03:幻想 - 3/7

3

 ガラスが叩き割られ、下に散らばる音が響く。その音にいち早く気付いたのはやはり他でもないスクアーロたちだった。
「う゛お゛おおぉい、ボス!!!」
 一旦部屋を離れていたスクアーロたちはXANXUSが中にいると思いその扉を強く叩く。しかし反応は一向に見られず、扉は押しても中に椅子でも置いているのか開かない。ちっとスクアーロは顔を顰めて歯軋りをした。
「ちょっと鮫ちゃん、扉壊しちゃいなさい!」
「うるせぇ!言われなくてもその予定だぁ!!」
 即座に刃を腕から伸ばし振りかざした。だが、かけられた声でその腕は止まる。

「何してやがる」

 廊下の向こうから現れた影にスクアーロは振り上げた腕を下におろした。ルッスーリアはぱちぱちと数回瞬きしてそして今だ閉ざされた扉を見つめる。
「あら、だったら中にはボスはいないのね」
「まだ帰って無かったのかぁ」
 シャワーから、というのは言外に含まれていたのでXANXUSは肯定を無言で返した。そして再度仔細を尋ねる。それにはスクアーロが音がしたことを伝える。
「ガラスが割れる音が響いてよぉ。慌てて扉開けようとしたんだが、これが開かねぇんだぁ」
「そういえば東眞は」
「…一緒じゃねぇのか」
 ベルフェゴールの何気ない言葉にXANXUSの瞳が鋭くなる。ルッスーリアはてっきり中でボスと一緒だと、と答えた。眉間の皺を一二本増やしXANXUSは扉を睨みつけ、そしてスクアーロに開けるように命じた。
 振り下ろされた刃がまた上がり、扉を切りつける。そのままスクアーロは扉を蹴破った。嵌め殺しにされていた窓のガラスはばらばらに砕け散っており、窓からはベッドの足に括りつけられていたシーツが垂れていた。
「…追え」
 XANXUSの命令にベルフェゴールがふと質問した。
「捕まえるのかよ、ボス。それとも―――…」
 言葉尻を濁らせてベルは笑った。XANXUSは一言、捕えろと言い直した。ベルフェゴールはにっと笑って了解とその場を後にした。ルッスーリアもその後を追うようにして窓から飛び降りる。スクアーロだけがその部屋にXANXUSと共に残っていた。
「う゛お゛ぉい…」
「何してやがる。テメェもだ、カス。とっとと行け」
 睨みつけたがスクアーロは動かない。何か言いたいことがあるのかとXANXUSはちらと視線を向けた。スクアーロはようやく口を開ける。
「…東眞はここに、イタリアに何かをしに来たって言ってたぞぉ。そもそもアイツは日本に帰るってずっと言ったんだぁ。俺もお前も、引きとめる権利なんてあるのかぁ」
 どこか心此処に非ずといった様子の東眞の笑顔を思い出してスクアーロはそう呟いた。
「お前が東眞のこと気にいってんのは、この二日でよく分かったぜぇ。だが、もう夢見るのも終りにしろぉ」
「どういう意味だ」
 眼光を鋭くしたXANXUSに怯えを見せることなくスクアーロは続ける。
「アイツは普通の女だぁ。どう頑張ってもボスの隣に並び立つ女じゃねぇ。それにこういう世界は東眞には似合わねぇんじゃねぇかぁ」
 菓子を作りのことも、ショッピングモールのことも、彼女はあまりにも普通すぎた。確かに自分たちの日常とは異なる日常をもちこまれて、自分たちの日常は非日常になったわけだが、それもどうせ終わる。逃げ出されるに違いない。
「俺たちが暗殺部隊だってこと、何で言わなかったぁ」
 スクアーロは核心を突いた。それはずっと感じていた蟠りだった。
 もしXANXUSが東眞にそれを告げた上でここに居させておくのであれば、こんなことは言いはしない。それを彼女に告げるということはもう一つの意味を指す。妻にするということだ。妻や姉妹以外の女がこの世界にいるのは『名誉ある男』としての模範的行動ではない。だがXANXUSはそれを言わなかった。
「確かに東眞は一般人とはちょっと違うかもしれねぇ。でも結局俺らとは住む世界が違うだろうがぁ」
 視線を真っ向に受け止めてスクアーロはさらに続ける。XANXUSはその言葉を黙って聞いていた。
「もし、だ」
 一拍置いてスクアーロは視線を鋭くした。
「東眞がボスの邪魔になるようであれば、俺はあいつを殺すぞぉ。俺はてめぇが腑抜けになるのだけは耐えられねぇからなぁ」
「―――――――――…言ってろ、どカス。とっとと行け」
 くるりと踵を返したXANXUSの背中にスクアーロは怒鳴る。
「答えを聞いてねぇぞぉ!」
 その言葉にXANXUSはかつんと音を立てて足を止めた。そして、笑った。腹からの笑い声にスクアーロは反対に虚をつかれた。XANXUSは肩越しにスクアーロを見た。その視線にスクアーロは思わず背筋を伸ばす。低い声が空気を震わせた。
「はっ、女一人で俺が腑抜ける?俺を誰だと思ってやがる」
 くっと喉で小さく笑われる。何故だか心配したこちらが馬鹿にされているような気がしてスクアーロはむと顔を顰めた。その表情の変化を見ながら、XANXUSは言った。

「てめぇの前にいるのは、一体誰だ」

 XANXUSの言葉にスクアーロは満足したかのように相好を崩して肩をすくめた。そして、くるりとXANXUSとは反対の方向、割れた窓ガラスの方向に歩きだす。
「了解、ボスさんよ」
 銀色の髪が窓から消えた。XANXUSはそれを確認して自身もその部屋を後にした。

 

 静かになった部屋でそっと洋服棚が開いた。白い手がそこから伸びて、音を立てないように足が下りてくる。
 東眞は誰もいないことを再確認してからそっとそこから出た。窓ガラスを割り、ベッドの端に巻いていたシーツをたらした後、東眞は椅子を扉につっかえさせてからこの中に隠れた。ようは中に人がいるから逃げられないのであって、つまりは中の人が外に自分を探しに行かせればここからは簡単に逃げられる。
「…にしても、XANXUSさんの仕事は暗殺部隊…」
 それでこの厳重な守りなのかと東眞はようやっと納得した。XANXUSがボスと呼ばれている理由も、スクアーロが常に刃を携帯していたわけも。
 しかしそれらはもう自分には関係のないことだと東眞は首を横に振った。そして人通りがないことを確認しながら廊下を走る。監視カメラがない道を選び、裏口への通路を駆ける。扉を押し開けて、地面を踏む。木に隠されて光る監視カメラを視界にとらえながら、東眞は腕時計の秒針を眺める。一、二、三、と数えて少し先の木の幹に姿を隠す。それを数回繰り返して裏口一歩手前までこぎつけた。
 足だってそんなに速い方ではない。中の上といったところだろうか。どうでもいい話だが、50m走は8秒代だった。
 かちんかちんと動く針を見つめながら東眞は呼吸を整える。身体能力が普通な以上、それ以降は頭で問題を解決しなければならない。息を短く吐き出し、東眞はするりと木の蔭から出て門のカメラから死角になっている位置を駆け抜けた。そして出たすぐ先の壁に背中をつける。この位置は三十秒だけどのカメラにも映らない。ポケットから地図を取り出し、必死になってしるしをつけた場所への最短距離を探す。裏口は入った門とは真逆に位置し、目的地は同様に門の方向とは反対の位置にある。ならば、と東眞は顔を上げる。

「お別れです」

 楽しい夢を有難う、と東眞は地面を蹴った。