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ゴミ箱を踏んで蓋を開ける。生ゴミが入ったそれに白い皿を傾けた。箸を一切付けられいないそれが薄い汁を残したまま皿を滑って、開いた口に放り込まれた。
XANXUSはその皿を流しに放りこんだ。机の上に置いた料理は一日経っても東眞の腹に入ることはなかった。鍵の掛けられた部屋に足を踏み入れれば、もう視線も向けない。ただ顔を掴んでこちらに視線を合わせさせる。少しばかりやつれたその瞳が、見ていた。
だがもう不安はない。焦る必要もない。ゆっくり、そうゆっくりと縺れた糸を解きほぐしていけばいい。自分の邪魔をする人間は誰一人としておらず、そして彼女はもうどこにもいかない。脅威にさらされることもこれ以上傷つくこともない。
点滴を打たせよう、とXANXUSは電話をとろうとポケットに手を入れた。そこに明るい声がかけられる。
「ボーッス!」
「…何だ」
XANXUSは億劫な調子で視線を持ち下げて現れた女、否、男、ルッスーリアと視線を合わせる。ルッスーリアはくるっとまわってXANXUSの手から離れた皿を見た。そして、水に浮いた油に顔を顰める。
「ボス駄目よ」
「あ?」
「東眞の体だって本調子じゃないんだから、そんな脂っこいもの注文してもね?」
「…」
そこで、とぴっとルッスーリアの小指が立つ。
「ルッスーリア特製、おなかに優しいリゾットを持って行ってあげようと思うんだけど…駄目かしら」
そう言ってルッスーリアの背中からひょいとベルフェゴールが湯気を立てたリゾットを乗せた皿を手にして現れる。にっと笑ったベルフェゴール、それにルッスーリアを交互に見つめてXANXUSは、勝手にしろと短く了承の意を告げた。ベルフェゴールがそれにやり!と言って行こうとしたのを、ルッスーリアがその手からリゾットを掻っ攫って止める。
「 だ め よ 。行くのは私一人。ベル、じゃんけんで決めたじゃない」
「ちぇ、けーち!オカマ!ハゲ!」
「最後のは聞き捨てならないわよ…っ」
ふるり、と震えたルッスーリアにベルフェゴールは一瞬で背中を向けて、その場から居なくなった。ルッスーリアは仕方ないわねぇ、と溜息をついてXANXUSを再度向き合う。
「ボス、それとお願いがあるんだけど」
「…何だ」
「監視カメラ、切ってもらってもいいかしら。安心して頂戴?ボスは私の好みよく知ってるじゃない?」
駄目?とルッスーリアはXANXUSにおねだりをする。まだ要素が足りないらしく、ルッスーリアはめげずにセールスポイントを挙げる。
「ほら!女の子同士の話もあるのよ?東眞だって誰にも相談できずに辛いと思うの。ボスは男だし、それにとっても男性的でしょ?女同士でしか話せない悩みもあるのよ」
「…てめぇは男だろうが」
まっとうな返答を受けたが、ルッスーリアは胸を張る。
「体は男でも乙女のように繊細な心を持ってるのっ!んもぅ、ボスったら」
まるで己の内側を詮索するような赤い瞳を受けて、ルッスーリアは背に冷や汗をかく。しかし暫くの後、その視線がようやく外される。ルッスーリアは全身の力をどっと抜いて安堵した。
「――――いいだろう。とっとと行け」
「Grazie!ボス!!」
XANXUSの投げた鍵を受取り、ルッスーリアはぱっと笑顔を浮かべる。抱きしめてキスをしようとしたその動きを避けて、XANXUSはその場を後にした。
ベルフェゴールは部屋に戻って、集まっていたスクアーロたちに頷いた。それにスクアーロたちはほっと胸をなでおろす。
「これでどうにかなると良いがなぁ」
「オカマに任せたの失敗じゃね?」
「てめぇが行くよか千倍ましだぁ」
は、と笑ったスクアーロにベルフェゴールはナイフを投げる。スクアーロはいつものようにそれを紙一重でかわして、蹴りをお見舞いする。それも当たらないが。そんな二人を眺めながらマーモンは冷静に一言告げる。
「現状においては最善の選択だったと僕は思うね。東眞との関係においても、それ以上に不自然じゃない。これでレヴィなんかが行ったらとんでもないことになっただろうさ」
「む!」
「傷口に塩を塗り込みそうだ」
それに反論をしようとしたレヴィだったが、マーモンの言葉にスクアーロやベルフェゴールも賛同の意を示す。
「全くだぁ」
「怒鳴り散らしてそーだし」
むむむ、とそれにレヴィは言葉を詰まらせる。それにスクアーロはふ、と真剣な顔をして黙り込む。ベルフェゴールもそれにつられる様にして口を閉ざした。賭けるかい、と皮肉を言ったマーモンをスクアーロは一つ睨みつけて、それからソファにずっしりと腰をおろした。
ルッスーリアはふぅと一息ついてからまだ温かいリゾットを持って、少し小走りに東眞のもとまで行く。
重たい扉に鍵を差し込んで回した。部屋は一度見たことあったがその風景と一切変わりはない。ただ強いて言うのであれば、以前は動いていなかった空調システムが起動しているのと、そして中に人が一人座っていることだろうか。ベッドの上に腰かけている女は顔を上げようともしない。膝の間に顔を埋めて、耐えられないといった様子だ。
ルッスーリアは後ろ手で扉を閉めて、優しく声をかけた。
「東眞」
それに東眞の顔が上がる。驚きの表情で彩られていた。おそらくはXANXUS以外の人間が足を運ぶことを考えていなかったのだろう。
「…ル、スリア…」
喉から落ちた声は僅かに震えていた。たった一日二日会っていないだけだというのに、随分やつれたような印象を受ける。
ルッスーリアはゆっくりと足を進めて、ベッド脇の小さな机にリゾットを乗せたトレーを置いた。しかしそれを食べる食べないのことは言わない。
「ボスには監視カメラを切ってもらったの」
ベッドの端にルッスーリアが腰かければ、布団はその分だけ沈んだ。見開かれた瞳の東眞にゆっくりと手をのばして、その頬に触れる。触れた瞬間、僅かに震えたがしかしそれは一瞬で止む。
「――――私は口の堅さには自信があるわ」
随分と肌が冷たい、とルッスーリアは思う。食べていないというのが理由ではないのだろう。く、と唇が堪えるかのように引き結ばれる。
「弟君もあのお兄さんも――――ボスも、誰も聞いてないの。東眞が気を使わなくちゃいけない人は誰もいないんだから。だからいいのよ、みーんな言っちゃって」
ルッスーリアは頬から手を離し、ゆっくりと距離を取って、そして両手を受け止めるかのように東眞に向けた。
「私が全部聞いてあげるから」
ね、と微笑んだルッスーリアに東眞の顔が一気に歪む。張りつめていた緊張が一気に解かれて、唇が情けないほどに震えて、視界が歪む。
「――――――――――――っふ、ぅあ、ぁ、ぁ――――――…っ、」
か細い声で断続的に喉を震わせ、東眞は泣いた。零れ堕ちる涙を乾いた肌に吸わせながら、肩を縮こませる。まるで泣くのが悪いことかのように。
ルッスーリアは上半身を預けた東眞の背を優しく叩く。抱きしめて、ルッスーリアは改めて思う。本当に小さい、と。確かに一般女性と比べれば背丈も結構あるし、言うほど小さくはない。けれども自分たちと比べれば小さな存在。この小さな体の中に一体どれほどのものを張りつめさせていたのだろうか。拠べきところも持たず、本来の拠所には凭れかかることも許されず。遠く離れた日本にいる彼女の家族は彼女「を」頼るものであって、彼女「が」頼るものではない。
ああ、と声をあげて泣く姿をルッスーリアは初めて見た。どんな状況であれ彼女が声をあげて人前で泣く姿は見たことがない。感極まって涙している姿は一度か二度目撃したことはあるが。悲しみで、ということはいつもなかった。
彼女が涙を流すのはいつも幸せが根底にある。けれども今は違う。寂しくて辛くて悲しくてどうしようもない、そんな涙。それを流さなくてはならないほど、整理のつかない状況だったということなのだろう。
「―――――泣いちゃいなさい。全部吐き出して」
子をあやす母のようにルッスーリアは東眞を優しく抱きしめる。東眞はルッスーリアの胸にすがって泣いた。
泣くことで誰かを困らせることはするまい、と決めていたそれは容易く破られた。もう泣かなければ自分が自分でいられないと思った。この悲しみを吐き出してしまわないと、もう耐えられないと。
言ってしまおう全て。叫んでしまおうあらゆるものを。思っているのに伝えられない、この言葉にするのには難しい感情を。
ルッスーリアはそれを許容した。それを求めた。いいのだと東眞に告げた。そして東眞もそれに答えた。
「ボスのこと、もう――――顔も見たくないくらい嫌いになった?」
その言葉に、東眞はルッスーリアの腕の中で呼吸をしながら告げた。
「あんな、」
あんな、と小さく繰り返す。
「あんなひどいことされて―――――、それでも嫌いになれないんです。好きなんです」
ルッスーリアは何も言わずに東眞の言葉に耳を傾ける。東眞はさらに続けた。
「それに分かってもいるんです。あの行動がXANXUSさんにとっては常識と呼べる範囲の行動であることも。あの人が―――――、どれだけ私を大切にしてくれようとしているかも、私を裏切ってもいないことも、全部」
吐き出された言葉にルッスーリアは少しだけ驚いた。
元より状況分析に長けていることは知っているが、ここまで受け止められていたのは予想外だった。もっとこう、嫌いなった、信じられない、裏切られたなどの言葉を聞くかと思っていた。
「あの人の手を取った時に、この人がどんな常識の世界の人であれ、私を信じて裏切らないと、その言葉に私は頷いたんです。納得したんです。でも、」
こくりと喉が動く。
「今、どんな、顔して…っ何を言えばいいのかもう、分からないんです…っ。一番優しさが欲しかったあの時に、与えられたのが、あれで、今こんなことをされても――――、何を、どんな…っ」
「…」
詰った言葉にルッスーリアは目を細める。
「怒ったらいいのか、詰ったらいいのか、許したらいいのか、感謝をしたらいいのか、受け入れればいいのか、」
「分からないのね」
最後の言葉を助けられて、東眞は頷いた。
そしてようやくルッスーリアの胸を押して距離を置いた。
「チェガーニさんは賠償結婚だと言いました。今、私の指にはまっているこれがそれなら、そうなんでしょうね」
ルッスーリアは何も言わない。言えない。当然東眞自身もそれを見越して言っているのだろう。
「もっと―――――――…別の形で、欲しかった」
呟かれた本音にルッスーリアは言葉もない。XANXUSとて、本心を言えば間違いなく別の形で与えたかったに違いない。ただそれができなかったのは、彼が心底東眞を愛しているからであって、そして東眞もそれを理解している。だからこそ、の言葉。
「好きなんです」
「それさえあれば、大丈夫だと思うわ」
「でも、このままでいたら私は、あの人を、」
「嫌いになる?」
その言葉に東眞は体を強張らせた。そして小さく呟いた。
「―――――――想うことが、できなくなるような気がします。大切だと思うことも、愛しいと思うことも。触れる手に触れ返すことも、全てが、できなくなりそうな気がします」
それはまるで唯のダッチワイフだ。そんな状態で座っているなど何よりの苦痛よりも勝る。指輪なんて唯の飾りだ。
「東眞」
髪をすいた優しい感触に東眞は視線を上げる。泣きつかれた眦は赤くなっていた。
「戻って来て頂戴」
その一言に込められた思いに東眞はきゅ、と唇をかんだ。ルッスーリアはそれに穏やかに続ける。
「すぐになんて言わないわ。時間をおいて、東眞が何をしたいかどうしたらいいか分かったら、戻ってきて。辛くなったらボスに私の名前を言って頂戴。いつでも、ここに来るから」
そしてルッスーリアは、机に置かれたリゾットに目をやった。時間がたってすっかりさめ切ってしまっている。
「もう一度温めてきた方がいいかしら」
「…いいえ、頂きます」
本当に小さくだが、微笑んだ東眞にルッスーリアはにこっと笑った。そして東眞に皆で書いた励ましの言葉を、贈った。