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腰に刀を携える。ベルトにかかる重みは人の命を奪うもの。
「哲」
「はい」
そう答えた側近の後ろには、銃を懐に隠した男たちが頭を垂れている。修矢は向けていた背中を返して彼らと向き合う。
静かな声。
「計画が前倒しになったことは謝罪をする。すまない。俺のためにその命――――――預けてくれるか」
その言葉に懐の銃が一気に上げられる。彼らの行動に修矢は口元をにぃと笑わせた。
「桧を潰すぞ」
おお、と廃工場内で低く上がった声に修矢はその錆びた鉄の扉を押し開けた。
閉ざされた窓一つないその部屋に東眞は一人ベッドに凭れかかるようにして座っていた。隣に置かれた一つのベッド。なにも、言うことはない。
今頃、自分の養父と自分の夫となる男が杯を交わしているのだろう。それが済めば、と東眞はちゃらりと鳴った自分の手首を見つめる。重たい楔。未だ健は切られていないので、その代わりなのだろう。鎖はベッドの端に取り付けられてはいるが、だらりと随分長く、この部屋内だけであれば十分に移動はできる。上質なそのベッドは随分と部屋にそぐわない。一つだけ設けられているその扉はまだ開かれない。薄い着物で少し肌寒く感じられる。和服にベッドというのもまたおかしな話だ。東眞は少し、それに笑った。
「―――――――マフラー…」
寒い首元に手を添えて自嘲気味に嗤う。まだあんな夢にすがっているのかと思えば、その程度の覚悟だったのだろうかと今更ながら溜息がこぼれる。
かつん、と音がした。それは少し離れたところから地面を叩く音だ。初めて車の中から見えた男は杖を持っていた。年齢の程はわからない。眼鏡をかけていないために、顔もよく見えなかった。ただ、少しきつい声で養父と話していたことを思い出す。苦手な声だった。声に苦手も何もあったものではないのだが。
ゆっくりとフローリングに下りて正座をし、近づく音に耳を澄ませながら三つ指をついて頭を下げる。小さくキーが外される音が外側からして、電子音が響きながら扉が開けられた。ひやりとした空気が中に流れ込んでくる。灯りが差し込んだ。
「ふむ」
こつんとフローリングを叩く音。顔を上げない。杖が入り、くと顎を持ち上げられて顔が光を向く。
白髪が黒髪に混ざっていた。鷹のような鋭い瞳。どこか遠い感覚でその目を見ていた。まるで縛りつけられたように全身に冷や汗が浮かぶ。恐ろしいのだろうか、と東眞は思う。
開いた扉が閉まって、室内の電気がついた。持ちあげられたために無防備になった喉が上下して声を出す。声は本当に、本人にしか分からないほどに震えていた。
「桧東眞と申します」
「柳蔵だ、柳に蔵と書く」
「ふつつか者ですが、どうぞ宜しくお願い致します」
顔は笑っているだろうか不快な思いはさせていないだろうか、そう東眞は思う。ぱしりと頬を軽く杖で叩かれて、その後に隣の布を叩く音がした。ベッドの上に座れ、という意味なのだろう。
東眞はゆっくりと腰を上げてベッドの端に腰かけた。移動の際に鎖の音がした。その音に、背後の男が笑っているような気がした。気がした、それだけだが。
端に腰かけた所を両肩を強く押されてそのまま柔らかい布の上に倒れこむ。喉に杖が落とされた。息が詰る。
「――――――ヵ、は」
ぐり、と喉を押されて痛みが走る。目尻に生理的な涙が浮かんだ。笑っている、これはもう確信に近い。覆いかぶさる男は、嗤っていた。涙で歪んだ視界の中で男を見上げる。少し離れていてぼやけてはいるが、ああ、嗤っている。このまま死んでしまうのだろうか、と抵抗を許されない指をかすかに動かす。
「君も」
ふと捉えた声。東眞は視線を男に固定した。柳蔵の声は続く。
「君も可哀想な女だ」
「…」
身の上の同情話は止めてもらいたかった。
布団が柔らかいのが功を奏して少しばかり息が楽になる。少しだけはっきりした意識で柳蔵の言葉を聞いた。
「二親を殺した男の息子の影として育てられ、そして今は組のための献上品とは…哀れな」
哀れ、という割には同情が全く含まれていない物言いである。だが、それ以上に東眞はその言葉を疑った。それを表情から読み取ったのか、柳蔵は顔の皺をさらに深くした。
「知らなかったのか。桧組長が君の両親を殺したということは」
くみちょうがりょうしんをころした、というとは。
ほたと落ちた雫に笑みが歪んだ。満足そうな、そんな笑み。
「良い顔だ」
べろりと舌が頬の上を這った。それに、と耳元の近くで声が響く。
「儂は君を妻として迎えるつもりなどない。それは君の養父にも話は通してある」
「…」
「最近は女を買うにも高くてね――――君は賢いと聞いているからそれくらいは、分かるだろう。私は前衛的な人間でもあるから、世襲制など古いことはしない。幹部の中から一人、もうすでに次期組長は選んである。まぁどちらにしろ、君がやることは相手が色々異なるだけで変わりないから、問題はないだろう」
囁くようにして言われるその言葉は東眞の脳髄を抉り、傷をつけた。息苦しさなど、昔に消えうせた。
「そもそも君もそのつもりでここで待っていたのだ。好色なのか」
にたりと笑ったその笑みは至近距離で確認できた。ちゃりと鎖の音が東眞の思考を蘇らせる。きっと眦を吊り上げその鎖で男の首を絞めようとしたが、その手はあっさりと掴まれてしまい、反対に鎖がぎちぎちと東眞の首を絞めた。
「足だけではなく手も動かぬようにしておかないとな。危ない女だ」
「…っあ、ぁか…っは」
「儂は自分で言うのも何だが、多少変わった性癖を持っている。こうやって、」
握った鎖をぐいと両端に引けば、気道が狭まり息が詰る。ひゅ、と乾いた音が上がり、東眞は必死になって首に巻き付けられた鎖に指をさしこもうとする。柳蔵はそれを見て顔を愉悦で歪ませる。
「甚振るのが、好きなんだ。御蔭で女からは敬遠されがちでね。妻も私の性癖を知ってからというもの床を共にしてくれることはなくなったよ」
痛みは、と続けられる。
「快楽と同じだ。いずれ痛みを与えればよがる体に仕込んでやろう。君という女が手に入って本当によかった」
「…ぁ、う」
するりと鎖が緩められて気道に一気に空気がはいる。しかしすぐまた絞められて、酸素が足りなくなり意識が薄れる。また緩められ、そして締められる。
「ここの防音は完璧だ。君がどんなに叫んでも助けは来ない。尤も、初めから来ることもないが」
それはそうだ、と東眞は浮上した意識で考える。
自分がいるべきところはもうここしかないのだ。修矢もイタリアにいる彼らも――――自分から手を離してきたではないか。誰がこの手を掴んでくれよう。汗ばんだ、色欲にまみれた手しかないのだ。
くったりと東眞の腕が落ちた。
出来ることならば、真意を養父に問いただしたかった。自分をこのように扱ったのは、それはもう聞くつもりはない。聞かなくても分かっている。しかし、どんなに頭を働かせたところでこの鎖が取れるわけでもないし、逃げられるとは思えない。
「もう抵抗はやめたのか」
考えてみれば、よしんば目の前の男を殺せたところで、壊滅させられるのは桧組の方だ。それでは修矢はどうなる。大切な義弟は、家族はどうなる。抵抗する術もなければ、抵抗をするという選択肢さえない。男は笑っている。笑って自分を見下ろしている。もう、どうしようもない。
帯が解かれ、下着をつけていない肌が外気に触れて冷たい。乾いた手が腹を撫で、肌をゆっくりと伝う。時折首にまかれた鎖を引かれ呼吸が止まる。
ここでは―――――――――切り取られた空ですら、見ることはできない。
ナイフが血液を奪い、拳が体を砕く。
『意外と手ごたえがないわねー。ああん、私好みの子もいないし…』
イヤホン越しに聞こえてくる言葉にベルフェゴールは口元に笑みを作る。
「きめー。ま、こんなもんじゃねーの?」
すぱん、と相手の皮膚から血が飛んで、落ちる。銃の先端はナイフによってすでに畳の上に落ちていた。そしてちらと妙に喧しい方向に目を向けた。
「つっても一人うるせーのもいるけど」
『う゛お゛おぉい!!俺に敵う奴はいねえのかぁ!!』
人の体をまるで紙切れか何かのように切り裂いていく姿。まさに獰猛な鮫のごとき―――――――何も考えていない鮫のごとき、を想像してベルフェゴールは笑う。しかし。この声の五月蠅いことと言ったらない。通信用のイヤホンは切ってろよ、とぼつりと言えばイヤホンからはうるせぇ!!とまた大声で返ってきた。
いら、としながらベルフェゴールはライフルを蔭から構えた方向にすっとナイフを投げる。本来ならば届くはずのないナイフはワイヤーを伝って男の側頭部、米神に突き立った。
「うしし。この屋敷のやつらは全員、殺す」
目元に愉しさを浮かばせたベルフェゴールに一瞬銃を握る手が緩んだ最前線に大量のナイフが突き立つ。体にいくつものナイフを突き立てて、銃は腕から落ち、畳は血に染まった。
『東の方はあらかた終わっちゃったわ。ベルの方はどーぉ』
「こっちもほとんど終わってる。で、雑魚に任せた南からの連絡は、どーなんだよ」
『あ、連絡来たわ。南も終了ですって』
「で、スクアーロは?……ん?」
こつこつと叩くがイヤホンからの返事はない。先程までイヤホンを壊したくなるほどの声を上げていたというのに。
「なあ、スクアーロと連絡取れる?」
『……、とれないわねぇ。取敢えず掃除も終わったことだし、集合しましょうか』
「じゃ、王子のとこに集合!」
ベルフェゴールの提案にルッスーリアは仕方ないわねぇと困ったように笑って、了解と返事をする。連絡を切ろうとしたルッスーリアにベルフェゴールは、あ、と付け加える。
『なぁに?ベルちゃん』
「そういやさ、ボスは?」
『あら、愛しの御姫様の救出よ』
その返答にベルフェゴールはそ、とそっけなく返信した。