馬鹿で不器用な - 2/3

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 ごつん、と前に覗いた革靴にミトは顔を上げた。クロコダイルはそれを見下ろす。憔悴しきった顔に覗いているのは色濃い恨みのそれであった。
「…てめぇの上司から連絡があった。おれはお前のお守になった覚えはねェぞ。彼是四日はここで動きっ放しだそうだな」
「それが、どうした」
 静かすぎる程静かにミトはクロコダイルの質問に答えた。答えた、とうよりも反射的に喉から言葉を発したと言う方が正しいのかもしれない。クロコダイルはあちこちに転がっている切断された物体を見渡す。ダイヤから鉄から、紙から鉄鋼やらあらゆるものが両断されてそこにあった。銃弾もあちこちに転がっている。どれほど乱暴な使い方をしたのか、海軍支給の刀剣を握りしめている柄には血が滲み、床に落ちていた。顔を顰める。
 ふらりと立ち上がり、ミトはクロコダイルの肩を押した。
「出て行け、クロコダイル。心配される必要などない。もっと、強く」
 クロコダイル、と突き放したような声音にさらに眉間の皺を深くし、ふらついて立ち上がったその腕を掴む。随分と細くなっていた。
「おい」
「放せ。もっと強くならなければならない。もっと上に行かなくてはならない。こんなところで立ち止まっている暇などない」
「倒れるぞ」
「関係ない。こんな体、壊れたっていい。動いて、動いて、目的を果たせるその時まで無理矢理にでも動かせればそれでいい」
 振り払おうとした腕にはあまり力がこもっていない。四日も飲まず食わずならば倒れてもおかしくないのだ。精神だけでここに立っているという状況で、つるに呼ばれたクロコダイルは舌打ちをした。
「…休みを取れだとよ。とっとと来い」
「いらん。必要ない」
「来い」
「…ッ放せ!」
 思いっきり腕を振るったミトだったが、その勢いで足元をふらつかせて一度膝を床に着く。がつんと乱暴に剣の切先を杖代わりに起き上がるとクロコダイルに背を向け、刃を一度鞘に納め、訓練開始のボタンを押そうとする。その手をクロコダイルは掴んで止めた。
「やめろ」
「止めるな。聞こえたか、出て行け。私は」
「てめぇの耳は飾りか。やめろ、と言ったんだ」
「私は!」
 げほ、と喉が渇いている所為か咳込んで言葉を途切れさせる。目が爛々と光り、クロコダイルと言う男を睨みつける。私は、と苦痛にも近い声が空気を震わせる。
「休みなんぞ欲しくない!私が欲しいのは、ほしい、のは、地位でも、名誉でも、経歴でもない…ッ!私が欲しいのはあの野郎のい」
 のち、といいかけたその口を手で塞いで止める。強めに掴めば呼吸すらも奪い、腕を叩かれるが、クロコダイルはそれでも放さない。腕を強く引っ掻かれ、爪を立てられる。砂である自分には何の意味の無い行動だが、疲労しきりそれでもなお体を動かすこの女の姿には言葉もない。何と言えばいいのか分からない。クロコダイルは鳩尾に深めに鉤爪を叩きいれた。ごふと肺に詰められていた酸素がミトの口から吐き出され、元から限界だった体はひざから崩れ落ち、クロコダイルの腕に落ちる。
 これだ、とクロコダイルは溜息を吐く。
 時折発作的にこういう状況になる。馬鹿みたいに自分の体を痛めつけ、悪夢を繰り返し見続け、刀を振るい自分を叱咤する。それはまるで、その時に動くことのできなかった自分を罪だと言わんばかりに責め立てる行為そのものだとクロコダイルは思う。抱え上げた体は軽い。軽く見積もっても3kgは間違いなく落ちている。水分も食糧も一切取らずに丸四日動き続けていれば必然的にそうなるだろう。恐らく眠りも浅く、幻聴や幻覚も見ていたことだろう。
 力も重さもなくくたびれている体を腕に抱えて歩いていると、一人の男が隣を通り過ぎる。こちらの姿を認めて体を強張らせたが、腕の中のミトを見るや否やさも嫌そうな顔をした。
「…その女が何かあなた様に迷惑でも…サー・クロコダイル。なんでしたら自分が始末を」
 そのねとつくような言葉に怖気を覚え、クロコダイルはミトの体を男の目から隠すように抱え直してその場を何も言わずに後にした。背中を追いかけてくるような粘つく視線が、どうにも気に食わない。
 取敢えず水を飲ませてやろう、と抱えた体の軽さに溜息をこぼした。

 

 なにしてるんだよい、と後ろから掛けられた声に、ヴィグは海に向けて耳を澄ませていたのを止めた。
「いや、何か…泣いているようなコエがした気がしてな」
「お前の能力もなんだ、厄介なモンだない」
「この距離だと流石に聞こえないんだがな。聞こえた気が、した、だけだ」
 隣に背中を預けたマルコにヴィグは小さく笑いながら困ったような顔をして水平線を眺める。ただただ雄大に広がるその海のライン。よくミトは海に飛び込んで、船長にあっちまで泳いでいい?と尋ね、あっちは凪の海だから駄目だと笑って注意されていた。二人揃って海に潜って、時々海王類を仕留めてくるものだから、全くあの二人はどうなっているのかと船員皆で笑いあったものである。
 ヴィグはその海を眺めたまま、ぼそりと呟いた。
「おれも、あの時船長の船に乗ってたら、一緒に死ねて」
「馬鹿言うない」
 ごす、とマルコはヴィグの後頭部を強めに叩いた。思わず海に落ちそうになり、慌ててヘリを強く掴む。マルコ、と避難の意味を込めて名前を呼ぼうとしたが、叱るような目つきにヴィグは一度黙り、悪ぃ、と零した。
「家族にそういう事を言われていい気はしねェよい」
「ああ、分かってる。分かってるんだがな…あいつの、面ぁ…思い出すとどうにも」
「…」
 ミトか、とマルコは女の顔を思い出す。少女だった子供の顔は再びあいまみえた時は復讐者の顔になっていた。荒みきり、何のために生きているのか、海の色を愛した色はもうどこにも残っていなかった。
「あいつにとっちゃ、おれはもう家族でも何でもねェだろうからな。海賊ではあっても、あいつはもうおれを仲間とはよばねぇ。もうおれは新しい家族を見つけちまってるから」
「そりゃ…いいことだろい。そこでとどまることより、立ち止まることより、おめぇの足で先に歩いたってことだ」
 憎しみと殺意でその場から一歩も動けなくなっているのがミトであれば、先に進んだのがヴィグである。無論本人とて、かつての船長や仲間を忘れたわけではないだろうが、だが、そこで立ち止まることを彼らが望んでないことを知り、失った辛さを乗り越えて歩いているのだ。生きて。
 マルコはヴィグが眺めている方向とは反対の海を見る。広い。
 ミトが何を見たのか、マルコもヴィグも知らない。ただ、少女は笑うことを止め、生きることを止め、泣くことを止め、刀を握り歩くだけの生物になっている。海の愛しさを忘れて、ただただ、復讐と言う二文字のために歩き続ける。
「馬鹿だよい」
「ああ、馬鹿で不器用で…よく、笑う奴だったんだ」
「知ってるよい」
 よく、と呟いた声は潮風に流される。
 今では時折船に遊びに来ることもあるが、確かに笑う。笑うのだが、それはやはりほんの一瞬なのだろうとマルコは思う。瞳の奥にこびりついた薄暗い死人の色はしっかりと本人に染みついている。ふとした瞬間笑みが遠のき、冷たい色をするのも。
「知ってるよい」
 よく笑う奴だったない、と続け、マルコはヴィグの背中をそっと叩いた。