16:どうか - 2/7

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 一体どれほどの時間そうしていたのか、東眞はもう分からなかった。服越しに伝わる互いの肌の温もりが同じになるくらいにはそうしていた。
 少し高い位置にある心臓が、とくりと異なった心音を奏でる。決して死人ではない肉体は必ずその音を体に持っている。くり返しくり返し、音を溢れさせる。泣き喚く子供を抱きかかえると泣きやむというのは、その心音に安心するかららしい。ばらばらだった心音が時折重なって、そして離れる。
 XANXUSは一体どんな気持ちでこの音を聞いているのだろうかと東眞は思う。重なって、そっとそれに安心したかのようにXANXUSは僅かに体を離した。体を拘束していた腕が解かれ、互いの瞳が合わさる。潜在的な恐怖をその赤色に覚える。だが、それ以上に。
「―――――そんな目を、」
 ぐ、と東眞は声を絞り出した。
 どんな顔をして言えばいいのか分からない。泣けばいいのか怒ればいいのか微笑めばいいのか軽蔑すればいいのか。
 だから顔をXANXUSから放して俯いた。ひくりと喉が震えて声が溢れる。
「…っそんな目を、しないでください…っ」
 突き放された、どこか寂しげなその目を。どうして応えてくれないのか分からない、といっているその瞳を。応えない自分に対して迷子になったようなそんな目を。
「やめて―――――――――ください」
 目を合わせられない。
 シーツを痛いほどに握りしめる。ぎちっと爪が皮膚を抉った。鈍い痛みが手にじんわりと広がっていく。XANXUSは固く握られた東眞の手を取って優しくほぐす。
「やめろ」
 本気で心配している嘘偽りのない声に東眞は何と答えていいのかやはり答えが分からない。有難うなどと言えない。罵ることもできない。泣き喚くこともできない。だから、困る。
 根底に刻み込まれた感情の行き先をどこにも発散できない。それを消化出来るほどに、まだ自分は成熟できてはいない。
 唇を噛みしめたが、それは親指で押しとどめられる。僅かに開いた口に差し込まれたXANXUSの指。歯がかかったが、それ以上顎に力を入れることはできなかった。
「やめろ」
 そう、XANXUSはもう一度告げる。自分を痛めつける行為はよせ、と。一般論を述べる。その言葉に東眞は顎の力を抜いた。それにXANXUSは指を口から抜く。頬に伸びた手を避けるように東眞は首を背ける。しかし、あっさりと両手で頬を挟み込まれて、視線を無理矢理合わせられる。接触している肌に感じる冷たい指輪の感触に眉を顰める。体を支配しているのは決してその両腕だけではない。瞳に、纏う雰囲気に、根底に植えつけられた恐怖心に。だがそれでも東眞は。
 XANXUSは東眞の瞳を覗きこんだあと、ゆっくりとその手を離してベッドから腰を上げた。人一人分が退いたベッドはぎ、と音をたてて持ち上がる。
「何か腹に入れろ」
「…食べたくありません」
「食え」
「いりません」
 命令から視線をそらした東眞にXANXUSは言葉を変えて告げる。それは本心からなのか、体を心配してのことなのか。
「口から食わねぇなら腕から入れる」
 点滴で、というのは言われずとも分かった。返事をしなかった東眞のそれを了承と取ってXANXUSは部屋を後にした。一度開いた外への世界は一瞬で閉ざされる。
 全てがそろっているのに、本当に欲しいものは何一つない部屋のベッドの上で東眞は膝に顔をうずめた。

 

 姉貴、と修矢は大切な家族の名前を呼ぶ。
 そしてその目の前には肉じゃがとほうれん草のひたしとご飯に味噌汁。さらにその向こうにはスーツを身にまとった自分の世話役が一人、正座をして櫃からご飯をよそっている。それを終えて、茶碗を自分の前に置いた。二杯目となるのでよそわれた量はそう多くもない。
 しかし哲はふとあることに気付いたように、修矢に声をかけた。
「坊ちゃん、箸が進んでいませんが…体の調子でも悪いのですか」
 修矢はいや、と答えて鉢に盛られている肉じゃがを手元の小鉢に入れて、それから口に運ぶ。が、思わず口を押えて俯く。
 甘すぎる。というか日に日に甘さが増していっているような気がして仕方がない。否、絶対にこれは日々料理にぶち込む砂糖とみりんの量を増やしている。
 そう言えば、と修矢は先日のごみを思い出した。安売りの日に購入した砂糖一袋とみりんが二本、この間出されていた。
それを買ったのは記憶が正しければ二週間前だ。二週間でみりんを二本と砂糖一袋、どう考えても尋常ではない消費量である。
「どうされました!」
「…哲、みりんとか砂糖、駄目にしたことはあるか」
 的を得ない質問に哲は怪訝そうに顔を顰めたが、即座にいいえ、と答えた。そして、大層頼もしい顔で先を続ける。
「一グラムたりとも無駄に使ってはおりません」
 とてもいい笑顔に修矢は目の前の肉じゃがの鉢を畳の上にたたきつけたい気分になった。そして分かり切ってはいるが、取敢えず尋ねてみた。
「…お前、今日の料理にどれだけ調味料使った?」
「はい。肉じゃがにはお玉十杯、砂糖は三十グラムほど。そちらのおひたしは、だし汁を切らしていたので代わりにみりんを醤油と合わせました。みりん醤油共に適量です」
 この男の適量、というのは自分の舌に合わせた適量に違いないから、間違いなくそれは一般人の二倍だ。しかし、ホウレンソウのひたしにまでみりんを使うとは思わなった。何故みりんを代用にした。舌がいい加減痺れそうな甘さである。
「お前もう台所に立つんじゃねぇ!!!」
「自分が立たねば誰が立つのですか。坊ちゃんは料理が出来ないでしょう」
 と、哲は冷静に返す。確かに修矢が作れる料理はカップラーメン、目玉焼き、ご飯を炊飯器に入れて炊くくらいのものである。
 だが、しかし。しかしだ。
「俺を糖分摂取過剰でお前は殺す気か!」
「何をおっしゃいますか。日々勉強で頭を使われている坊ちゃんは糖分がよいのです。料理の本にもそう書いてありました。疲れた時には甘いものが一番です」
「哲、それは間違っちゃいない」
 いないのだが。
 修矢は頭を押さえた。正しい知識の悪用ほど悪いものはない。加減というものを知らないのだろうか。
「間違っちゃいないが、限度ってもんがある」
「自分は十分おいしいと思いますが。食事を粗末にしてはいけないとお嬢様もおっしゃっておられたでしょう」
 そう言って哲は静かに食事を再開する。あのとんでもない破壊力万歳の料理を口に運びながら。
「食事中は静かになさってください。行儀が悪いですよ」
 さぁ、と促されて修矢は返す言葉もなく箸を再度手に取る。哲いわく、調味料適量のホウレンソウに手を伸ばした。持ち上げれば、調味料が多すぎるのか、ぼたぼたっと垂れた。
 考えてみれば、と修矢は東眞がいたころの台所を思い出す。最終的な味見は東眞がして、何かこう、手直しを加えていたような覚えがあった。東眞が言わなかったのは本人のプライドを守るためなのかどうなのか。だが修矢はこの時ばかりは東眞の優しさを恨んだ。
 一言、甘すぎますよと言って、哲に本来の料理の味を教えてさえいてくれればこんな事態にはならなかったというのに。
 修矢はまるで劇物を掴んだかのように箸を口元に持ってくる。ぽたっぽたっと汁が持っていた茶碗の中のご飯にしみる。それが醤油の色ではなくみりんの色なのが絶望的だ。哲があまりにも普通に食べているせいで、こちらのほうが変に感じる。変なのは向こうだというのに。そこで修矢はふと手を止めた。
「そういや、姉貴からメール来たか?」
「お嬢様から?いいえ」
 来ておりませんが、と哲は簡単にそう返した。姉貴、と修矢は心の中で叫ぶ。どうしてまだこの味音痴に正しい料理のメールを送っていないのかと。小刻みに震える箸を口の中に突っ込んで。
「――――――――――――――――――――――――ふ、っぐ…ぅぐ…っぐ、」
 喉につっかえるようなみりんの味に思わず吐き出しかける。それでも修矢は頑張った。一生に一度、これ以上ないほどに頑張った。ごく、と喉が動いてその悪夢の物体を嚥下する。
 哲は一口食べた修矢に優しく微笑む。食べたことで胸をなでおろしたようだった。そしてああ、と続ける。
「そういえば、食後にどうかと…お嬢様の見よう見まねではありますが、ちょっとプリンを作ってみたのです」
 よろしければどうですか、と言って立ち上がりかけた哲に修矢は本気の眩暈を覚えた。きっと差し出されたプリンは砂糖がじゃりじゃりと楽しめる味なのだろう、と。