのだ。既に、もう。そんな甘い砂糖菓子のようなセリフが吐きたいのであれば警察にでも入って、反マフィア委員会にでも所属すればいいだろうに。そうすればいつでも殺せる。
 自分の立っている場所の意味も色も理解してない餓鬼が、人殺しはいけない!と叫ぶことほど滑稽なことはない。それでもあの義父はそんなカスを上に選んだ。ならば、従うしかない。敗れた、ことも一因ではあるが。
 頭が痛い、とXANXUSはやけに空虚に響く足音を鼓膜に響かせながら考える。
 冷たい廊下の上にブーツが一つ一つ音楽を、何が愉しいのか奏でていた。冷たい廊下には似合いの冷たい音であった。
 悲しむことはしない、と思う。もう彼女は理解し、受け入れている。そしてそれに対して何をすべきかもしっかりと分かっている。それに自分の息子がどういう道を進もうとも、母として変わることはないのだろうなと、XANXUSは思い、どこかで安心する。それはきっと彼女の自分に対する態度が、自分が何者であろうとも変わりがないように。
 あの老いぼれは、とXANXUSは先日のティモッテオの言葉を振り返る。超直感だか、そんなふざけたもので「資質」が存在すると判断したのだろうかと。
 それを持たない自分は子供が成長しないとそれは分からないが、どことなくそうなるであろうことは、感じている。ただし、そうなって欲しいとは思っていない。そうなって欲しくないとも思ってはいないのだが。
 ともあれ、どうなろうが自分たちの関係は変わることはないだろうとXANXUSは確信に近い何かを持っている。ならば心配する必要もない。心配、などと非常に馬鹿馬鹿しい言葉ではあるが。
 目下の煩いは、女と会わせるためだけに食事に誘われることである。ファミリーに関してだと言われれば、出向かざるを得ない。
 女は一人でいい、とXANXUSは思う。
 ブーツの音の分だけ、柔らかな空気の部屋へと近づく。磨かれた取っ手に手を引っ掛ける。開ければ、そこには妻がいて子供がいて、そして自分を待っているのだろう。自分の、自分だけの帰る場所。一人でいいのだ。他には必要ない。彼女がいて、自分の隣に幸せそうな顔をして据わっていれば、いい。
 ぎ、と扉を押し開けた。
「お帰りなさい」
 耳に当たる柔らかな声と、視界に入る女の体のライン、それから抱かれている赤子。くんと鼻に香ったのは、焼きたてのクッキーの甘い匂いと芳しいコーヒー。
 ああ、と短く返事をして中に一歩入ると、そこには空のカップが一つ置かれている。誰か座っていたのだろうが、そこにはもう誰もいない。XANXUSの視線に気付いたのか東眞はさっきまで、と笑顔でそれに答える。
「スクアーロが話し相手になってくれてたんですよ」
 その名前を聞きながら、XANXUSはどっかりと東眞の隣、空いているほうのソファに腰掛ける。カス鮫が、と思ったものの本人に悪気はない辺りが恨めしい。無論そんなことは関係ないのだが。
 そのままくるりと半回転して東眞に背を向けると、XANXUSはそのまま後ろに倒れた。倒れかかった巨体に東眞は慌てて腕に抱えていたセオを自分の隣へとずらす。そうしなければ、二人がぶつかって子供が泣きわめく結末となる。そしてXANXUSは随分と重たく感じるその手を伸ばして、赤子の首根っこを引っ掴み、まるでUFOキャッチャーのようにセオを空中移動させる。移動させられている子供の着地点は出口への、というわけではなくXANXUSの胸と腹の間にうつぶせに乗せられた。子供はきゃらりと笑う。
 XANXUSの胸の腕で笑う子供に東眞は目を細めて嬉しげに微笑んだ。その笑顔を下から眺めながら、XANXUSは食事の席でのあの気分の悪くなるような下心が見えた笑みを思い出した。全く、下卑ている。
「どうかされたんですか?」
 細い指先が伸びてきた前髪をかきあげながら、絹に触れるようにして肌を撫でる。不快ではない。
 その落ちてきている指先をつかんで、口元に引き寄せて、唇に触れさせた。その行動に驚いたのか、つかんでいる腕が震えて一旦引こうと逆の方向に力が入ったが、腕に力を込めてそれを許さない。何か、楽しい。
「何でもねぇ」
「…その、放していただいても…」
「るせぇ」
 不愉快だったあの食事の場の雰囲気を脳内から抹消するように、その指先を味わう。少しばかり口を開き、指先を舌で食べ物を食べるかのように軽く舐める。舌先には子供の味が乗せられる(実際に食べたことなどないが)それが多少気に食わなくて、もう少し腕を引き寄せて指に軽く歯を立てて、舐め、絡める。
 恐らくは伸びた前髪のせいで見えていないであろう赤眼を上に持ち上げれば、その視界に耳まで真っ赤にした女が映っている。堪えるような表情にぞぁりと背筋に悦が走った。空いているほうの手で胸の子供を持ち上げると、絨毯の上にそっと落とした。
 そして一旦唇から指を離すと、腕を伸ばして、相手の体を無理矢理引き寄せるとその唇を奪う。セオが、と僅かな躊躇いを食べる。上半身を離そうと背筋を使っているのだろうが、その程度の力で逃げようなどとは無理難題な話であり、滑稽でもある。
 遠目に見れば東眞がXANXUSにキスをしているような(実際はその逆だが)光景を想像しながら、XANXUSは笑う。
 逃げかけた舌絡めて絡めて、吸い上げる。お互いの黒髪が混ざり合ってどちらのものか区別がつかなくなる空間で、XANXUSはその口内を味わい続ける。歯列を舐め上げ、口蓋を擽り、呼吸すらも飲み込み、舌根から舌先へとずるりとその下を這わせて伸びた舌を唇で軽く食みながら、唇を一度解放して、そして角度を変えてもう一度食べる。
 羞恥に耐えるようにして閉ざされた目を赤い瞳でしっかりと確認する。このままソファの上で食べてしまおうかと下半身に信号が伝わる。それも、いい。
 ゆっくりと体を起こしながら、それでも唇を食べ続け吐息さえ自分のものとしながら、相手の意識をこの口づけ以外のことに関与させることを許さずに体を押し倒す。倍、はまずあり得ないだろうが、それでも上の体は下の体よりも随分と重たい。圧し掛かって、胸がつぶれ、ふ、と呼吸が一瞬止まった。
 唇を舌先でちろりと舐め上げ、ようやく開いた黒と灰色の中間色の目を赤い目で覗きこむ。
「やらせろ」
「…っ、セオが」
 許可を求めるように(許可などはなから求めてはいないが)発せられたXANXUSの言葉に東眞は目で拒絶を示す。何が嬉しくて我が子の前で自分の痴態を晒さなければならないのか。みられて喜ぶ、などという趣味はない。
 赤い目がくるりと絨毯の下で不思議そうに、押し倒された母親と押し倒している父親を眺めている赤子に動く。別に構いやしねぇ、と返事をしたXANXUSはソファの背もたれ側の手を動かして、服の間に腕を滑り込ませると、東眞の首筋に顔をうずめる。白い肌が、緊張かどうかで普段よりも赤くなっていた。
「XAN、XU、Sさん!」
 押してもびくりともしない肩を持ち上げて距離を取ろうとしながら、東眞は名前を呼ぶ。勿論XANXUSといえば、そんな行為を軽く無視して首元で何だ、と返事をする。
「セオがいます、やめてください」
 はっきりとそう言えば、XANXUSは少しだけ体を持ち上げて東眞の瞳を見る。そしてまた首筋に顔をうずめた。
 誰かを呼ぼうと口を開いたが、その口は大きな手であっという間に塞がれる。んむ、と声にならな音が掌の内でくぐもった。首筋に走った鋭い痛みを走らせた後、東眞の体からXANXUSはその重たい体をのけた。不機嫌そうな顔をしている。そんな顔をされると罪悪感がでるのだが、東眞も流石に子供の前で行為には及びたくない。
「…てめぇ、覚えとけ」
 東眞に向かってそう呟くと、XANXUSはセオの体を持ち上げて膝の上に乗せる。そして、目の前の皿に置かれてあったクッキーを摘まんでさくと口で割った。数回咀嚼して、喉が動く。
 何を覚えておかなければならないのか、というのは目の前でクッキーを腹立たしそうに次から次へと片付けているXANXUSを見れば一目瞭然ではあるが。赤い印が残っているだろう首筋を指先でさすりながら、東眞はコーヒーと紅茶どちらがいいですか、とXANXUSに問うた。

 

 藤堂は面をはずした状態で、ゆるりと目を細めた。
「死んではいませんので、こうやって生きています。それだけです」
 死んでいる人間が生きていたなんてそう珍しい話でもないでしょう、と笑った藤堂に哲は言葉をのむ。確かに珍しい話ではないのだが、そもそも自身も人伝に死神の藤堂が死んだ、と聞いただけではある。
「それに私はその死神の藤堂、という名前はそう好きでもありません。君の黒蝶とよく似たようなものです」
 突然自分の話になって修矢は軽く唇をかむ。こんな警戒心の薄い、ほよほよとした人物に背後を取られたのかと思うと悔しい。腹が立つ。
 藤堂ははじめまして、と周りの空気をさらりと流して修矢に挨拶をした。
「藤堂雅、といいます。これは偽名ではなく本名です。現在戸籍上は鬼籍に入っていますから、調べてもあまり意味はないと思いますが」
「その、死神の藤堂とやらが…俺に何の用だ。片付け屋の仕事で来たんじゃないんだろう」
「はい、そうです。私は君に刀の使い方を教えに来ました」
 その一言に驚いている修矢をよそに藤堂は分かりやすく言えば、と続ける。
「君の師匠、というところでしょうか」
「…っ、なに、い、」
 言ってるんだ、と口を開きかけた修矢の喉元に一つの銀色が添えられた。いつ動いたのか、さっぱりわからない。浅い茶色の瞳が緩やかに細められて、修矢を見下ろす。
「君は、とても弱い。弱いです。弱すぎる。あの煙草中毒者に聞いたのですが、なんでもイタリア暗殺部隊の一人を退けた…」
 ちらりとその目が動いて哲に回る。
「…二人がかりでようやく一人。しかもその一人は幹部で?さらに言えば一番動きが遅い人間らしいと」
 馬鹿にされている、と修矢は気付く。言葉の端々に含まれている皮肉に体を僅かに震わせたが、事実であるので反論できない。
「先程の私の攻撃も今の私のこの動きも、君には目に映ってすらいないんでしょう。こんな程度の人間が組長を名乗るとは、桧の器が知れます。よくここまで生き残ってくることができましたね…いや、それは今までの恩恵を受けていたにすぎませんか」
 明らかな侮蔑の言葉に哲がぎり、と歯を噛んでてめぇ、と銃をとるために懐に手を添えた。しかし修矢の待て、の言葉に哲は動きを止める。
「坊ちゃん、しかし」
「…いい、本当のことだ」
 そのやりとりを聞きながら、藤堂は手にしていたナイフをもう一度ホルダーに戻す。
「しかし、その状況判断における冷静さは認めましょう。君はその年で自分の立場をよくわかっている」
「…当然だ。腕が足りなければ、他の部分で補うのは」
「未熟なのは認めますか?」
「……認める」
 その反応に、藤堂は笑顔で、修矢の両頬をつねって無理やり引っ張った。あまりの痛さに修矢は悲鳴を上げる。どこかで見(というよりも体験した)覚えのある光景に哲はひくりと頬を引きつらせた。
「師匠には敬語を使いなさい、修矢。親しき仲にも礼儀あり、という言葉は知っていますね?」
 ぎりぎりとさらに引っ張られる頬の肉に修矢は半分涙目になる。擦過傷や銃創、他戦いにおける傷の痛みならば慣れているのだが、このような子供じみた躾の痛みには慣れていない。
「い…っ!!いた、!ひ、引っ張る、な…っ!!」
「私の言葉は理解できませんでしたか?敬語を使いなさい、と言ったのですよ。こういったことは形から入るのがとても大切ですから」
「わ、分かった!敬語、使えばいいんだろう!」
「人はそれを敬語とは言いません」
 限界まで引き延ばされた頬の痛みを想像しながら哲は体を震わせた。
 止めに入るのが筋と言うものなのだろうが、何分殺意が全く男の方から感じられないので、手を出すわけにもいかない。その上、この光景はかつて―――――――思い出したくもない過去に繋がっている。スパルタ教育。
「使います!」
「はい、よろしい。これから敬語を使ってください。ああ、私のことは藤堂さんでも雅さんでもどちらでも結構ですので」
 では、とすたすたと無遠慮に靴を脱ぎ、それをそろえて中に入った藤堂に修矢は待て、と言いかけて慌てて待って下さいと直す。その響きに藤堂は足を止め、ゆっくりと振り返ると何ですかと笑顔で答えた。
「いや、何で入って…」
「住み込みで教えます。ああ、着替えは持ってきているのでそちらは心配しないでください。洗濯も自分でしますので。洗濯板と盥があれば貸していただきたいのですが…ああ、よかったら石鹸も」
 宜しくお願いします、と朗らかに笑った男に修矢は全力で脱力した。そんな修矢に藤堂は頭をぽすりとなでて、取り敢えず今日は寝ましょうか、と何とも当然のことを言った。