03:幻想 - 2/7

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 湯気に視界を覆われながら頭から湯を浴びる。コックを開いたままのシャワー口からはまだ湯が落ちてきている。ようやくはっきりとした頭で今朝のことを思い出し、もう一本酒瓶で殴りつけておけばよかったと少しばかり後悔した。
「…」
 コックを捻り湯を止めれば、ぱたぱたと熱い雫が肌の上に乗り、無数にある傷跡を伝って足まで落ちた。そして湯はそのまま渦巻いて排水溝で消えた。
 指先でその傷跡をなぞってみる。今更痛みなどない。もうボンゴレボスの座にはつけず、ヴァリアーは結局元の鞘に収まった。任務を渡し人を殺しファミリーを潰す。単調な生活に飽きがきた。腐敗してぐずぐずになって中身から溶け落ちてしまいそうな感覚だった。
 だから完全に腐ってしまう前に日常にはない何かが欲しかったのだ。その何かが分からず、ただ日々がまた緩慢に過ぎていく。殺して奪って制圧して報復を潰して。またそれがまるで番号でもつけているかのように続いていく。浴びるように飲む酒とてその一環にしかなっていない。
 スクアーロの耳障りな声も、ルッスーリアの手料理も、レヴィの期待の眼差しも、ベルフェゴールの笑い声も、マーモンの金への執着っぷりも。そう何もかもが無限のループにはまりこんで曲って歪んで混ざって続いていく。
 完全に混ざり合ってしまう前に全てを破壊したい。粉々に砕いて再生できないほどに打ち砕いて跡形もなく燃やし尽くす。そうすればきっと世界で立っている人間は自分一人になる。一人になったらどうなる。全てを破壊した後はどうなる。そうやって答えのない問題のループにはまりこむ。一番嫌悪する単調なループに。
 ちと舌打ちをし、カーテンを引いてバスタオルで頭、体、足を拭いていく。水滴は布に吸い込まれて湿り気を帯びていた肌はさらりと空気を撫でた。畳んであった下着を掴み取り身に着け、ワイシャツにざっと袖を通した。
 直感、確かにあの女を、東眞を手元に置いたのはそれが理由だ。
 置いておきたい、そう思わせた。だがどうなのだろうか。一番初めの理由は日々の退屈を覆したかったからではないだろうか。
 日常とは異なる異分子を日常に取りこんで何か別の事柄に変化させる。日常が日常でなくなった。確かに。次にここに置き続けて理由が欲しくなった。直感が理由だったが、それ以外にも理由はあった。

「気になる」

 一挙一動が一々気にかかる。気に障るのではなく気にかかる。
 視線が合うとき、一瞬その黒い瞳に戸惑いが見える。自分とは真逆の生を生きているその女の瞳が僅かに揺れて、そしてまた静かな色に戻る。波乱など望まず、安寧と平穏だけを求めるその瞳に。だが自分が求めているのはその揺れている間の瞳だ。押さえこまれた感情を引き出せと叫んでいる。眠らされたそれを揺り起こし叩きだす。
 けれどもその周囲には撃っても殴っても壊れない壁がある。それは隔たり。だからこそ、今ここに留めて機をうかがっているのかもしれない―――――自分は。
「…」
 ネクタイを人差し指で緩めて、きっちりさせたはずの服をすっかり着崩してしまった。けれどもそれが自分のスタイルだと思いだして、XANXUSは笑った。

 

 きゅと眼鏡の両端に手製のゴムバンドをかけて、それをしっかりと頭につける。ポケットには航空券とスクアーロから貰った地図が一枚入っている。それを触って確認する。部屋の片隅に置かれたバッグに一度視線をやったものの、それを取ることはしない。
 ルッスーリアたちが出てしまった部屋は静かで、暗い。ゆっくりと瞬きをして窓の外を眺める。ちらほらと歩いている男たちは皆黒いスーツでその身を固めてある。ふ、と口元に小さな笑みが浮かぶ。
 そろそろ桃源郷を出なければならない。夢の国にいていい時間はもう終わりなのである。楽しい時間も優しい時間も他者との関わりも――――――――――これで全て終わりである。
 出ていく、初めからその予定であった。だというのに修矢に会わねばぐずぐずとその時を引き延ばしていたに違いない。甘すぎる夢はどうにも決心を鈍らせる。
 机の上のサンドイッチに布をかけてその隣には冷たい牛乳をきちんと置いておく。
 楽しい夢はもう終わりにしなければならない。赤い瞳は今はここにない。
「もう終わりです、XANXUSさん」

 そして

「楽しい時を有難うございました」
 これ以上ないほど充実した二日だったと東眞は思う。
 他愛ない日常の中で、これほどに笑い心を預け、誰かの心配をしたり誰かを思いやったり。もうこれからは決して味わうことのできないまるで宝石のような時間。
 随分と自分の我儘を通してしまったとひとりごちて、小さく笑う。
 バッグの横に置かれたらしくもない箱の中に入ったドレスもあの後どうにかこうにかで自分で買ったミュールも。間違いなく足を通すことも袖を通すこともしない。変わりに自分は夢を買った。それを着てあの人と街を歩けるかもしれない、あれを履いて手をつなげるかもしれない。そんな優しく淡い形と色をした夢。かなわない夢。
 本来であればそんな夢を見る予定すらなかったのだから、これはとてもいいことだった。夢にも希望にもそっと蓋をして、ただ来るであろう鎖の日常に身を置くのだから。
 これは自分で決めたことなのだから誰にも何にも口をはさませない。誰のためでもなく、自分のためにこれを決めた。尤も反対したところでどうにかなるという問題でもなかったのだが。
 それでも彼らに感謝しよう。
 騒がしいけれども優しいスクアーロに、逞しいけれど気遣ってくれたルッスーリアに、子供のように構ってきてくれたベルフェゴールに、深い詮索をしなかったマーモンに、そして。

「―――――力強い手で、私に光を見せてくれたXANXUSさん、貴方に」

 それが彼にとっての退屈しのぎであってもそうでなくとも構わない。彼の行動によって間違いなくこの大切なひと時を経験することができたのだから。
 ゆっくりとその手で椅子を掴み、そして持ちあげた。東眞は笑う。そしてそのまま椅子を窓ガラスに躊躇することなくぶつけた。