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スクアーロは投げつけられた土鍋を台所に持って行って、それを流し場の中に置く。花瓶や何やらで殴られているとはいえども、やはり痛いものは痛いのだ。後でことの原因の東眞辺りに見てもらおうと頭をさする。蛇口を上げて水を出し、それを溜めておく。
「あら、スクアーロ」
ひょいとそこに声がかけられる。ルッスーリアが扉から顔を覗かせて、それから中に踏み入る。スクアーロの手元にある空の土鍋を見てうふふと笑った。
「とうとうなのねぇ。何だかこっちまでどきどきしてきちゃうわぁ」
「全くだぁ。ところで今日の主役はどこ行ったぁ」
その言葉にそうそう、とルッスーリアがアタシも探してたのよぉ、と告げる。
もう日は傾いて夕暮れの色に染まり始めている。この時刻になってもここにいないというのは珍しい。それにどこにいるかわからない、というのも珍しい。
「何だぁ?てめぇなら知ってると思ったんだが…」
「ベルなら知ってるかしら…?レヴィ!」
丁度その扉の前を通りかかった巨体にルッスーリアは手を振って声をかける。それにくるりと大柄な体躯がのっそりと動いて、スクアーロたちと視線を合わせる。そしてレヴィは何だ、といつも通りムスっとした調子で返事をした。
「東眞を知らない?」
「…あの女ならばパンを買いに行ったぞ」
パン、という言葉にぱん!とルッスーリアは手を叩く。そして成程ねぇ、と嬉しそうに体をくねらせる。少しばかり気味が悪い。蠕動運動を見ているようだ。しかし、スクアーロはルッスーリアの言葉の意味が分からずに何がだぁ、と尋ねる。
「んもぅ!察しが悪いわねぇ。 ほ ら ボスが好きだって言ったパンがあったじゃない?ボスのために今晩はそのパンを買いに行ったのよ!そうに違いないわ!」
確かに先日購入しに行ったパンはもう残っていないし、それにあれは東眞の前ではXANXUSの口に入ることはなかった。(スクアーロが持って行ったので結局はXANXUSの口に入っているわけだが)ああ、とその言葉にスクアーロは納得を示す。
「そういうわけかぁ」
「そんなのだから甲斐性無しって言われちゃうのよ」
「それは関係ねぇだろぉがぁ!!」
う゛お゛お゛ぉおい!と叫んだスクアーロたちを他所にレヴィはすっとその細い眼を窓の外に向けた。先程よりも少しばかり夕日の色が濃くなってきている。
「まだ帰っていないのか」
「え?」
「あ゛?」
ぽつりと言われた言葉にルッスーリアとスクアーロは同時に反応する。
この場所からパン屋までは足で行けば確かに結構な距離がある。こちらから使用する車といえばリムジンやら何やら高級車ばかりで東眞はいつも歩いて行っているのだから時間がかかっても仕方ない。自転車が欲しいですねとそう言えばこの間ぼやいていた。それでXANXUSが自転車のカタログを仕事の後にこっそりと見ていたのは、ここだけの秘密だ。あのXANXUSが女と二人でサイクリング☆なんて姿は想像に難い。難過ぎる。というよりも想像したくない。
それはさておいて、スクアーロはレヴィにその疑問を尋ねようとした。が、その前にルッスーリアが先に質問してしまう。
「いつ出たの?」
「…昼頃、だったか」
「昼だぁ?」
それならばもう戻って来ていてもおかしくはない。というか戻っていないとおかしい。
森に囲まれているとはいえ最短通路はあり、そこを通れば町まで大体徒歩で三十分かそこらで行ける。そこからパン屋まで長く見て往復一時間と見積もっても、二時間程度だ。これはおかしい。
「道に迷ったのかしら…?」
ルッスーリアは東眞が一番初めにイタリアに来た時のことを思い出す。地図とは全く正反対の方向を指していた。しかしその考えをスクアーロがすぐに否定する。
「あいつは一度行った場所なら間違えねぇぞぉ。頭の中に地図が作れるとかなんとか言ってたなぁ」
そんな会話をしたのを思い出しつつ、スクアーロはうんうんと頷く。それならばなおさら東眞が今ここにいないのはおかしい。はっとレヴィが眉間にしわを寄せる。
「まさか…っ逃げたのか!」
「馬鹿ねぇ。逃げる人が行き先告げるわけがないじゃないの」
「それに逃げられるわけがねぇのは本人が一番よく知ってんだろぉ」
叫んだレヴィの考えを一瞬で二人は切り捨てる。二人とも東眞がそんなことをするはずがない、と言わずに外的状況から判断しているあたりは冷静である。そこで三人はふつと視線を合わせる。
「…何か、あったのか…?」
「何が?ボスの女に手を出す馬鹿はいないわよぉ」
「あいつの情報流してねぇだろぉ」
スクアーロの言葉に三人は押し黙る。
考えてみれば、まだ彼女のことはほぼ一切と言っていいほど外部に漏れてはいない。家光を通じてボンゴレ九代目には伝わっている恐れはあるものの。婚約するまではと思っていたのかどうなのか、XANXUSがそれを望まなかった。
「そういえば、そうねぇ」
「襲われてる…なんてことは考えられるのか?」
珍しいレヴィの神妙な声にスクアーロは首をかしげた。ごろつきに、という意見であれば可能性はないとは言い切れない。ただ。
「あいつは銃持ってるだろぉ。その辺の心配はいらねぇと思うが…」
命の危機を感じれば躊躇なくその引き金を引くことができる。そこら辺の、そう、ごろつき相手であれば大した心配はいらないだろう。確かにマフィアは女子供を尊重し大切にするが、敵を侮辱するために強姦という手段に出ることも厭わない。
だが今回はまた別だ。東眞はその情報自体が流されていない。そう考えればまずそういった線は消える。
「…やっぱ迷子…かぁ…?」
そうやって危惧するラインを消していけば結果残ってしまうのはそれしかない。
マフィアが跋扈しているとはいえ、マフィアも別に無差別な殺しなどしたりしない。名誉ある男として、きちんと理由のある殺しをするのだ。(その理由もまぁ、考えものだが)
「にしても遅すぎない?確かに東眞はイタリア語は話せないけど、結構身振り手振りならどうにかなる程度にはなったじゃない」
英語もそれなりに話せるし、と続けたルッスーリアの意見にスクアーロは確かに、と頷く。こうなったら。スクアーロは考えるのをやめた。
「探しに行くぞぉ」
悩んでいるのは性に合わないとばかりにスクアーロはごつりと靴を鳴らした。だが、その背中にルッスーリアの声がかけられる。
「スクアーロ、あなた東眞が行ったパン屋の場所知ってるの?」
「…」
そう言えば知らない、とスクアーロはふと足を止める。その隣にルッスーリアがひょいと体を滑り込ませて、小指を立てる。
「一人で行こうとしないのよ。アタシも手伝ってあげるわ。ね、レヴィ?」
「なっ!何故俺が!!!」
「東眞のこと心配じゃないの?」
「心配なわけがあるか!!」
がなったレヴィにルッスーリアは仕方ないわねぇ、と奥の手を使う。口元に優しげな色を湛えて、微笑む。その癖声は妙に男前だ。
「東眞がいないと…ボスが心配するわよぉ」
「仕方あるまい」
現金な奴だ、とスクアーロは溜息をついた。そして三人は外に出た。
「おい哲、何かメール来てるぞ」
パソコンをいじりながら修矢は洗い物を終わらせた哲に呼びかける。哲は手を拭きながら何ですか、とひょいとそのパソコンを覗きこみ、そしてああ、と笑った。
「ルッスーリア氏からです」
「…あのひよこ…いや、なんか形容しがたい頭の」
「その表現もどうかとは思いますが…はい」
哲は修矢からマウスを預かり、そのメールをダブルクリックする。すると、コンピューターの画面一杯に写真が開く。そこには以前ここに来た六人と東眞の集合写真。一人XANXUSがそっぽを向いているが、東眞がその隣に並んで嬉しげに微笑んでいる。
それを見て、哲は目を優しげに細める。
「元気にしておられるようですね」
「…哲、写真から魂を抜くっていう技術は可能か」
ぎりぎりと隣で歯軋りを始めた修矢に哲は困ったように笑って、無理ですと告げた。そこで修矢は思い出したように哲に告げる。
「そういや姉貴、婚約するんだって」
「…は、ぁ…」
その言葉が一瞬で飲み込めず、哲はぱちぱちと瞬きをする。どうやらそれが普通の反応らしい。修矢はそんな哲に丁寧に再度繰り返してやった。
「あ、ああ、そうなんですか…驚きですね」
「まーな、俺も驚いたよ。早い」
その言葉に哲はいえ、と修矢の言葉を否定する。それに修矢は怪訝そうな顔をした。
「自分は坊ちゃんの反応に驚いたんです。随分と―――――立派になられた」
くしゃりと頭を妙に優しい瞳で撫でられて、修矢は恥ずかしそうに俯いた。その口先は少しばかり尖っている。
「哲は嬉しいです」
「な、何だよ!もう」
「本当にそう思っているんですよ。坊ちゃんが立派になられて」
その言葉に修矢は頬を少しだけ、親にほめられた子供のように赤くして、大人しくその手を受けた。哲はようやくその手を離して、ですが、と続けた。
「婚約と言ってもイタリアでは婚約期間が随分と長いらしいですね」
「何でお前そんなこと知ってんだ?」
「調べたんですよ。自分は坊ちゃんの世話役ですから」
当然です、と笑って哲は続ける。
「ですから、すぐに結婚ということはないでしょう。婚約五年目で別れるというのもそう珍しい話ではないですよ?日本と婚約の意味が随分と異なる国だそうで」
「マフィアは」
「…そうでしたね」
そう言えば、と哲は訂正する。東眞が行ってしまった後、哲もXANXUS達についての情報を集めようとした。シルヴィオに連絡を取って。
シルヴィオ・田辺、彼は哲が桧に来てからの彼の世話役の男であった。イタリアと日本人のクォーターで、今は一体いくつくらいになるのかどうかは分からないが、もう四十路も近いのではないだろうか。あの男に教えられた、躾けられたとでも言うべきか、数々のことは確かに役に立っている。が、それよりも嫌な思い出の方が格段に多い。
片付け屋と情報屋としての仕事を手広くやっている彼に連絡を哲は苦虫を噛んだような顔で思い出す。
『最近連絡が多いな、哲坊。なんだなんだ?兄貴分の俺が恋しくなったってか?くーっお前でもそういう可愛い所あったんだなぁ』
信じられねぇ、とシルヴィオは笑う。哲はそれに違いますと手短に返事をした。そして情報を買いたいとの旨を告げる。それに向こう側の声音が一瞬鋭くなった。
『お前が欲しい情報ってのは―――――顔に傷がある男、か?』
妙にきつい、相手を殺すような声に哲は僅かに体が震えた。しかし、ここで頷かないわけもいかないので、哲ははい、と答える。
『嬢ちゃん絡みとはいえ、あまり教えたくねぇな』
「そこを」
電話向こうで煙を吐き出す音がした。相変わらずのヘビースモーカーっぷりだ。
『俺はそいつの存在を知っている。知っているだけだ。本来ならば、知っているということさえ言いたくはない。これがお前にやれる情報だ』
「…は?」
あまりに情報とは呼べない情報に哲は唖然とした声を出す。すると、電話向こうでかちりとライターが鳴る。
『あいつらは存在しない存在。影の影。表に立たない者達』
裏稼業のものであることは哲も分かっていた。あの威圧感、圧倒的な力。ああまで見せつけられて、それが分からない馬鹿ではない。
『この間の片付け仕事、あれでもらったお前の情報から出せる情報はこれくらいだ』
「可愛い教え子を優遇してくれる気はないんですか」
『可愛い?お前が!?冗談はお前のその顔だけにしとけ。俺はビジネスマンなんだよ。これでも十分優遇してやってるぜ?何てったって、関東を占める組を潰した情報も貰ったしな?』
からかうような調子に自分のペースを崩されないようにしながら、哲は食い下がった。しかし、それにシルヴィオは冷たく言い放つ。
『それ以上は嬢ちゃんの口から聞け。向こうの許可が取れない限りは俺も口を割るつもりは、ない。俺は情報に殺される馬鹿にはなりたくねえ。いいか、お前にも教えたな、哲坊』
一拍置いて二人の声が重なる。
『「引き際を見誤るな」』
く、と哲は片目を細める。
『分かってんじゃねーか』
「嫌と言うほどに、叩きこまれましたから」
『まぁ、これだけ情報やったんだ。それにあの坊主だってある程度の情報は持ってんだろ。最高の情報源がすぐ傍にいるじゃねぇか』
その言葉、哲の脳裏に三人の少年の姿がよぎる。彼らは間違いなくXANXUSたちと面識があった。
『「俺に」言えるのはここまでだ。後はそっちでどうにかしな』
「分かりました」
電話を切ろうとした哲にシルヴィオはちょっと待て、と声をかける。哲は電源ボタンを押すのを一旦止めて、耳を傾ける。静かな、威圧感を思わせる声が響いた。
『嬢ちゃんのこととはいえ、こっちにあまり手を出すんじゃねぇぞ。お前にはお前が守るべきものがあるだろうが。それを忘れるな』
分かっています、と哲は一言告げた。そしてシルヴィオは電話を切った。
「田辺さんか」
「さんはいりません、あんな男に」
「人あたりのいい人だと俺は思ったけどな」
「あれは人あたりの良さそうな皮を被った鬼です」
散々な言いように珍しいなと修矢は返す。哲はそこまで人を悪く言ったりすることはない。いつだって客観的だというのに。まぁそれはいいかとその場は流した。
「マフィア…ねぇ。まぁ、そう考えれば納得もいったけどな」
目の当たりにしたその暴力的な力。日本という社会なぞ一瞬で破壊できるといわんばかりの。
「姉貴もこのことは知ってるみたいだったし…」
実際にはそうではないのだが、修矢はそれに気付いていない。二人の情報を合わせれば正しい答えが出てくるのだが、両者がそれに気付くことがなかったためその事象は起こらなかった。
哲はパソコンから目を離して修矢と向き合う。
「しかし彼らがこんなにも情報を流すとは思いませんでした」
シルヴィオがあれほど言い渋ったことを、こうまであっさりと口にしているのだ。驚かざるを得ない。哲の言葉に修矢は俺もそう思ったと、付け加えた。
「まぁ、そういう意識がないって言うんじゃないか…あれは」
綱吉の顔を思い浮かべながら修矢は言う。十代目、と隼人は呼んでいたが本人はそれを肩書くらいにしか使用していない。本質を見誤っているということはないのだろうが、その名前を軽く見ている感じは否めなかった。ただ、なすべきことだけはその心に刻んでいるということは――――目を見て分かった。修矢は綱吉の考えに完全同意するということはあり得ないが。
「どっちにしろ、姉貴は結婚申し込まれたら受けるつもりだろうな」
「意外とあっさりしておられますね」
「…俺も、成長したってことだよ。だから」
だから?と哲は首をかしげた。修矢はぎりっと歯を噛んで、お前の舌も少しは成長しろ!と叫んだ。