16:どうか - 1/7

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 窓のない部屋に一瞬で広がった空に安堵した。涙が出そうなほどに安心した。心から、そう思った。だが次の瞬間その空に焼かれた。空にまき散らされた赤い炎に食らわれた。
 思考が分解され、開かれた嘴からは悲鳴が零れた。呼吸をするたびに入ってくる酸素と炎に肺の内側から焼かれた。身を抉られる痛みと空が一瞬にして炎に塗れた恐怖に自我が崩壊しそうになる。
 助けて。
 そんな言葉は意味を持たない。助かりたければ自分でどうにかするしかない。しかし己を守る嘴は容易く折られた。翼をもがれる想像を絶する痛みに喉が嗄れる。
 赤い炎に―――――――――――――――――――――――瞳に、焼き尽くされる。

 

「!!」
 は、と東眞は体を起こす。引き攣るような呼吸を繰り返して、口元と額を手で押さえる。額に触れた手は冷たく、べたりと水分を感じた。喉をふさぐような呼吸をどうにか正常なものに戻して、東眞は己の姿に気付く。バスローブ。座っているのは柔らかなベッド。
 先刻までのは唯の夢だったのか、と息を吐く。しかし、薬指に感じたひやりとした感触に気付く。シーツを握りしめていた手に視線を落とせば、シンプルすぎるほどシンプルな指輪が嵌められていた。一見シンプルなそれだが、非常に高価なものであることが分かる。こんな高価なものを自分は持っていないし、はめた記憶も贈られた記憶もない。
 なんだろうか、と思ってその指輪を外そうと指をかける。そこに静かな声が響いた。
「起きたか」
 東眞は視線を上げた。それは聞き知った声で、東眞が最も安堵する声――――――――の、はずだった。
 向けられた瞳の色に、フラッシュバックが始まる。ぱっぱ、とできの悪いモノクロ映画のように脳裏によぎっていく影。押しつけられた手。音を立てるベッド。薄汚れた天井。目。赤い、目。
 ごつん、と足音が鳴った。
東眞は反射的に身を強張らせる。かちりと歯が鳴った。しかし身を引く東眞に気を払う様子もなXANXUSは距離をつめていく。それから体が本能のように逃げ出そうとベッドの上で後ずさる。かけられていたシーツに皺がよった。けれども、下腹部に走ったとんでもない鈍痛に東眞は、唯でさえ青白い顔から血の気を失わせて体を曲げる。
「――――――――――ぅ…」
 顔を歪め、その痛みをやり過ごそうとしていた間にベッドの上に影が落ちた。痛みに呻きながら東眞は視線を上げる。ず、とベッドが一人分の重みで沈んだ。指が伸びる。
 それは植えつけられた恐怖を呼び覚まし、体の自由を奪った。あ、と短い悲鳴をあげた東眞にかけられた言葉は、拍子抜けするほどのものだった。恐ろしいほどに場にそぐわない、ある意味ではこれ以上ないほどぴったりの言葉。
「痛むか」
 頬に人のぬくもりが優しく触れてくる。愛おしむかのような、指先の動きに東眞は混乱する。そんな東眞の前に湯気を立てているマグカップが差し出される。牛乳とはちみつの、優しい香り。対応に困った状態で東眞はそのマグカップを受け取る。
 XANXUSはあまりにも普通だった。本当はあの部屋まで助けに来てくれて、そこから先はただの恐怖心からの想像ではないかと思わせるほどに。だが東眞は分かっていた。あれは夢でも想像でも何でもない、まぎれもない現実であることに。下腹部の経験したことのない痛みが、体の僅かな震えが、あらゆるものがそれを教えていた。
「飲め」
「…」
「飲め」
 優しさが、痛い。
 東眞はマグカップに口をつけた。喉を通せば、やわらかな甘い、体を温める味が広がった。場に不自然なほどに不釣り合いな味。小さなマグカップだったので、それはすぐになくなる。
 XANXUSは飲みきったマグカップを受取って、東眞の額に手を乗せる。大きな手のひらにぞわり、と背筋から一瞬で恐怖が駆け上がった。体温を確かめた後、優しい手つきで髪をすく。そこにひやりとした固い感触が肌に当たる。その感触を東眞は知っていた。
 赤い瞳が細められ、ゆっくりと二人の距離が縮まる。唇が、当たるかと思われたその瞬間、東眞はXANXUSを突き飛ばした。そして胸元の服を握りしめて、引きつりそうな呼吸を繰り返す。XANXUSは何も言わない。ただ、その瞳で東眞をじぃと見つめている。突き飛ばした手を東眞は握り締めた。指輪の冷たい感触が、触れる。指が引きちぎられるような恐怖に襲われてそれを外そうと指輪に触れる。しかし、その動きは手に大きなもう一つの手が重ねられて、呆気なく止められた。その手にですら、焼きつくような恐れに全身を支配されて振り払おうとする。が、できない。
 耳に不自然なほどに穏やかな声が聞こえた。
「嵌めてろ」
 静かに、どこまでも静かに穏やかに波紋など一切起こさない声でXANXUSは告げる。それは命令ではない。命令ではないが、東眞の動きを止めるには十分な言葉だった。再度詰められた距離に東眞は、痛みをこらえてさらに後ろに下がる。しかし、そんな小さな動きは意味をなさない。
 だが抱きしめられた。短い黒髪が頬をくすぐる。怯えていたのが馬鹿みたいに何もない。ただ、腕の中に捕えられる。それでも東眞は身を固くした。抵抗もできないほどに、心が怯えている。
 棘のない柔らかな檻の中に閉じ込められてしまった。
 いや、という言葉も喉に引っ掛かって出てこない。ただ安心する、という感情も感覚も一切湧いては来なかった。確たる隔たりがある。壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめられたまま、東眞は言葉を失った。

 

 ごとん、と透明な液体が入ったグラスが乱暴に机の上に置かれた。許容範囲を超えた波が少しだけ溢れて机に水滴をおとす。
「ちょっとスクアーロ、中身こぼさないでちょうだい!」
 少し甲高い声がそれを咎める。スクアーロはうるせぇぞぉ、と言ってからルッスーリアを睨みつけた。勿論それでどうこうなるという話でもないが。
 波が収まって、そして部屋には重たい沈黙が落ちる。誰一人として口を開こうとしない。
「ボスは―――――――…どこ行ったぁ」
 しかしそんな沈黙をスクアーロの錆びれた声が叩き割る。その質問にルッスーリアはあの部屋よ、と手短に、けれども非常に分かりやすい答えを与えた。
 つけられたテレビから雑音ともとれる音がこぼれてくる。その一画面を見たマーモンがぽつりと、意外と速かったね、と告げた。上手く隠されてはいるが、そのトランクをスクアーロはほんの数時間前に見た記憶がある。リポーターはただ、それについて淡々と述べているだけだった。中身は水で膨張している上に、焼けただれた皮膚は身元の判明ができない。折りたたまれた死骸はトランクにはちきれんばかりに膨れ上がっていた。醜い、死体。
「ああ」
 そうだなぁ、とスクアーロは答えておいたグラスに再度手を伸ばして、それを喉に通す。度も言うほど強くはないが、それでも喉を焼く辛さがある。再度下りかけた沈黙にルッスーリアが耐えきれなくなって、明るい声をあげて周囲を励ます。
「もう!皆して何陰気な顔してるのよっ!ほら、元気出して!ルッスーリア特製クッキーでも作っちゃうわよ?!」
「東眞のクッキーがいい」
 その名前にまた空気が凍る。張りつめる。ルッスーリアは立てた小指をしゅん、と下におろした。
「なぁ、東眞いつ戻ってくんの」
 ぱた、とソファの上で寝っ転がった状態でベルフェゴールはそう尋ねた。けれどもその質問に答えられる人間はこの場にいない。XANXUSは東眞を連れて帰ってからまだ一歩もあの部屋から出てこない。
「なぁ」
「うるせえぞぉ。黙ってろ、ベル」
「は?スクアーロの分際で何言っちゃってんの?」
 死ぬ?とベルフェゴールは殺意をあふれさせてナイフに手をかけた。それをマーモンがやめなよ、と止める。
「何も変わっていない。人が一人かけただけさ、僕らがするべきことは同じだろう」
「お゛ぉ゛い、マーモン。てめぇそれ本気で言ってんのかぁ」
「言っているよ。彼女がいなくなって壊れるような僕らだったのかい?違うだろう。僕らは誇り高きヴァリアーの一員だ。そしてその『日常』が戻ってきただけさ。ボスが賠償結婚をするための行動を起こした。それは何か問題があることに―――スクアーロ、君はそう思うのかい?」
 全くの正論にスクアーロは言葉を詰まらせる。マーモンが言うことは正しい。黙ったスクアーロにマーモンはさらに続けた。
「最近の僕らがいたのは『非日常』だった。あれを『日常』と勘違いしてるから憤るのさ」
「…」
「時が来ればまたそんな時もやってくるかもしれない。でも今はそうじゃない。旅行から帰って来た人間が少しその余韻に浸って、それが非日常か日常か区別がつかなくなった状態なのさ」
 今は、と言いきったマーモンからスクアーロは視線を背けた。
 それでも自分はあの「非日常」を決して厭うてはおらず、好ましく思っていたのだ。だからこそこんな結果は、認めたくないほどにわだかまりを感じる。
「俺は」
 珍しい口出しに全員の目がレヴィに行く。認めたくはないが、と切り出す。
「ボスがあの女といる時だけは、普段とは別の意味でいい顔をされておられると思った」
「レヴィ…あなた」
 ルッスーリアはそれに僅かに眉を下げた。東眞がもしこれを聞いたら何と言うだろうか、想像した。
「無論ボスの行動は正しい。だが、俺は――――あの女を認めたかった。こんな中途半端な状態で投げ出されるのは本意ではない」
 認めて下さい、と一歩引いて笑った東眞の顔を思い出してレヴィは眉間に皺を寄せる。ボスの女として認めてやりたかった、と思う。彼女はそれだけの努力をしてきた。努力する人間は嫌いではない。
 レヴィの言葉にルッスーリアは、ぐっと拳を握り締めた。
「じゃぁ
「どうにかできるのかい」
 冷たいマーモンの声にルッスーリアは動きを止めた。しかしルッスーリアは笑った。
「どうにかするのよ。成功確率は90%以上じゃない!」
「…どう考えても以下だと思うけどね」
 その言葉にルッスーリアは紙とマジックを持ち出して来て、きゅぽんとふたをとる。そしてそんなことないわよ、とマーモンに返した。
「東眞は強い子だもの」
 今は向かい風が強すぎて立ち上がれないだけで。少し風を弱めてさえれば、彼女は自分で立ち上がる。
 ルッスーリアはそう思っているし、そう確信している。そして周りに、励ましの言葉を書いて頂戴!とマジックを手渡した。