03:幻想 - 5/7

5

「随分とくるの遅くなったけど…久し振り、お母さん」
 東眞は墓の前で膝を折り、そして眼鏡を止めていたゴムを外す。  墓石には母の名前が確かに刻まれていた。
「お父さんと一緒にしてあげられなくて、ごめん」
 母方の祖父母は東眞の母を父の墓と一緒に日本で眠ることを許可しなかった。それは父と母が駆け落ち同然で日本に来たことに由来するのだろう。だが、その祖父母も母の葬儀を済ませて一週間後、まるで後を追うかのように死んでしまった。父を嫌っていた祖父母だったが、決して孫の東眞を嫌っていたということはなかった。本来であれば東眞は桧組ではなくこの祖父母の下、イタリアで預かられることになっていたのだ。だが。その話も祖父母の急死によってなくなってしまった。
 東眞はゆっくりとした動作で顔にかけていたその不格好な眼鏡を外して母の墓石の前に置く。
「父さんの遺品は、もうこれしかないの」
 桧組へある程度の日常品を持って行ったその翌日、東眞の家は火事になりあらゆるものが燃えた。その中でただ一つ東眞がただ偶然に持っていた父の眼鏡だけは無事だったのだ。その日から東眞は父の眼鏡をレンズを変えてつけるようにした。
「本当なら一緒にいたいだろうから…せめて、これだけでも」
 もう墓石の読めない瞳で東眞は微笑んだ。眼鏡を外した視界ではまともにものが見えない。
 イタリアにきてやりたかったことはこれで終わりである。く、と東眞は口元を笑わせた。
そしてふと気付く。
「―――――、おかしいな」
 目の奥が熱く、喉が震えて止まらない。ひくりと声が引きつる。そして、ようやく自分が泣いているという事実に気付いた。涙を服の袖で拭いて東眞は口元を笑わせた。
 墓石の上に雫が一つ二つと落ちて跡を作る。そこに影が一つ伸びた。東眞は思わず顔を上げる。
「XA」

 違う。

「修矢」
 名前を呼んだ義弟の表情は固い。こちらを見つめる瞳はまるで責めているかのようにすら感じられた。僅かに震える声が鼓膜を震わせる。
「今―――――誰の名前を呼ぼうとした、姉貴」
「その、きっと追いかけてきてるだろうから…つい」
 修矢は口から咄嗟に出た嘘をすぐに見抜き、東眞の肩を強い力で掴む。
その力の強さに東眞は思わず顔を顰めた。
「…日本に帰るんだ。姉貴の居場所はここじゃない」
「どうして、ここにいるってわかったの」
 話を逸らされたことには薄々感づきながらも修矢は東眞の問いに答える。
「哲に調べさせた。そしたら姉貴がイタリアにこだわる理由は一つしかなかったから」
 だから待っていた、と修矢は言って東眞に強い視線を向ける。東眞はゆっくりと瞳を細めて視線を落とした。
「そうだね、もう――――帰ろうか。用事も、済んだし」

唯一つ心残りがあるとすれば。

「XANXUSさんにお礼言い忘れたな」
 謝ってばかりで結局お礼を言っていなかったことを思い出して東眞は微笑んだ。その笑みに修矢の手は震えた。
「…何だよ、それ」
「え」
「本気で日本に帰る気あるのかよ、姉貴!そんな――――っ、そんな顔して…っ」
「そんな、顔って…帰る、よ。修矢こそ何をそんなに怒っているの?」
 僅かに恐れを感じた東眞は一歩下がった。しかしそれは、修矢にとって大きな一歩だった。

「そうか」

 一瞬、その一瞬の声の冷たさに東眞は体を強張らせた。今まで聞いたこともないような、そんな冷たい声。優しい義弟の声ではないと思わず思わせられるほどに。
 思わずもう一歩下がりかけたその東眞の手首を強い力でわしづかみにされ、そして引き寄せられて口に布が当てられる。独特の臭いはすぐに東眞の思考を四散させていった。ずるりと膝から崩れ落ちて東眞は修矢の腕の中に倒れこむようにして気を失った。
 修矢は空に向って一二度手を振る。するとばらばらと激しい音と空気が体にのしかかる。
「哲!」
 側近の名を呼べば、ヘリコプターから顔に大きな傷の入った強面の男が飛び降りた。修矢はその男に東眞を渡す。哲と呼ばれた男は東眞をかつぎ、未だ浮遊を続づけるヘリの縄梯子を上って東眞を中に乗せた。哲がヘリの中に入ったことを確認すると修矢も縄梯子に手をかけ、声をかける。
「上げろ!」
「う゛お゛ぉい!待てぇ!!」
「!」
 激しい音にかすれながらも確かに響いた声に修矢はちっと舌打ちをした。そして上りかけていた梯子から手を離して地面に降りる。
「坊ちゃん!」
「哲!上空で待機し、合図したら高度を下げさせろ」
「ここは自分が…っ」
「姉貴を頼む」
 そう言って修矢は目の前の相手と向き合った。刀を合わせたことがあるのは約二回。それだけでも十分な強さだということは分かった。背中の袋に入れていた刀を取り出して鞘から引き抜く。
「東眞を返してもらおうかぁ」
「悪いが姉貴は日本に連れて帰る。アンタのお願いは聞けないし、それに、だ」
 唾を鳴らして修矢は構えた、

「お願いはもっと丁寧にするもんだぜ」

 地面を強く蹴り、相手の懐に潜り込む。刀を振るうものの、スクアーロは驚異的な反射神経で距離を取り反対に腕に取り付けてある刀を修矢に向かって振り下ろした。
「!」
 受け止めようとしたが、修矢は咄嗟にそれを避ける。避けた後には目を疑うばかりに抉れた地面が残った。スクアーロは獲物を追う鮫の如くすぐさま体勢を整えて再度斬りかかる。向けられた視線に修矢はぎと歯を喰いしばる。純粋に殺し合いを楽しむその瞳は、一番相手にしたくないものだ。
 あれだけ重たい剣戟など受ければ腕が持ちこたえられるかどうか分からない。スクアーロの剣線を紙一重で交わしながら修矢は考える。
「逃げてばかりじゃ始まらねぇぞぉ!!!」
「部外者が!」
 重たい刃を刀に受ける。案の定かなりの重さで腕に一瞬痺れが走る。防御に回っていては不利にしかならない。押し切られるその瞬間に僅かに体をずらし修矢はスクアーロに刀の柄尻を突き出す。眉間に当たるかと思われたそれは、のけぞった形で避けられた。スクアーロはそのまま背後に手をついて一回転し、地面に足が着いたと同時に踏切刃を下から振り上げた。
「くっ」
 踏ん張ったものの力の差だけはどうにもならず修矢の足が僅かに浮く。そしてそのまま上に弾き飛ばされた。スクアーロはにたぁと満面の笑みを浮かべた。
「空中じゃ逃げようがねぇなぁ!!」
「坊ちゃん!!」
 ヘリからの叫び声に修矢はぐっと顔を引き締め、そして合図を送る。哲はそれに気付き、すぐさま操縦士にヘリの高度を下げさせた。修矢は落ちながら笑った。
「?」
「逃げようがない、確かにそうだな。だが、重力も加わって威力は倍増だと考えねぇのか」
 アンタ、と刀を振りかざし、そして振り下ろした。スクアーロはそれに対抗するように地面を踏みしめてだんと飛び上がると、修矢が振り下ろした刀に対するようにして剣を振った。しかしスクアーロの刃は修矢の刀にかすりもしなかった。そして修矢の刀もまた、スクアーロの刃にかすることはしない。
「ぶっ!」
 その代りに、修矢はスクアーロの顔を思いっきり踏んづけた。そのまま顔を地面代わりに空に飛ぶ。高度を下げていたヘリから垂れ下がっている縄梯子に修矢は捕まった。
「て、てめぇえええええぇ!!」
 叫ぶスクアーロを見下ろした後、修矢は梯子を登りヘリに手をかけた。が、一瞬視界を遮断したオレンジ。そして腕に走る激痛。
「あ、ぐぁ…っ」
「坊ちゃん!」
 落ちかけた修矢の体を哲の腕が支え、ヘリにそのまま引きずり上げる。修矢は激痛に耐えながら、墓場を見下ろし、そして、捉えた。
「―――――――あいつか…っ」
 赤い瞳。はためく黒いコート。全てのものを屈服させるかのような威圧感。
 男はこちらに銃を向けていた。
「高度を上げろ!機体をずらせ!」
「は、はい!」
 咄嗟の命令に操縦士は即座に対応した。そして、次の瞬間先程まで機体があったところに炎が上がった。
「ここまでは届かないようだな…このまま逃げ切るぞ。手配していた飛行機の所へ」
「はい、坊ちゃん」
 ばら、とけたたましい音を立ててヘリコプターは加速した。

 

「日本に発つ」
「おあ゛?」
 XANXUSは銃をしまい、コートをはためかせて踵を返した。突然の発言にスクアーロは首をかしげながらもそれについていく。 「いつ発つんだぁ?手配はしてねぇぞぉ」
 スクアーロの質問を無視してXANXUSは眼鏡が置かれている墓石の手前で足を止める。そして腰を曲げて屈み、不格好な眼鏡を手に取った。それを横目で見ながらスクアーロは一言悪ぃ、と告げた。
 それが連れ去られてしまったことに対する謝罪であるのは重々分かっていたのでXANXUSは特に何も言わない。手に取った眼鏡をコートのポケットに押し込んで命令を下す。
「とっとと手配しろ、明日には発つ」
 有無を言わせぬその言葉にスクアーロは頷いた。