16:どうか - 6/7

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 東眞は一人になった部屋でその手を矯めつ眇めつ見る。先程まではまっていたプラチナの装飾品はすでにない。これでよかったのだ、と東眞は目を細めた。そして、「また」突き放されてしまったと瞳を閉じた。
 小さな誤解は大きなすれ違いを生む。あの時は解決した。それはその原因が自分でもXANXUSでもな第三者によってもたらされたものだったからだ。
 だが今回は、違う。
 ボタンのかけあわせを間違った様な現状だ。もう一度かけ直す努力をしない限り、それが正しい位置にはまることはない。その努力というのが一体何であるのか、東眞はとうに知っていた。分かっているが未だそれは実行に移せていない。
 それは本当に単純なことなのだ。ただ一言、たったの一言、東眞がXANXUS本人に言えばいい。心の底から。分かっています、と。
 たったその一言で全ては解決する。だがそれはまだ肺を動かし気管を通り、喉を経て舌と唇の形を整えて東眞の口から発せられてはいない。まだ、言えないのだ。きっかけが一向につかめない。
 東眞は分かっている。分かっている。ルッスーリアにも告げたように、東眞はもう分かっている。XANXUSの行動原因もその理由すらも。だが、それを口に出しては本人に言えない。あの赤い瞳に気押されて、ようやく出た言葉は反発の言葉だった。
 分かっているとはいえども、東眞も分かって欲しかった。どれだけ辛かったのか、どれだけ怖かったのか、本当はあの時どうして欲しかったのか。それを、XANXUSにも分かって欲しかった。自分が分かっています、と言えるほどには。それなのにXANXUSが渡してくるものは、強すぎる愛情だった。差し伸べて欲しい手は差し伸べられず、その腕はただ求めるためだけにあった。縋る胸ではなく抱きしめられる胸だった。
 違うのに。そんなものが欲しいのではない。指輪も何も欲しくはない。自分が欲しいのはただ、一つの言葉なのだ。そうか、と。たったその一言でいい。謝罪など欲しくない、憐憫も欲しくない。欲しいものは。
 唯一つ、理解だ。
 知らぬ男に犯されそうになった時、全身に走った恐怖。銃弾が出てこなかった時に、味わった絶望。叫ぼうにも口に突っ込まれた布で押しつぶされた悲鳴。それを、理解して欲しかったのだ。
 XANXUSの行動を責めるつもりはない。確かにそれは、辛く嫌だったが、その行動には彼の常識による理由も根拠もあった。だが、彼は理解をしてくれなかった。東眞の痛みを一切理解せず、今に及んだ。それがなによりも、辛かった。もしもXANXUSが全てを理解した上で東眞をあの場で抱いたのであれば、あれは強姦ではなく和姦になっていただろう。東眞は、そう思っているし、そうなったであろうと確信している。
 性交渉というものはえてして受ける側の気持ち一つで強姦にも和姦にもなる。それはどんなに好きあっている者同士であっても、だ。
 するり、と指輪がはめられていない指を東眞は撫でた。冷たい感覚のない指は開放感があった。あの指輪は現状から言えば愛の形などではなく、鎖と首輪だ。そんなものは、いらない。
『ここで、死ぬまで暮らせ』
 口調も声音も全てが憤っていた。一度経験のあるそれは何を言わずとも肌に浸透するほどに理解できた。しかし、それらは全てXANXUSの一方方向の矢印だ。
 彼の表現が拙いのを東眞はよく知っている。けれども、それでも「以前までの」XANXUSは東眞の気持ちを汲みとってくれていた。どんなに言葉使いが乱暴でも何が粗暴でも命令することでしか表現できなくても、だ。
 だがそれがなくなった。
 だから言えなかった。今もまだ言えない。ボタンの掛け違いを直すための一言を。言えない。どうして、と呟いた答える人間がいない質問はゆっくりとシーツの上に一度のってから、床の上に転がった。

 

 はぁ、と溜息をついてスクアーロはソファにずっしりと凭れかかる。ルッスーリアの話からすれば東眞はどうにかなりそうな雰囲気ではあった。珍しくあのルッスーリアが本気で狼狽して、一言、泣いたのよ、と告げられた時は思わず顔を顰めた。
 ルッスーリアも気付いていたようだが、東眞は悲しみという理由では泣かない。喜びで泣いても。どうしてなのかはスクアーロは知らない。けれども、そんなことは東眞にしか分からないし、理解できるわけもない。重要なのは、彼女が悲しみで泣いたという事実だけだった。
 返されたファイルにもう一度目を通して、それからそれを保管庫に突っ込む。
 やはり余程堪えたのだろう、とスクアーロは思う。何がと言えばやはり一番はXANXUSに無理を強いられたことではないだろうかと。東眞の性格からするに決して怒っても責めてもいないに違いない。全てを理解しているのに、それが辛いのだろう。女であるが故に。愛する男に犯された、という事実は重い。違う設計図の上にいる人間だからこそ、それは余計に重く深く圧し掛かり体を縛るのだろう。
 ただ、哀れには思っていない。
 ルッスーリアの言うとおり東眞は精神的に強い女だ。女は精神的に強いというが、それ以上に逞しい。多分時間さえおけば立ち直ってくれるだろう、とスクアーロは思っている。しかし、それ以上にスクアーロの心に引っ掛かっている一言があった。先程のXANXUSの言葉。
 自分は一体どんな目をしているのか、と。
 全くその質問の意図がつかめなかった。掴めなかったので取敢えず見て分かる部分を述べたが、それは求められていた答えではなかったようだった。これならば俺は最強か、と問われた方がましだ(最強だと答えるのに)ならばあの男が求めた答えとは一体何か、と考える。
 XANXUSの目はいつだって暴力的なまでに威圧的だ。そして猛々しく雄々しく、強く他のものを見下している。赤という色はそれら全てを相乗効果でさらに強めた。最近ではそれに他の色も混じりだしたわけだが。
 東眞を見る時だけ、その瞳は信じられないような色をして細められる。優しいという言葉がこれほど似合わない男もいないのだろうが、それ以外に表現を知らない。そう、優しく柔らかい。普段の刺すような威圧感が一切取り払われ、その時だけ肉食獣が日向ぼっこでもしているかのような雰囲気を出す。それが決して嫌いではなかった。そんなことは今どうでもいいが。
 そんな男がどんな目かと問うた。今の彼の目は自分から見れば普通の、所謂威圧感だらけの「ボス」の目だ。けれどもスクアーロは知らない。
 「今のXANXUS」が現在一体どのような目をして東眞を見るのか。その目の色は東眞にしか分からない。
「―――――――――――全く、」
 難儀だぜぇ、とスクアーロは息をついた。そして足を投げ出して天井を見上げる。少しだけ汚れているその天井はまるで、現在の二人の関係に見えた。本来の色はとても綺麗なのに、その汚れの所為で本来の美しさを失ってしまっている。いつか、とそんな恐怖が頭をよぎる。
 もし本来の美しさを忘れてしまったら。現在の汚れがふき取ることもされず、それが本物になってしまったら。
 スクアーロは見上げていた首を元に戻し、机の上に置かれているグラスに手を伸ばす。そしてその中のぬるくなってしまっている水を一口で飲みほして息をつく。
「―――――――そんなのは、ごめんだぞぉ…」
 後で天井でも掃除しようか、とスクアーロはそんな風に思った。その汚れをふき取ったら、二人の関係も元に戻るのではないか、などとあり得ないことを考えながら。