16:どうか - 4/7

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 ところで、とルッスーリアは東眞の髪をかきあげて、多少聞きづらそうにして尋ねた。
「大丈夫だったの?」
「…何が、ですか」
 精神的に今が一番つらく、楽観的に見てもあまり大丈夫と言いたくはない。まだ解決の糸口のひっかかりすら見つかっていないのだから。そういった意味で、ルッスーリアの大丈夫、とは一体何を指し示すのかが分からず、東眞は反対に尋ねた。
 ルッスーリアはその、と一度言葉を濁してから悩んだ末に言葉を口にした。
「安全日、だったのかしら」
「…あん、ぜん………び…?」
「…そのね、ボス、中に出したんじゃない?」
 コンドームを常時持っているなど、考えられない。勿論、そういった赴きの時はそれは当然携帯していくが。あの時はそれとは違うし、それにXANXUSの行動から考えればつけて行為に及んだとは考えづらい。
 ルッスーリアの言葉に一瞬東眞の頭の中がスパークを起こしたように真っ白になる。呆然自失とした東眞にルッスーリアは慌てて付け加える。
「も、勿論ボスのことだから、おろせなんて言わないと思うわよ!それに、機関だってしっかりしてるし一流の医者もいるんだから」
「…」
 そういった行為による精神的打撃が強すぎたために、生理的結果など頭の中から弾け飛んでいた。
 子供が嫌いだということは決してないし、むしろ好きだ。だが、あの行為によって生まれた子に対して自分は何と言えばいいのだろうかと東眞は思案する。愛のない行為によって生まれた子供です、とでも。嘘は言えるが、そういった嘘はえてしてばれる運命にある。
 顔が恐ろしいほどに青ざめて東眞は額に手をあてた。ルッスーリアが不安げに声をかける。
「どうなの…?妊娠検査薬とかいる…かしら?」
「…いえ、今は…」
 妊娠検査薬は生理が遅れてから一週間目辺りが使用時期なので、今は使えない。東眞は視線を上げてルッスーリアに尋ねる。
「あ、その、私が…帰ってこれたのは…」
「そ、そうね、二日前よ」
 カレンダーいる?と聞かれたが東眞は首を横に振った。生理は常に定期的に訪れているので計算をすれば、すぐに出る。
「…」
「東眞…?」
 ごく、と唾を嚥下する。ルッスーリアは東眞からの返事を待った。
 視線に映る指が折り曲げられていく様子。空気は重い。指の動きが止まり、東眞は口を開いた。
「…微妙なラインです。ですが、安全日や危険日は目安でしかありませんし…絶対なんて確証はどこにも…」
 視線を泳がせて口を閉ざした東眞にルッスーリアは何と言うべきか分からない。いくら自分が女に近い感情を持っているにせよ、体は完全に男なのだから、妊娠という事象に対する女の気持ちは想像でしか分からない。東眞の手がいつの間にか腹の上に乗せられているのに気付いた。
「どうしましょう…」
 片手で顔を隠し、うろたえる東眞にルッスーリアはどうすべきか困る。XANXUSを呼ぼうにも、事の原因を呼んでも仕方がないというよりも悪化するような気がする。
 ルッスーリアは結局おずおずと尋ねた。
「…嫌なの…?」
「…わか、らないんです…子供を作るって、そんな、まだ覚悟も何もないのに―――玩具を欲しがる感覚で子供を産んでいいはずがないんです。育てる責任が生じますし、経済的にもですけど…それ以上に精神的な問題です。生まれたから育てる、なんていうのは」
 一つの命に対して何と言うぞんざいな扱い。だが、中絶もしたくない。尤もこれは妊娠していればの話だが。
「と、ともか、兎も角、現段階では一切判断は、できま
「産め」
 その一言にぞっと東眞は顔を上げる。ルッスーリアはベッドの端からさっと腰を上げた。
 扉に手をかけて、そこにはXANXUSが立っていた。赤い瞳がルッスーリアに無言で出て行けと告げる。ルッスーリアは出て行くのを一瞬躊躇ったようだったが、頷く以外の選択肢はなく、東眞を一度省みてその部屋を後にした。
 ご、と足音がなって白いシーツをかぶせたベッドに近づいていく。動くこともかなわず、東眞はこくりと喉鳴らしてXANXUSを見上げた。XANXUSは視線を落して、空になった皿を見た。
「堕ろすんじゃねぇ」
 できたとしても、とそう言っていた。東眞は言葉もない。本来であれば喜ぶべきであろうところなのだろうが、素直にうなずけない溝が横たわっている。
 ぐとベッドが沈んだ。赤い瞳が喰らうようにして黒い瞳の奥底を覗く。
「…何か、言え」
 眉間にきゅと皺が寄って、瞳が細められる。頬に添えられた手に僅かに力がこもった。だが東眞は言葉を持たない。何を言うべきなのかがまだ分かっていない。
「言え」
 命令のように、否、命令を紡ぐその言葉に反対に口を閉ざしてしまう。何と言う悪循環。
「喋れ。てめぇは首振り人形か」
 人形、その一言にさぁと頭の血が一気に下がった。何故だか無性に悲しくなった。一番言われなくない一言を、言われた。東眞は眉尻を僅かに下げる。
 黙ったままの東眞にとうとうXANXUSは痺れを切らしたのか、そのまま柔らかく白いシーツに押しつけた。ぶわり、と耳元で布がこすれ合う音が、鈍く響いた。見下ろす瞳にふっと恐怖が体を支配しかけた。だが、東眞はそれを振り払った。
 励ましてくれる人がいる、励ましてもらった自分がいる。立ち直りたいとそう切に願う己がいるならば。まず、動かねばなるまい。
 息を大きく吸いこんで、東眞はXANXUSを見つめ返した。
 解決の糸口はまだ一本たりとも目の前に垂れさがってきてはいない。それを探すために、向き合う必要がある。
「もう、」
 目を覚まして、初めてと言っていい程初めて、東眞はXANXUSに「話しかけた」。訴えるのでもなければ、懇願するのでもなく。その行為にXANXUSは僅かに動きを止める。東眞の喉が上下するたびに喉からでた音に唇がそれを言葉にした。
「XANXUSさんは、私を信じては――――いない、の、ですか」
 ぴく、と赤い目が痙攣したかのように動いた。東眞は話すのをやめない。
「この部屋に閉じ込めて、全てを遮断して、どう
「は!」
 上から押し付けるような笑いが落ちてくる。優しさとは程遠い、何故分からない、と言わんばかりの瞳に東眞は耐える。強すぎる風に必死に足を踏ん張る。
「なら、てめぇは俺に何をして欲しい!謝れとでも――――…言うつもりか?」
 ふざけるんじゃねぇ、と言葉が綴られる。言い様にこめられる感情に東眞は目を細めた。彼もまた、どうしたらいいのか分かっていないのだということに気付く。
 他に方法を知らない、どうしたらいいのか分からない。自分が知っている方法はこれだけで、それを相手に適用するしかない。そんな、こと。
「いいえ」
「――――――――――なら、何をして欲しい」
 言葉に落ちた陰り。赤い瞳がまるで何かを求めるかのように細められる。何が原因でこんな状況になってしまったのか、その答えが欲しいと、言わんばかりに。
 こく、と東眞は唾を飲んだ。
「XANXUSさんは、私に何をして欲しいんですか」
「」
 それに初めてXANXUSは言葉を詰まらせる。赤に動揺の色が走った。手首を痛いほどに掴むその手に、さらに強い力がこめられる。骨がぎしりと音を立てた。痛みを顔に表すことなく東眞はその答えを待たずに、続ける。
「答えて下さい。何を、して欲しんですか。私は、ここから出して欲しい。そして、
「うるせぇ!」
 続きに言おうとした言葉は圧倒的な声量で潰された。だが東眞も引かない。まっすぐに対峙して、向き合う。
「怒鳴っても、私は首を縦に振りません。私が欲しいのは、財産でも婚約でも、そして指輪でも―――ないんです」
 そこまで言って東眞は、少しばかり開いた糸口を見つけた。それは本当に小さなもので、掴むと消えてしまいそうな。
 XANXUSはその言葉を聞いて、目を大きく見開く。
「わた
「そうか」
 その声の低さに東眞はぞっと身を震わせる。ぐり、と指を押しつぶされる様に掴まれて、今度こそ痛みに顔を顰めた。指の根元から冷たい感触が抜ける。XANXUSの手の中には指輪が二つ。しかし、それは一瞬で灰も残さずに炎に消えた。
「―――――――――――だが、逃がさねぇ。無くてもいいなら、やる必要もねぇ」
「…」
 ぎ、とベッドから重さが退き、あまりにも重い足音が部屋の壁に反響する。取っ手に手がかけられる音が鳴る。赤い瞳がこちらを見返した。
「ここで、死ぬまで暮らせ」
 扉は音をたてて閉められた。