03:幻想 - 7/7

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 お前は俺の女だ。

 それが唯の戯れの一言だとしても。それが唯の一つも本気でなかったとしても。私はその中で夢を見た。それはとても素敵な夢だった。覚めてしまったその先に待っているものが自分の選択した未来であっても、それはやはり素敵な夢だった。
 目が眩んでしまうような眩しい光の中で手繰り寄せられた感情にはそっと蓋をする。何も悲観的になることはない。籠の中の凝った空で、そんな風に考えるからいけないのだ。狭い切り取られた空を全てだと思えばいい。それだけだ。切り取られた空が全てだと思えば、幸せはそこにある。
 嗚呼何て楽しい、短い時。泡のように消えてしまった。消してしまった。しかしそれでいい。すべきことは、全てした。

 

「お嬢様」
 名前を呼ばれてふと落ちていた意識が浮上した。ぱちりと目を開ければ茶色い空が広がっている。天井だ。
 眼鏡を捜しかけて、それはもう母の墓前だということを思い出す。
「はい」
「組長が呼んでおられます」
「分かりました、着替えてすぐにいきます」
 襖が閉められてから東眞は立ち上がり、寝巻きからその傍らに置かれていた和服に袖を通す。
 気絶させられていた間に日本に連れてこられていたことは、もう容易に知れる。修矢を恨む気持ちは一向に起きないし、起きるはずもない。自分はどうにもあの弟には弱いのだと東眞は小さく笑った。
 姉貴姉貴と笑顔でついて来てくれる姿は本当に可愛らしい。今回のことも、彼なりの精一杯の行動だったに違いない。だが、養父の目を欺くことができた、とは到底思えない。自分がここにいるということは、おそらく帰国した際に空港で待ち伏せされていたのだろう。きゅ、と帯を締める。
 小さく息を吐いて閉じられていた襖を開けた。長く続く廊下の先には自分の養父、組長が待っている。踏み出した足の冷たい感触。わずかに軋んだ音。耳を澄ませずともその先にある結末は、もう大体予想がついている。
 一体何を恐れる必要があるだろうか。もう自分には覚悟も決意も、全てできているのだから。
 板に膝をついて中に声をかける。
「遅くなりました、東眞です」
「入れ」
 厳格な声が返って来てから東眞はゆっくりと閉ざされていた襖を開け、そして中にいる人物を視界の端でとらえながら入る。中にいる人物は二人、養父と弟。しずしずと畳の上を歩き、いつもの定位置に正座する。
「顔を上げろ」
「はい」
 す、と上げた瞬間に強い力で叩かれた。頬がひりと痛む。姉貴!と悲痛な声が静かな部屋に響く。
 東眞は顔を正面に戻して、視線を落とした。
「なぜ叩かれたのかは分かるな」
「はい」
 養父の言葉に東眞は二つ返事をする。
「お前は影の役目も、婚約をしている事実も忘れて海外へと逃げた」
「姉貴は逃げてない!」
「修矢、黙っていなさい」
 冷たい瞳で睨まれ、修矢はぎちと歯を鳴らす。東眞は反論を一切することなくその言葉にただ耳を傾ける。
「さらに本来ならばお前が守るはずのものを、お前の失態で怪我をさせた」
「これは俺が勝手にしたことだ!姉貴は関係無い!」
「黙っていなさいと、私は言ったぞ」
「これ以上だま
「今回の件は」
 修矢の言葉を東眞がはっきりと遮る。東眞は肌で修矢の視線を感じながらも、額を畳につけた。
「全て私の独断です。修矢様には一切関係のないこと――――御咎めは、私一人で受けます」
「あね、き」
 震える声に申し訳なさを覚えつつも、東眞は養父の言葉を待った。小さな嘆息の後、声が空気を震動させた。
「此度の一件が相手に伝わるとまずい、というのはお前でも理解できるな」
「はい」
「今宵に変更だ。相手方に話は通してある」
「―――――――…はい」
 その言葉に修矢は畳を踏んで立ち上がり、腕を払い怒りをあらわにする。
「何…っふざけたこと…!姉貴の婚儀は大学を卒業してからって約束だったはずだろうが!」
「その約束とて、お前の我儘だった。本来であればすぐにでもという話だったのだ。東眞、身から出た錆と思え。そしてもうこの家にはお前という影は必要なくなった」
「はい、承知しております」
 その返事を聞いて養父は修矢へ顔を向ける。
「そろそろお前にも跡取りとしての自覚を持ってもらわねばならん。粛清など下っ端の仕事にはもう手をつけるな。私の仕事を手伝え」
 冷たい言葉に修矢はぐっと眦を吊り上げる。
「用済みになったから、そんな風に扱うのか!姉貴はものじゃない!」
「この娘はそもそもお前の影とするために引き取っただけのこと。その役目を終え、本来ならば殺すところだ。それを良い引き取り先があったから差し上げるのだからな。感謝されこそすれ恨まれるいわれはない」
「なんだと――――…っこの、人でなしが!」
「口を慎め。お前は誰に向かって口をきいている」
「…っそんなの、関係あるか…っ。しかも今夜ってなんだよ、話が急すぎる。姉貴が帰国したのは昨日の晩だぞ。どう考えたって――――…おい、親父」
 ふ、と修矢は口を止めて動きを止めた。
「まさか、姉貴の失態を待ってたわけじゃ…」
「お前の悪いところはそうやって情に流されるところだ。駒は駒として扱う。それ以上のことは必要ない」
「姉貴は俺の家族だ!」
「支度を済ませなさい」
「はい」
 修矢を無視した言葉に東眞は静かに返事をして、立ち上がる。その背中に声がかかる。
「姉貴――――…っ」
 東眞はその声を襖で遮断した。
 身から出た錆とは、まさにこのことかもしれない。けれどもやはり後悔はしていない。
 部屋で待っていた女たちは東眞に着物の着替えを求めた。東眞はただなされるがままにされていく。落される袖、羽織られる白。外を見れば、丸く切り取られた空があった。まだ日はいうほど落ちてはいない。だが後四五時間もすれば青い空も橙に染まってしまうだろう。
 着替えが済まされて、畳みの上に膝を折って座る。誰もいない部屋、ただ流されている着物だけが静かに伸びていた。化粧はそれほど強く施されておらず、うっすらと紅が塗られている程度だろうか。どうせこのような化粧をしたところで、意味などない。婚儀、結婚式を挙げるということはないというのははじめから分かっている。自分が向かう先は暗い部屋に敷かれた布団が一つ。それだけだ。
 養父に話を仔細を聞いた時、断るという選択はなかったわけだが、それでもまだ自分の口で是ということで選択したという良策を取りたかった。その思考がいったん中断される。
「修矢?」
「……姉貴…ごめん」
 東眞の前で膝をつき、拳を震わせている修矢にそっと微笑みかける。目が悪いせいでそのつらそうな顔が見えないのは、少し助かる。
「謝らないで、私が決めたことだから。もう私は修矢の話を聞いてあげられないのが心残りだけれど」
 ゆっくりと強張っている拳の上に手を乗せ、優しい声音で言う。ことりと肩に乗ったその頭をそっと抱き締めた。
「辛いときは、誰でもいいから辛いって言うんだよ。修矢」
「…姉貴は、誰にそれを言うんだ…」
「私は辛くないから」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ。人はね、どんな状況だって幸せだと思うことができる」
「ただの思い込みじゃねぇかよ…っ」
「それでも」
 くしゃりと短い黒髪をなでる。
いつの間にか自分よりも広くなってしまっていた肩が震えていた。
「それを幸せだと思えばいい」
「姉貴は―――――嘘吐きだ…大嘘吐きだよ。本当は、嫌なんだろ」
「そんなことはないよ。今までお世話になった恩も返せる」
「親父は姉貴を駒としてしか見ちゃいない。恩なんて感じる必要なんてどこにもないんだ…っだから、姉貴は断ってよかったんだ」
 断れる選択肢などなかったことは修矢も知っていたが、それでも言わずにはいられなかった。着物ごと抱きしめられて生地に皺が寄った。東眞は小さく笑って修矢の肩に手を添えてそっと距離を取った。
 縋るような目つきの義弟の頬に両手を添える。彼は今にも泣きだしそうだった。

「さようなら、修矢」

 唇がそっと音を紡ぎ出し、そして細い三日月を作った。
「お嬢様」
「はい」
 ざらりと絹ずれの音がして、そして修矢の前から姉は消えた。

 

「日本かぁ、久し振りだなぁ」
 揺れた銀糸の向こうには夕日の色などよりももっと濃く、深く、猛々しい赤の瞳があった。風にゆれるのは黒い光沢があるコート。音を立ててバサバサと揺れた。
「さ、ボス命令して頂戴」
 軽やかな音を立てて、声が立つ。赤い瞳の男は静かに、荒々しく、言葉を落とした。

「殺せ――――――一人残さず」

空には月が浮かんでいた。