馬鹿で不器用な - 1/3

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 ゆらめく。ゆらめく。ゆらぎゆく。波の音。
 耳に溢れる潮騒の音と鼻に香るその香を一杯に吸い込んで、海に飛び込む。体ごと放り投げて、海に沈む。どぷんと音を立てて沈めば、水分を枯渇させていた肌は水をあふれさせていく。吸い込んだ分だけ体は重くなり海に沈む。海と一体になるように全身から力を抜き、海を感じる。空中では大気が伝える振動を、海中では水が伝える。こぉーんこぉーんとどこかで何かの声がする。それは誰かの泣き声か、それは何かの鳴き声か。それとも何かの爆音か。
 肺から溢れた息が泡となって海面へと立ち上っていく。海の中から見た海面はきらきらと大層綺麗だ。光が奥へと差し込み、自分が落ちて行くのはそれが一切届かぬ海の底。海底まで落ちれば水圧でぐしゃぐしゃになっているであろう自分の意識と体。尤もそうなる前に体は浮力によって上へと浮かんでしまうことだろう。骨になれば海に沈むだろうか。
 一つ息を吐いて足で海をかく。ずんと重みと共に海面から顔を出した。一気に広がる騒音の世界。水の世界は、どれほどに静かだったことだろうか。否、水も色々な音を立てていたが、それよりもこの耳という器官は大気中の音をよく拾うと言うだけの事である。
「ミト!いい加減に上がって来い!」
 ヴィグが呼んでいる。あいつ、今日はロジャーの船に行く予定だったと思いだしながら、ミトはヴィグが投げたロープを掴んで甲板に上った。上では家族である仲間たちが戯れ、航海士が波を読み風を聞いている。その隣では、ふさふさと後ろ姿の髪の毛が豊かな副船長が座っていた。レイヴン、と声を掛けてその背中を覆う髪の毛に飛び込む。びしょぬれの体の水をそれは吸いこんで少しボリュームを少なくする。振り返った壮年の男はにこやかに笑ったが、髪の毛にうずもれた子供の姿は目視することができない。
 もふっと完全に顔をうずめて引っ張るようにすれば、痛いと声が上がった。
「誰だ、こんな悪戯をするのは」
「えへ、へへっ」
「よーし当ててやろうか」
「おいこらミト。お前、レイヴンにちょっかい掛けるんじゃねぇよ」
「あー馬鹿!馬鹿ヴィグ!」
 ひょいと後ろから襟首を掴まれてミトはへばりついていた副船長の髪の毛から引きはがされる。持ち上げたのは青年で、まったくやれやれと溜息を吐いた。副船長と呼ばれた男は振り返り、からからと笑う。目尻の三本、まるで鳥の脚のような刺青が楽しげに皺になった。
「その辺にしてやれ、ヴィグ。ところで、お前今日は白ひげの所に手紙を届けるはずじゃなかったか」
「ああ、今行くところです。ちょっと『こいつら』が変な声してたもんで」
「シケでも来るか」
「いや、そういうのじゃないんスけど」
 ヴィグの言葉に副船長は海を覗き込んだ。コエコエの実を口にしたヴィグはありとあらゆるものの声が聞ける。でもまぁそろそろ、と一言言うと、ヴィグはミトにもう悪戯すんなよ、と忠告してから甲板の上に落として海へとその体を投げた。だが、その体は沈むことが無い。彼は、海の上に立っていた。
「便利なもんだな。そうだ、それから向島の酒を土産に持っていってくれ、行きしなに迷子になるなよ」
「大丈夫っス。向島まではここの島民からもらったログポーズがあります。それに白ひげの船の『声』は覚えてるし、あそこの船は『こいつら』も気に入ってて、案内してくれますんで」
 行ってきます、とヴィグは一言告げてから裸足で海面を蹴った。まるで海が誘うようにヴィグの体を次の波へと運ぶ。それは本来海に嫌われるはずの能力者であれば大層奇妙な光景であったが、この船の乗組員にとっては見慣れた光景であり、行って来いよー!と甲板から声が上がり、ヴィグは船から離れつつ手を大きく振ってその場を去った。
 ミトはべぇと舌を出して水にぬれた体で再度副船長の髪の毛にへばりつく。それに副船長は笑いつつ、体を拭かないと風邪をひくぞ、とミトを髪の毛から引きはがして己の膝の上に乗せ、その濡れた体を側に置いてあったタオルで拭こうとした。が、その手は止まる。背中に突き刺さるような視線に手を止めた。壁を指先で壊すような音は気のせいではない。
「…レオル…」
「船長!」
「ミト!」
 さぁおれの腕に飛び込んでおいで、とばかりに両腕をめい一杯に広げた男に副船長は酷くうんざりとした顔で頭を押さえた。レオル、と呼ばれた船長はミトを両腕でしっかりと抱きしめて、ぐりぐりとその髭で頬をする。ミトは楽しげに笑いながら、くすぐったいとぐりぐり顔を押し付け返す。ミトを腕に抱えたまま、レオルは副船長にレイヴン、とその名前を呼ぶ。
「ヴィグはもう行ったか」
「ああ、今し方な。あいつにはあー…隣だな、隣の島へ行ってもらっている。この島からそう距離はないらしい。ほら肉眼でも確認できる。向島の酒がこれまた旨いんだそうだ。少しばかり買ってきてもらおうと思ってな」
「成程。…海を愛する男は酒も愛する。ところでお前」
「もういい、お前の親馬鹿談義は聞き飽きた。タオルでもなんでも貸してやるから、さっさとそいつの体を」
 拭いてやれ、と言いかけたレイヴンの声は上の見張り台から落ちてきた声で止まる。軍艦一隻!と声が空気を裂いて甲板に届く。逃げるぞ、と笑いながら手を上げたレオルだったが上から放り投げられた望遠鏡をのぞいて、その腕を下ろした。
「どうした」
「船長?」
「…ミト。お前、そこの部屋に入っていなさい。レイヴン!」
 掛け声と共に、甲板がひどく騒がしくなる。
 ミトは不安げにレイヴンを見上げたが、入っていろと続けられ、大人しく部屋に入った。そして、そこから少し割れている板の隙間に目を押し当てる。
 緊迫した船舶、甲板に立っているレオルの背中をミトはじぃと見ていた。
 船の主である船長は先程まで湾岸へとやっていた視線を副船長へと向け、そして素朴な疑問を投げかける。
 緊迫した甲板とは別に先程まで明るく賑わっていた港は水を打ったように静まり返り、荷を持っていた人々は軍艦が見えるや否やすぐさまその姿を個々それぞれに隠し、港は一変し、寂れた様相を呈していた。
 明らかにおかしい状況にレオルは眉を顰める。
「どういうことだ。海賊船ならともかく、軍艦だぞ」
「まーおれたちの時も大概な出迎えではあったが、ここまでひどいもんだったか?どうする、レオル」
「…海軍と握手する仲か?熱烈な出迎えをしてやってもいいが、帆も畳んじまってる。面倒事にならなきゃ、そのままにしておけ」
「面倒事になったら?」
 自分の右腕の言葉に、それはそれは楽しげにレオルは口元を歪めた。楽しくて楽しくて仕方がない、玩具を見つけた子供のような笑みが顔いっぱいに広がる。
 その笑みに、レイヴンは軽く両手を挙げ、了解、と口端を軽く上げることで応えた。
「お前達!無用な戦闘行為はなしだ!ヴィグが戻ってくるまでこの島に待機、分かったか!」
 無用な、との意味に船員はからからと楽しげに笑い声をあげ、無用な了解、と甲板から笑い声が盛大に上がった。
 その笑い声に誘われるようにして、ミトは一室から姿を現し、船長に駆け寄るとその服を引っ張る。
「どうした」
「船長!私、一人で買い物できるから、一人で街にいってもいい?」
 一瞬、男は雷で撃たれたような顔をしたが、男の口から何かが発される前に、ミトの前には小さな小銭袋が渡され、そして愕然とした男の口には大きな手が添えられ何も言えないようにされていた。
「ああ、行っておいで。何かあればすぐに帰ってくるんだぞ。ヤッカも連れていけ」
「うん!」
 行ってきます、とミトは笑い、船から飛び降りた。その降下を助けるがごとく、宙からカヤアンバルの真白な二つの大きい翼がきらめき空を割き、ミトの背中を掴み、着地の衝撃を和らげる。大型鳥類は地面に降り立った少女の厚めにできた両肩の服に鉤爪を乗せ、嘴で甘えるようにその淡い色をした髪の毛を啄んだ。
 ミトは甲板を見上げ、両手を大きく振る。
「行ってきます!」
「気を付けてな!」
 少女の背が小さくなり、静かになってしまっていた街中へようやく消えてしまった頃、さてとレイヴンはレオルへと視線をやる。
「おれたちはどうする」
「さて、どうにかするもんかね。おれたちがこの街ですることと言えば、資材調達とログポーズだ。幸い前者はもう済ましちまってるし、後者もヴィグが帰ってくる頃にゃ溜まってる。それになぁ」
「それに」
 珍しく言い澱んだ男にレイヴンは怪訝そうな視線をやる。
 この男が言い澱む、というのはひどく珍しい。よく言えば決断の速い、悪く言えば単細胞のこの男はそういった行動をすることは滅多にない。
 それに、とレイヴンはレオルの言葉を反復した。
「なんだ」
「島民が逃げる海軍なんてモンはどう転んだってロクでもない。売られた喧嘩は買うつもりでいろ、レイヴン」
「喧嘩?そりゃおれの役目だろぉ、船長」
 喧噪の臭いを嗅ぎつけ、甲板を軸にぐるりと楽しげに降りてきた男の腰には細身の曲がり刀が一振り。
 船の中で身軽な男NO.2へ視線をやり、レオルはいたずらっ子のように笑った。
「そうだったな、お前の役目だ。ワラバル。まあ、一番はおれの役目だがな!」
「こーれだから船長さんは。ところでチビスケは」
 きょろりと周囲を一瞥し、そのちょこちょこせわしなく動き回る対象がないことに気づきワラバルは保護者である男へと問いかけた。それにレオルは心を痛めた様に、しかしその痛みを堪える親のようにきっと強く前を見据えて頷いた。
「かっ…可愛い子には旅をさせよ…という、いうからな…」
「…アンタの口からそんな言葉が出るなんて、明日は雨だな」
 世も末だぜ、と船の縁に手をかけて身を乗り出そうとしている男の肩にそっと、優しく、真綿を包むように、諦めを覚えた視線で、副船長と特攻船員は手をかけた。
 甲板のいつもの光景を面倒くさそうに眺めながら、軍艦を見つけた男は、船の船大工は頭の後ろを一つ掻いて見張り台の上に驚異的なバランスで横になりつつ、横になった。裸足の指先で木目を確かめつつ、滑らないように体を固定する。
 随分と老いた目は近くのものよりも遠くのものが大層よく見える。雖も、近くのものを見るのに老眼鏡を必要とするようになったのは不便としか言いようがない。このところ、船の釘打ちすら眼鏡をかけるようになった。しかし、この船の半数近くが老眼鏡を必要としていることを考えれば、そう不自然なことではない。残り半数は、年齢が若いためというのと、悪魔の実の能力故老眼というものがないのだと船大工、テツはそう思っていた。
 それだけでなく、幼いころから遠くばかりを見ているので、遠くのものの方がよく見えているのは訓練というよりも習慣から身に着いた特技である。
 テツは目を細め、遠くに見える軍艦から白いコートを羽織った将校が一名、通常の海軍の制服を着ているものが複数名。戦艦の様子から見ても、支部ではなく海軍本部とみて間違いなさそうだった。
 港に降り立った海兵は全く海兵にあるまじき行動をとっていた。港に置き捨てられていた荷を蹴り飛ばすものや、中を勝手に開けて中に入っている物品を押収するもの。海兵というよりもその行動はただのならず者である。
 胸糞悪い気分に普段からへの字の口をさらにへの字に曲げながら、テツは甲板にいる男共へ状況を伝えるために口を開きかけ、しかしそれを閉じた。
 軍艦のさらに向こう、水平線の上に一隻の海賊船を認めた。
 さて、あんな船はあったかと思いつつ、テツは金壷眼を細めに細め、その船に掲げられている海賊旗を確認した。手配書も様々に出ているが、しかし覚えのない海賊旗である。
「じいさん、じいさん、ヨイじいさん」
 テツはマストの下で転がり転寝をしている高齢の船医に大声を張り上げ、船長に双眼鏡をヨイに渡すよう頼んだ。
「ありゃあ、どこの海賊団かいね。生憎あっしは覚えがねえんだ」
 むぐむぐとどこが目なのかはっきりしない床まで引きずる純白の眉の間に双眼鏡が埋まり、長い長い白髭がもぐもぐと動き、ホッホと老いた声が小さく響く。
「あいつはのう、のう…ふうむ」
「ぼけたかジジイ」
「若造め、無礼を言うでない。まだまだ現役ぞい」
 ぷりぷりと怒りながら、したり顔のワラバルのケツをヨイは張り飛ばす。
 逡巡し、そしてヨイは頷いた。
「鋼鐵のガルイド、ガルイド海賊団。船長が能力者じゃったのう。んんむ、触れたものを全て爆薬に変える能力じゃったな。んむんむ」
「ガルイド?鋼鐵ので間違いないか、ヨイ」
 鋼鐵、の名前にレイヴンは温和な相好をひどく歪め、腕を組んだ。
「評判よくねえのか」
「よくない、というより悪い。頗る悪い。海賊間でもよろしくない。約束は破る、騙し討ちは上等、背後からの攻撃も辞さない、女子供容赦なく殺す。おれは好きな方ではない」
「おっさんがそこまでいうのも大概だな」
「どいつもこいつもロジャーや白ひげのような気持ちのいいやつらばかりじゃないということだ」
 レイヴンはレオルへと指示を仰いだ。腕を組んだ男は、まあと首を押さえる。
「放っておけ。喧嘩は売られれば買うのはいつものことだ。それが、おれたちの流儀だろう。テツ!」
「なんでさあ、船長」
 水平線を眺めてていた男は船長の呼びかけに敏感に反応し、下へと視線をやった。
 船大工の応答にレオルは海軍の様子はどうだ、と尋ねた。テツは再度港へと視線をやり、こりゃいけねえと溜息交じりにぼやいた。
「あいつ等破落戸以下でさあ。荷は漁るは、ああ、今家に入った。ガキの髪ィ引っ張って無理矢理連れ出して、こりゃいけねえ…いや?」
「どうした」
 言い澱んだ報告にレオルは腰に帯びた刀に手をかけた。
「こっちに来よるんでさあ、連中」
「なに?」
「ガキ一人引き連れて、ああ、でも母親と街の連中もたまりかねて追っかけては来とりますが、取り巻きにやられてまさあ」
 遠目を果たすテツはその顔を海軍の非人道的な行為に十分に嫌悪に歪ませた。
 海兵の姿が肉眼でも十分確認できるほどの位置に近付いてようやく、レオル等以下はその現状に生理的嫌悪による吐き気を催した。
 穏やかに笑う将校クラスの海兵の片手に細い髪の毛を掴まれ、痛いという声すらあげられずに大粒の涙を零しているのは年端もいかない子供である。その背後で同じく悲痛な声と、そして誰かの、おそらくはその子供の名前であろうか、それを喉が張り裂けんばかりに叫んでいるのは母親である。母親は取り巻きの海兵に銃尻で腹を撃たれ地面に打ち倒されたが、それでも這いずって、わが子のもとへ行こうとしている。父親である男はその後ろで複数の海兵により、袋叩きにされてぴくりとも動いていなかった。生きているかどうかも定かではない。周囲で街の住民が悲痛な目を向けてはいるものの、半円になり、銃口を向けられている状態で傍観しているしかできない。
 さて、と穏やかに笑う海兵は船の縁から覗く海賊を見上げた。
「まあ降りてきたまえ、海の屑共」
 不遜な言葉にレオルは縁に片腕を乗せ、そこから将校を見下げ、口角を吊り上げて笑う。
「おいおい、おれたちはいつからお前の可愛いワンちゃんになったんだ。おれたちは海賊。お前らに振る尻尾なんざねえよ」
「うん、聞こえんな」
 最後の言葉と共に、絶叫、それが港に響いた。母親の悲鳴がそれに合わせて不協和音を作り出す。
 レオルは口元を引き攣らせたまま刀の柄を握りしめ、レイヴン、ワラバルに至っては顔から表情が抜け落ち、触れるだけで怪我をしそうな殺意を肌から溢れさせていた。
 海兵の子供の髪の毛を掴んでいないもう片方の手に握られた小さなナイフが、子供細く頼りない脚に突き立っていた。
 子供よろしくよく日焼けをした足に刺さったナイフの面からぷつりと赤い球が浮かび、それは爪先へと流れ落ち、地面を濡らした。子供はただただ痛みで泣き叫んでいる。母親は子供を助けようと必死に手を伸ばし海兵に打ち据えられ、そしてとうとう父親同様に動かなくなった。
「うん、降りて来いと、私の声が聞こえんかったかね。屑共」
「…屑とは心外極まれる」
「次は喧しく泣きわめかないように喉を掻き切らんといかんな」
「おれたちが海賊ということ分かってんのかね、屑海兵」
「少なくとも君たちが人情に厚いモノクルのレオルだということはよく分かっているつもりだが」
「成程、おれも今し方よく分かった、お前らがどれだけ、屑なのかってことがな」
 唾棄するようにレオルは言葉を投げ捨て、そして指示通りに梯子を伝い船から降りた。
 互いに面し、レオルは現状の如何ともし難い不利を把握した。人質にとられているのは子供だけではなく、この街の住民全てである。仮に子供を一人助けたとしてもその瞬間に街の人間は銃殺される。本部にはただ一言、海賊に殺されたとそう報告すればいいだけのことである。
 全く世も末だとレオルは嘆いた。
 これが、人質に捕られているのが仲間であれば、どうとも回避のしようがあった。捕まったとて、反撃の一つもしない部下は一人もいはしないし、ある程度のアイコンタクトもとれる。しかし、今回ばかりはどうしようもない。
 斬りかかろうにも、相手は子供を自身の心臓と頭を守る様に盾にしている。人間のクズもクズである。
「それで、何が用向きだ」
「物わかりが早くて助かる。まずは、貴様らの宝全て」
「いいとも持って行け。おれの宝は金銀財宝じゃあない。いくらでも構わん、一切合財好きにしろ。お前ら、動くなよ」
 レオルは船に残る船員に動かないよう命令した。その命令にレイヴン達は状況を飲み込んで承諾した。
「よろしい」
 そう言って海兵は顎で他の兵士に指示をだし、レオルの船に積んでいる金銀財宝を軍艦へと次々へと運び込んだ。やっていることは何とも安っぽいことである。
 金銀財宝など探せばどこにでもあるし、レオルにとっての宝とは海そのものであるから金銀財宝など痛くもかゆくもない。少しばかり船旅がしづらくなるくらいだが、食べ物はこの母なる海からいくらでも用立てられる。困りなどしない。
 レオルは目を半分ほどに細め、これで満足かと海兵を仰いだ。
「財宝は全部くれてやったぞ。もう満足だろう、子供や街の連中を解放しろ」
「ああ、そうだ。それと私は」
 一拍おいて、海兵はそれはそれは奇妙に、不気味に、欲汚く、滑稽に、笑んだ。
「地位も欲しい」
 それは合図だったのかなんだったのか、テツは櫓の上で微かに視界の端で捕らえた、水平線から随分と大きくなった海賊船。もう海賊旗も視認できる。そこからの火薬の火に脊髄反射で叫んだ。
 水平線の上にいたのは、鋼鐵のガルイド。
「船長!!」
 ガルイドの能力は、あらゆるものを爆薬に変える能力。それは小さな銃の弾でも例外ではない。銃弾は砲弾よりも速く、しかしこのご時世の銃弾は砲弾よりも攻撃力は低い。弾丸自体の大きさが異なれば当然である。
 しかし、爆薬に、変える。
 眼前の泣き叫ぶ子供を、レオルは見た。助けて、と子供はそう叫んでいた。海兵のナイフは子供の喉へ沿っていた。海兵は笑っていた。
 皮肉なもんだ。  レオルは左脚がはじけ飛んだのを感じた。
 体が大きく傾ぐ。
 耳の後ろ、自身の海賊船が砲撃に遭っている音が鼓膜を叩いた。落ちていく視界の中で、レオルは海兵は一切の迷いなく己が本来守るべきである衆民に銃を向け、その引き金に指をかけている現状を捕らえる。
 ならば、なれば。
 一矢、報いるべきだろう。
 おれが信じた海軍は、貴様らのような愚図ではない。おれが刃を交わした海軍は、貴様らのような下衆ではない。
 おれは、きさまらをかいへいとは、おもわない。
 体が地面に倒れ伏す前に、レオルは刃を抜き放ち地面に突き立てる。右脚を踏ん張り、距離を縮める。後ろで自分を呼ぶ声がした。そんなものは、構わない。
 ただただ、おれは許せないだけである。目の前の海の塵を。
 浮いた体で切っ先を地面から抜き放つ。できるのは一閃。ただ、それのみ。
 レオルの行動は予測外だったのか、しかしそれでも将校はそれに対応し、持っていた子供の身体を自分を守る様に突き出した。下衆の極みである。子供は眼前の海賊のその、怖ろしいまでの殺意に満ちた表情に言葉をなくした。ひ、と短く喉を引き攣らせる。びりと走った空気の波が、将校の肌を震わせる。
 覇気か、と認識したが、覇気で倒れる部下は本部には数少ない。幸い衆民に銃口を向けていた海兵も数名倒れただけで済んだようだった。まだ、予防線はある。将校は一瞬笑いを引き攣らせる。
 男の、モノクルのレオルの目に。
 ぞっと、身を震わせる。口元から笑みが取り払われる。怪物が、目の前にいた。獰猛な、獣がいる。脚が竦み、息が止まる。
 白刀が一閃、きらめくかと思われたが、その前に、傍にいた海兵が男の首を横に払った。首が、飛ぶ。宙を舞う。
 安堵の笑みが顔一面に広がったが、それはすぐに失せる。宙を舞う首はただ一点を見つめている。腕はまだ、頭がついている時同様に動いていた。
 刀はまだ動いている。腕は手は、確かに刀の柄を握りしめている。子供は関を切ったように泣いている。
 それが痛みだと分かるのは、右腕が動かない、正しくは動かそうとしても動かそうとしている右腕が、肩から先がなくなったことによった。
 刀は脇下から右肩を斬り払い、さらに右耳を食い千切った。振りぬいた刀。溢れる血液に将校は悲鳴を上げる。
 宙を舞う視界の中で、レオルは群衆で前に出ようと小さな手が動いているのを見た。それは子供の身を案じた衆民に押さえつけられている。宝石のような瞳が大きく見開かれていた。
 ああ。
 レオルは思った。
 海の上で、死にたかった。
 そう、思った。
 そして意識は消えた。耳が、地面を打った音が、男が最期に聞いた音だった。
「ッ野郎共、迎え撃て!!」
 将校が上げた悲鳴で一瞬統率が崩れたのをレイヴンは見逃さなかった。屈強な海の男が動き出す。ワラバルは甲板から飛び降りるや否や、群衆に銃を向けている海兵を全て薙ぎ切りにして殺した。躊躇などない。
 船上で楽しそうに戦う姿はそこにはなかった。悪鬼羅刹のように怒り狂った刃が海兵の腸を割き、頭を、足を斬り飛ばした。降り注ぐ真っ赤な血で、その姿はどす黒い色に染め上げられた。
 レイヴンはヨイを伴って、頭のない男のところへ向かった。わあわあと喚いている男など眼中にない。
「船長!ヨイ、ヨイ…ッどうなんだ」
「…無理だわい。わしとて、頭が取れちまったモンはどうしようもな」
 白頭が真っ赤に染まる。小柄な上半身が弾けて飛んだ。
 視線を海へと向ける。鋼鐵のガルイドの海賊旗が大きくはためいていた。船首にぶくぶくに太った男が一人。それが誰であるかは一目瞭然であった。
 みし、と骨が軋み、体が鳥へと変化する。
「ガ、ルイド、ォオオオオオオオ!!!」
 ガルイド海賊団がこの海軍と手を組んでいるのは明らかだった。ああ、とレイヴンはその身を大型の鳥へと変化させ、船首へと弾丸のようにその身を飛ばす。向けられた銃口を割ける余地などどこにもない。
 足が弾け飛ぶ。翼がもげる。それでも、レイヴンは翔けた。残された鉤爪が船首にいた間抜けの目玉を片方抉り取る。脳味噌までくりぬいてやろうと足の力を込めた時、体が内側から爆ぜた。
 胸を見れば、ぽっかり穴が開いていた。心の臓がない。肺は肺胞を覗かせて、赤身を見せていた。
 くそ。
 翼に力が籠らない。体が鳥から人間へと戻りつつ落下する。海へ、その身は落ちた。冷たい、しかし温かい母なる海へ抱かれながら、レイヴンは陸上に取り残されてしまった、海を狂愛する男を瞼の裏へ思い描き、その無念を嘆き、そして意識を放棄した。
「おっさん!!ジジイ!!」
 全身を血塗れにした男は砲撃に果てた男たちのもとへと走る。テツは、と船大工へと視線を送ったが、すでにその身は上半身と下半身に分かたれており、爆薬で弾けた腸が周囲へと散らばっていた。
「くっそ、くそ!」
 顔を上げた瞬間、横腹から貫かれた痛みにワラバルは片眼を細めた。右腹から入り、左腹へと抜けている。目を向ければ、海軍コートの正義二文字が見えた。
 腐ってやがる。
 背骨より前に入った剣はそのまま前へと引き払われた。ぶつん、と腹が裂け、内容物が地面にまき散らされる。げえ、と気管から這い上がってきた血液を吐き出す。腹を押さえたところで、腹圧で腸は腕の隙間を縫い、足元へと垂れさがった。
 ひどい貧血でめまいがする。
「き、さ、貴様らゴミクズごときがぁああああ!!」
 残った左腕で男はとどめを刺そうと剣を振りかぶった。しかし、ワラバルの方が一寸速い。細身の剣が右目をくり抜く。それは、脳味噌すら突き抜けた。
「くたばれ」
 そこで自身の力が抜け落ちたのをワラバルは感じた。腹圧で外に飛び出した腸を下敷きに倒れる。長くない、どころかもう持たない。薄れゆく景色の中で、空を見た。
 あおいあおい、空だった。
 ああ畜生、ひろい。
 ミトは、その光景を見ていた。
 将校が倒れ、しかし周囲のものが駆け寄り、応急措置を行っていた。一命を取り留めたのか、応急処置で立ち上がったその将校は海賊の亡骸を蹴りつけ、踏み潰し、そして、嗤っていた。高く、高く。嗤っていた。
 ミトは自身を押さえる腕の力が弱まったのを感じ、その手を振り払うと一直線に既に頭のない体へと駆け寄った。
 せんちょう。船長。
 喉から声は出てこない。感情に塞き止められたそれは、ただ手足を動かす原動力へと変わる。そして、その遺体に手が触れるかと、伸ばしたその手は体ごと吹っ飛んだ。
 痛みは赤色に消し飛ばされる。体から、袈裟に真っ赤な血が噴き出した。
「なぁああんんだ!!この餓鬼は!!邪魔だ!」
 背中から地面へと落ち、痛みこそ感じなかったが、なぜか動かない体にミトは絶望すら覚えた。ほんの数歩の距離であの体に手が届く。大切な彼らへと、届く。のに。
 海兵の靴が腹ごと他所へ小さな体を蹴り飛ばし、その小さな体は宙を飛び、一二回バウンドしてから止った。さらに、彼らとの間が広がった。
 は、と吐き出した息に鉄臭さが混じる。喉の奥から血が溢れ、唇を汚す。
 せんちょう。レイヴン。ワラバル。テツ。ヨイじっちゃん。
 声にしたはずの名前はひゅーと擦れた息の音にしかならない。気が済んだ将校の笑い声だけが、耳にこびり付いて離れなかった。
 泣き叫ぶ街の子供は衆民により助け出されていた。転がされた少女はぴくりともせず、街の人間は少なくもその死体になってしまったであろう少女に近付こうとはしなかった。
 ミトの横に転がった視界の中で、数名の海兵は、地面に倒れている海賊の首を一つずつ落とし、袋に詰めていた。
 声も、出ない。呆然と、ただ茫然とミトは為す術を知らず倒れ伏していた。
 ガルイドの海賊船は碇をおろし、我が物顔で港へと降り立った。そして、体だけになった海賊を踏んで歩いて行った。船長は、そのくり抜かれた左目を真っ赤な布で抑えながら、喚き散らしていた。しかし、海兵と話し合い、お互いににやけた笑いをしながら、街の酒場へと消えていった。
 誰もいなくなった港で、一人少女は残された。ようやく体が激痛を訴え始める中で、少女は這った。這って、這って。辿り着いた先にあった大きく、頭を撫でてくれていた船長の手は冷たく、固く強張っていた。放り投げだされた白刀をミトは拾い上げ、抱え込んだ。
 涙は、出なかった。