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こんなところに居たのか、としっかりとした両肩を寒い風に晒している女の背中を眺めて思う。砂漠の夜は冷える。その中で女は一人ポツンと、否、独りぽつんとバルコニーに凭れかかっていた。冷たい風がひょうと間をすり抜けていく。夜空に浮かんだ月は、澄んだ空気の中で一層映えていた。ぶるりと背中が一つ震えたのを見て、溜息交じりに羽織っていたコートを乱暴に掛ける。反応はない。
音もなく佇む背中は、まるで人形のようだった。空っぽの背中に空っぽの心。そこには何一つ残っていない。突き動かしていたものが、ほんの少し途絶えた瞬間を目の当たりにする。
クロコダイルは声を掛けようとして留まった。
周りの時間に一人取り残された止まった時間の中で、女は何を思うでもなく月を見上げていた。
馬鹿な女だ、とクロコダイルはただ思う。もっと楽な道を選べばよかったのに、何故かそれをしない。わざと苦しい道を選び、死に損ないの面をして重たい足と体を引きずり冷たい目を凝らせる。馬鹿な、女。全く馬鹿な女である。
冷たい空気に鼻歌が乗った。ビンクスの酒の歌である。メロディーだけをなぞっていくそれは、酷くか細いもので、風が一つ吹けばあっという間に流されて消えてしまいそうな音量であった。ぼんやりと遠くを眺めている女から、その音はまるで鎮魂歌のように海へと流れて行った。虚ろな目をして、海の方向へと消えて行く歌は海に沈んでいる仲間へと向けられたものか、それとももうすぐそちらへ行けるという報告か。どちらにでも取れた。
月の、何も生み出すことの無い冴えた光だけが足元を煌々と照らす。クロコダイルが掛けたコートの下から、くぐもった鼻歌が大気を微々に揺れ動かす。マリオネットならば生きた人間が操縦者である。この女を突き動かすのは復讐心である。心と言うものを見事に打ち砕かれ、その破片を両手を傷つけながら拾い集め、元の形に無理矢理握りしめて心という形の容器に押し込める。ぎちぎち詰まったそれは、時折こうやってその器を傷つけた。音を立てて、ぎりざりと破片同士が傷つけあう。ふん、と鼻歌がなった。最後のフレーズが響いて、鼻歌は止まった。
遊びに来て隣で惰眠を貪っていたはずの女が、ふと気付いた拍子に居なくなっている。そしてこの様であった。
クロコダイルは壁に預けていた背中をゆっくりと持ち上げ、女の肩を掴むと無理矢理自分と向き合わせた。小さく笑っている。クロコダイル、と唇だけが音にならない声を紡いだ。全くもって、見ていられない笑い方だった。
泣き虫な少女だった。だが、出会ってからこの女は泣き方を忘れたかのように、涙を流さない。涙など枯れ果てたとばかりに、視線を落とし代わりにからからになった心の地面でそれぞれを傷つけあう。落としているのは、心の傷からあふれ出た真赤な鮮血だろう。それは、面に出されることは一生ない。
ばかなおんなだ。
小さく笑った女の両頬に、コートを貸したせいで少しばかり冷えてしまった指先を押し付けるように添える。左手の義手はもとより体温など持ちはしない。乾いた肌に零れる滴は存在しなかった。薄暗い瞳の奥底で、凝った色だけがそこに沈澱している。こんな目で、こんな瞳で、こんな顔をして、この女は自分に会うまで生きてきたのかと思うと何故だか無性に腹立たしい。
女は、ミトは両頬に添えられた手を振り払うことをせず、ただぼんやりとクロコダイルと言う男を見上げていた。薄い唇がゆっくりと動き、顔を両断している傷が歪んだ。
「何度も言わせるな。泣き方だけは、忘れるんじゃねェ」
てめぇは、とぐいと頬を引っ張られる。
涙とはどうやって流すものだっただろうか、とミトは振り返る。だがどうにも思い出せない。どうだったかな、と言葉を返せば溜息が落とされた。眉間に寄せられた皺が、目の下に深い線を刻み込む。そして唐突に息が詰まった。正しくは、体が厚い体に押し付けられた。背部が体が逃げ出さないようにしっかりと回され、後頭部は鼻を押しつぶす強さで顔を相手の体に押し付けた。相手の丁度鎖骨辺りに当たったおでこが、少し痛い。
ミトは僅かばかりに身をよじった。コートが音を立てて揺れる。
「クロコダイル」
「そんな面ァひっさげてそこに居られちゃ迷惑なんだよ」
そう言われてミトは記憶を探る。
最後に泣いたのは一体いつのことだったか。もう記憶もかすれた昔のことだったように思う。あの時、あの場所で助かった時からもう泣くのはやめた。心が疲弊するだけの無駄な行為だと知ったからだ。そんなことに体力を費やすくらいならば、その力を全て強くなるためのそれに費やすことにした。一心不乱に刀を振るい、刃を持ち、自身すらも一口の鋭い復讐者という刃になれるように。
目を閉じ、記憶を掘り起こす。少し高い位置で規則的に拍動を刻む心音に耳を傾ける。懐かしい音を、思いだす。澱んだ記憶の底からさらいあげる。
怖い夢を見た時、船長はいつもこうやって抱きしめてくれた。泣いている自分をあやしてくれた。痛いと言って泣いたら痛いの痛いの飛んで行け、と笑いながら抱き上げてくれた(無論その後は、副船長がとっとと船医の所に連れて行けと怒鳴りつけていた)皆が怪我をしたことが無性に悲しくて泣いていたら、皆が一人ずつ、おれたちは生きてるぞ!と笑顔で抱きしめてくれた。そうやって、泣いた。
うう、と小さく声を出す。喉が引き攣ったような声が漏れ出た。まるで犬の吠える声に聞こえないでもない。どんな声で泣いていただろうかと声の音を探す。か細く出していく声に胸の奥が熱くなる。記憶と共に忘れた何かがせり上がってくる。ああ、と丁度良い音が出た。しかし、それは嗚咽には変わらなかった。
「は」
はは、と乾いた声が次から次へと零れ落ちた。下にだらりと垂らしていた手をその大きな背中に回し、スカーフに目を押し付けた。どんどんと渇いた笑い声をスカーフが吸い込む。
声が、止まらない。
乾いた空気を満たすかのように、滑稽な笑い声は砂漠の夜空に浸透した。