How to cry. - 2/2

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 笑い疲れて眠ってしまったミトを両手で抱き直すと、自分のベッドに寝かせて上に布団を掛ける。明日は恐らく喉も枯れて酷い状態だろうなとそう思わされるほどの笑い声だった。一体、どれほどの年月この女は泣くのを止めているのだろうか、そう、思わされた。
 このまま眠ってしまう気にもなれず、クロコダイルは廊下を歩いて一室に辿りつくと腰を下ろしてグラスにワインを注ぎいれた。それを口につけようとして、ふとその動作を止める。かつんと高めのヒール音がクロコダイルの耳に届いた。それと同時に女の声も。
「随分と彼女にはお優しいことね、サー」
「盗み聞きたァ感心しねェな。ミス・オールサンデー」
「ふふ…そうね、少し下世話だったかしら。私にもくださる?」
 そのワイン、とロビンはクロコダイルが持っていたワインを指差し、自分も一つワイングラスを取るとクロコダイルに差し出した。それをちらと見てから、クロコダイルは片方の腕でワインを取ると空だったワインを適度に満たしてやる。ロビンはありがとうと一言礼を述べてから、そのワインに口を付け、味を舌の上で転がす。
 一口、ワインが喉を嚥下した後、ロビンはクロコダイルに言葉を続けた。
「随分とご執心のようね、あの子に」
「お前よりも年上だ、ミス・オールサンデー」
「あら、そうだったの?若く見えたのは…いえ、年が分からない面立ち…そうじゃないのかしら。私と、似ている…のかしらね」
「一緒にするな」
「ご機嫌を損ねたかしら、サー。そうね、私みたいな人間と一緒にしては」
「そうじゃねェ」
 葉巻を一つ取りだして火をつける。吸い込んだ煙をカプリと吐き出した。吐き出された煙は空気中で拡散して消える。ソファに埋めた体でクロコダイルはゆっくりと、言葉を選ぶようにして、しかし単純で短い言葉のみを選別して口にした。
「そうじゃねェよ」
 だがしかし、上手い答えを見つけられなかったのか、最終的には言葉を濁すようなものが口を吐く。ロビンはそんなクロコダイルにふふと笑い、何が違うのかしらと軽く首を傾げた。悪魔の子と呼ばれ、世界に疎まれ、裏切られ続けてきた自分のような人間と一緒にしては失礼かと思い、先程の言葉を口にしたのに、それは一瞬で否定された。この男は、基本的に相手を嘲ることはあっても、事実を口にすることが多い。
「あなたは、私の過去を知っているわ。当然調べたんでしょうけれど」
「調べなけりゃてめぇにゃ辿りつけねェ」
「そうね。オハラのことも、あなたは知っている事だろうと思うわ。何か大切なものを失った、そういうことは、分かるものよ」
 私も失った、と言いかけてロビンはワインの残りに口をつけた。ほんの一口しか飲んでいないと言うのに、今日はやけに饒舌になる。良い月の日は、ついつい酔うのだろうかと笑いながらほんの少し疑う。
「分かる、ものよ」
 沈んだ瞳をちらと一瞥し、クロコダイルは葉巻を灰皿に押しつけて消す。グリと強めに押し付けたようで、葉巻の先が酷く潰れる。まだ吸えたであろうはずの葉巻を灰皿に捨てると新しい一本を取り出して、その先端を切り落とし火をつける。紫煙が立ち上る。
 ロビンはクロコダイルの返答を待った。ワイングラスの中の色を見つめる。誰しも、と長い沈黙ののちに言葉が続けられる。
「味わった苦痛なんざ本人にしか分かりゃしねェ。誰が誰よりも不幸で誰よりも幸せだと優劣をつけるのは馬鹿のすることだ。本人がそれを不幸だと思えばこそ、それは不幸になる。他人の批評が本人を不幸にするのか?馬鹿馬鹿しい」
「だから、私の言葉を否定したの?」
「さぁな、ミス・オールサンデー。少なくとも、今のあいつは自分を不幸だなんざ一度も思ってねェよ」
「まるで私が私を不幸だと言っているみたいな言い方」
「違うのか」
「さぁ、どうかしら」
 億劫そうな視線を受けて、ロビンは軽く肩をすくめた。不幸だと、そんなことを考える暇などは一度もなかった。ただただ、何故自分だったのか、何故オハラだったのか、何故何故と考えればその質問は尽きることはない。痛いなどとうの昔に通り越した苦痛が抉れるような感覚を胸の内に残す。今もそれはそう大して変わらない。
 それでも自分は待っている。探している。
 笑い方を今もまだ覚えている。前を向いて歩いている。かの優しい巨人の一言に。業火に散った愛しい人たちの言葉に支えられ。彼女はどうなのだろうかとロビンは思う。彼女の海兵になる前の経歴は一切分からない。どの書類にも記載されていないし、誰も知らないと言う。恐らく詳しく知っているのは目の前のこの男だけだろうとロビンはあたりを付けた。だが、そんな過去の経歴など知らずとも、彼女が何か自分と同じように大切なものを失った人間だと言うことは分かる。
 おなじにおいがする。
 そんな事を考えていると、思考が言葉で遮断される。
「そんな思考は、もう働いていない」
「え?」
 思わず問い返したが、男が同じ言葉を繰り返すことはなかった。その代わり、その言葉にさらに言葉が重ねられていく。
「同じか。客観的一般的に見た場合、お前の方が余程不幸で憐れな女なんだろうがな」
「ありがとう、と言うべきかしら?サー」
 軽く返したロビンにクロコダイルは褒めてねェと静かな言葉を返す。言葉を返しながら自身の思考を整頓していくような、そんな印象を与える会話であった。珍しいとロビンは思う。
「それでも、てめぇは生きてきたんだからな。唯一違うとすればそれだけだろう」
「…おかしなことを言うのね、サー。あなた、あの人が生きていないとでも言うつもり?もしくは死人だとでも。あなた、ネクロフィリアだったの?」
 ロビンは少しばかり混乱する。確かに、彼女は生きていた。否、生きている。心臓が動き、肌は温かみを持ち、手足はしっかりと動き、死後硬直などもってのほか、腐ってすらいない。何かしらの能力の可能性も考えたが、ロビンは彼女が泳いでいるところをみているので、それはないと考えを否定する。
 ネクロフィリア、と言う単語にクロコダイルはは、と馬鹿にするように笑った。
「てめぇともあろう女が珍しい勘違いだ。一つにおれはあの女を愛しちゃいねェよ。そう言う対象でもねぇし、あいつからしてもおれを恋人だなんざ思っちゃいねェ」
「…に、しては随分と気にかけている様子だったわ。まるで、恋人のよう」
「腐れ縁だ」
 鼻で笑ったクロコダイルにロビンはそうなのかしら、と先程見聞きしたことを振り返りながら、疑わしげな目を向ける。だが、いくら他人がそうだと言ったところで、当人が違うと言えばやはりそれは違うのだろう。そう、とロビンはクロコダイルの言葉を受け入れた。
 そこで上手く話をそらされた事実に気付く。尤も、話をそらすきっかけを作ってしまったのは自分の一言だったが。何故か気になり、ロビンは会話の方向修正をしようとしたが、その前にクロコダイルが薄く笑いながらワイングラスを傾けた。
「死んでいるのさ」
「…それは、肉体的にと言う意味かしら」
「いや。ただ動いているだけだ。てめぇとの違いはそこさ。ミス・オールサンデー」
「褒められていると思っていいのかしら」
「褒めてねェ」
 クハハ、と半分ほどに減った葉巻を灰皿に押し付けてクロコダイルは嗤った。これ以上の問答は無用だと思い、ロビンはそう言えば、と少し話を変える。
「泣き方を忘れるなだなんて、少しおかしな慰め方ね。普通は泣かせないようにするものなんじゃない?もしくは…笑い方を、教えるとか」
 サウロのように。
 ロビンの言葉にクロコダイルは笑いを止めて葉巻をしまうと、ワイングラスに減ってしまった分のワインを注ぎ直した。ロビンがグラスを笑顔で差し出したので、それに自然な動作で注ぐ。
「おれがいれば、あいつは笑うから問題ねェ」
「まぁ、大層な自信ね」
 くすくすと口元に手を添えて上品にロビンは笑う。
「ニコ・ロビン。お前は泣いたか」
「…その名前は呼ばない約束だったのでは?」
「答えろ」
 視線は混じり合うことなく、ただ言葉だけが空気を震わせる。ロビンは一言、ええと答えた。悔しくて辛くて死にたくなった時でも、笑いながら泣いていた。泣くと言う行為は、やはり忘れられるものではなかった。例えサウロの言葉があっても、いくら笑っても頑張って口元に笑みを作っても、辛いものは辛いのだ。泣きたい時は、涙は出るものだ。尤も、次第に涙を流す、泣く、という行為は感情でコントロールできるようになったが。
 ロビンの答えにクロコダイルは笑うことはせず、大体十五年か、と言葉を紡いだ。それが自分が故郷を失ってからの年月だと気付くのに多少の時間を要した。ええ、とロビンはそれを肯定する。
「それでも、十分な時間だったわ」
「そうだろうな」
「哀れんでいるのかしら」
「いや」
「でしょうね。あなたがそんな感傷的な男だとは思わないわ。彼女以外には」
「あいつに対しても哀れみなんざ持っちゃいねェよ。全く、馬鹿な女だ」
 その割には優しくしているじゃない、とロビンは小さく笑う。以前など、飯をくわねェだとかで無理矢理水を飲ませ、粥を口に押し込んでいた。かなり抵抗されたのか、それとも彼女相手では油断しているのかどうなのか、頬にはひっかき傷と腕には噛み傷が見られた。手酷くやられたものね、とからかうように笑えば、睨まれた。
 あなたにとって、彼女は一体何なのかしら。
 想像は膨らむがどれも実体を得ない。パズルのピースの形は複雑で、裏返しても右にしても左にしても上にしても下にしても、どれかがどうしても当てはまらずに拒否をする。故に彼らの関係は良く分からない。恋人だというのが一番しっくりくるかとも思ったのだけれど、はやりそれも何かが違う。お互いの認識が無いせいか、それとも、そもそもそういう対象外であるのか。ロビンには分からなかった。
 クロコダイルはグラスの中のワインの色を見るかのようにゆする。その色は、女の瞳の色である。
「泣く行為は、感情の発露だ。ミス・オールサンデー。自己防衛機能の一種だな。お前は、生きているのさ。意識していなくても体が精神が自分を守ろうと無意識下で働いて、時に泣くことで蹲ることで止まることで、生きてきた」
 だが、あの女にはそれがない。
「違うか」
「違う、とははっきり言えないわ」
 壊れているのだ。そういう構造が。既にもう。
 クロコダイルは揺らしたワインを口に含み嚥下する。辛口のワインは、少し喉に来る。
 あの女は泣き方を忘て久しい。その行為自体どうでもよいと思っているからだ。既に死んでいるからだ。体を引きずり、復讐のためだけに生きているからだ。「自分を守る」という人間の生存本能において最も重要な部分を、女はもう既に壊してしまっている。死にながら歩いている。その場その場の瞬間に笑うことはできても、泣くと言う行為を忘れるのだ。本来泣くことによって発散されるはずの物は、澱んだ状態で胸の奥に溜まり続ける。そして壊すのだ。ゆるりゆるりと内側から。否、既に壊れているのだろうから、侵食すると言った方が正しいだろう。
 本来であれば前に進めた生き物を、その場にとどめて殺し続ける。馬鹿な、女。
 溜息をつき、クロコダイルはワイングラスを机に戻した。
「…てめぇも寝ろ。もう遅い」
「そうさせていただくわ、サー。ワイン御馳走様。淑女の寝込みを襲わないように」
「するか」
 馬鹿馬鹿しい、とクロコダイルは悪態を一つ告いでその場を後にした。
 ロビンも最後までワイングラスのワインを飲み干した。そしてクロコダイルの言葉の意味を考える。ふふと口元に笑みが覗いた。
「…でも、私もそろそろ疲れたわ。生きると言うのは、とても大変なことだもの」
 裏切り裏切られ、騙し騙され、人間不信に陥る手前まで既にもう来ている。彼女もそうだったのだろうかと考え、しかしそれは違うだろうと否定する。何故彼女が海軍に居るのか、何故クロコダイルと仲が良いのか、何故という疑問は尽きない。そしてほんの少し羨ましく思う。彼女には少なくとも「クロコダイル」という男の側に居場所があると言うことに。
 サウロの言葉を思い出す。人は一人で生きていない、いつか見つかると。そのいつかを探し求めて、これまでずっと生きてきたけれども、そろそろ本気で疲れてきた。投げ出してもいいだろうかと座りこみたい衝動にかられる。ここアラバスタのポーネグリフが駄目であれば、もう諦めるしかない。サウロにも皆にも申し訳が立たないが、もう、疲れたのだ。生きることに。
「…あなたも、私と一緒なのかしら」
 生きることに疲れた女。
 しかしロビンはそこでクロコダイルの言葉を振り返る。死んでいる、と。未だにその意味が分からない。心が死んでいる、という意味であるのならば、それも少し頷きがたい。今までここを訪れた彼女は全くよく笑っていたし、楽しそうにしていた。あれは生きている、居場所があるものの顔だとロビンは思う。時折こうやってクロコダイルが気にかけるようなことも起きるが、それ以外は全く普通である。つまり、人としての普通の感情の起伏なのである。
 ならば一体何が死んでいると言うのか。分からない。
「今日は、私もあなたも酔っていたのかしら?サー・クロコダイル」
 饒舌が過ぎたわ、とロビンは空になったグラスを机に放置してその場を後にした。