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 こつん、と机のグラスを揺らした。中に浮いている氷はただ冷たい色を宿して、酒に溶け始めている。
 XANXUSはただじ、とその様子を見ていた。
 指に嵌めていた装飾品が一つなくなった。たったそれだけのことなのに、指が妙に涼しく感じている。少し離れたゴミ箱には指輪を入れるためのケースが他のゴミと一緒に入っている。ただ、とXANXUSは思った。
 ただ自分はあの女を他の男に渡すことをしたくなかっただけなのだ。それは自分の愛情表現の一種であり、他の何物でもない。分かってくれると思っていた。全てを許容し、分かっています、といつものように笑顔を向けてくれる気がしていた。
 だが、それはなかった。
 向けられたのは震える瞳と僅かな恐怖と困惑と、それから自分に「何か」を求めている目。光の加減によってあの黒い瞳は深い灰色になったりもする。真黒だと思っていたのに、少し角度を変えれば他の色を見せる。強くて、しなやかな。
 自分だけのものになるのではなかったのだろうか。圧倒的な力を見せつけて屈服させるだけではいけないのだろうか。他に何が必要だというのか。そんな方法は知らない。それ以外の方法は教わっていない。
 抑えつけた腕の細さを覚えている。喉を嗄らして拒絶した声の鋭さを覚えている。抱きしめた体の脆さを覚えている。溢れていた涙の味を覚えている。最後には抵抗をやめたことも覚えている。正確には気を失っただけだが。
 彼女はあれで自分のものになったのではなかったのだろうか。指には自分のものであるという指輪もはめた。体には忘れることのない傷を与えた。―――――――――――足りないものは、何だ。
 分からねぇ、とXANXUSはそう思った。そして、ふと思い出す。
 その時にノック音がして扉が開かれた。鬱陶しい銀髪がゆらゆらと揺れて、スクアーロが部屋に足を踏み入れる。そしてXANXUSのもとまで歩いて、その机の一歩手前で止まった。ファイルされた紙を突き出す。
「ボス、報告書だぁ」
 目の前に置かれた紙をXANXUSは手にとって目を走らせる。そしてスクアーロにそのファイルをつき返す。それから、XANXUSはふと、尋ねた。
「おい」
「何だぁ」
「―――――――――俺は、」
『―――――そんな目を、…っそんな目を、しないでください…っ』
 今にも泣き出しそうな顔をして言われた一言が、引っ掛かっている。強い瞳で言われた言葉よりもずっと、心に蟠りとして残っていた。
「どんな目をしている」
 XANXUSの質問にスクアーロは怪訝そうに眉をひそめて、そして答えた。
「どんなって…目つきの悪い赤色だぞぉ?」
 的確に、スクアーロは視覚的意見を述べた。それにXANXUSはカスが、と言ってそっぽを向いた。そんな容姿など鏡を見ればすぐに分かる。
 どんな目だ。泣きそうになるくらいの目は、一体どんな目だ。
 XANXUSは知っている。東眞は普段からの自分の瞳を恐れたことはないことを。だから、そんな目と言わせしめるほどの目を、自分はしていたのだ。おそらく。
 そんなことを考えて黙っていると、普段よりも珍しく静かな声でスクアーロはXANXUSに告げた。
「ボス」
「あ?」
「以前、アイツは生きている世界が違うっていう話を、したよなぁ」
 覚えてるかぁ?と尋ねたスクアーロにXANXUSはぞんざいにああ、と答えた。記憶に引っ掛かる程度には覚えている。スクアーロは短く息を吐いて、そして告げた。
「東眞は―――――、俺たちとは違うんだぞぉ」
 性別は勿論のこと、育ってきた生活環境も常識も何もかもが違う。一般、とは決して言えないがそれでも自分たちとは確たる一線を引いている。また別次元の話。XANXUSはスクアーロをその赤い瞳で睨みつけた。
「ならてめぇはあいつが犯されるのを指咥えて見てろってか」
「そういう意味じゃねぇ」
 だったら何だ、と珍しく耳を傾けたXANXUSにスクアーロは少しほっとしながら言葉を続けた。
「違うんだから、話くらい聞いてやっても…いいんじゃねぇか…?心細いんじゃねぇのか。東眞がいくら精神的に強くても、犯されかけたんだ…それで追い打ちかけるようにボスだろぉが…。別に俺はボスの行動を非難してるわけじゃねえ。俺たちの世界ではそんなのは普通だ。だが、東眞はどうだぁ?」
 違うだろぉ、と小さく視線を逸らしてスクアーロは言う。そして、それだけ告げるとスクアーロはファイルを脇にはさんで背を向けた。扉の前で立ち止まる。
「東眞は、多分てめぇのこと…責めちゃいねぇよ。全部分かってるんだろうよぉ」
 ボス、とスクアーロはさらに言葉を続ける。てめぇが選んだのは、と取っ手に手をかけてスクアーロは扉を引いた。
「そういう女じゃねぇのかぁ」
 自分の全てを許し包み込む、聖女(マリア)唯一人の、自分だけの。本人に言えば、笑顔でそんなことはないですよと言いそうな。
 うるせぇ、とXANXUSはスクアーロに言葉を投げつけた。しかしそれは言葉の意味ほど荒々しくはなく、スクアーロは部屋を出て、そして扉を閉めた。