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扉を開け、そこに座っていた女にクロコダイルは居たのかと声を掛ける。ミトはコーヒーを片手に、訪れた男を見上げた。
「ああ。所用で少し出て居てな。仕事も今日は終わりだ。食事でもどうだ?」
どうした、とミトはコートを壁に掛け、帰り支度をしながら珍しくだんまりな友人に声を掛ける。だが反応は薄く、扉の所で佇み、静かにこちらを見ているだけであった。
ミトは黙りこんでいるクロコダイルへと歩み寄り、あまりにも反応の薄いその顔の前でひらひらと手を振って反応を見る。しかし、その手はっさりと鉤爪ではたき落された。分からん奴だ、と思いつつ、どうしたとミトは己を見下ろしてくる男に問うた。顔を両断している傷が歪み、何か言葉を発そうと喉が動いたが、それは一度止まり、そして何でもないという答えになって返される。
「何でもないわけないだろう。どうしたんだ、本当に。もしかしてお前…空腹の極限が」
「くたばれ」
頭に鉤爪の直撃を受け、ミトは痛いと一言文句を言いながら頭をさする。そして背を向けたクロコダイルにもう一度声をかけた。
「どうした、心配だ」
「…てめぇに心配される程落ちちゃいねェよ」
舌打ちと葉巻の煙が同時に吹かれる。紫煙をふかし、クロコダイルはミトへとその背中を向けたまま立っている。フラミンゴ野郎に上手く乗せられたのかと忌々しさを感じながら、右手の指で葉巻を取った。灰皿が手元にないことに気付き、踵を返してミトの部屋へと踏み入ると、机の上に置かれている灰皿にそれを押し付ける。煙草も葉巻も吸わない人間の部屋に在る灰皿は、他の誰でもない自分のためであることをクロコダイルは知っていた。
癪に障る笑い声が未だ耳に残っているような気がして、クロコダイルは軽く耳を叩く。
「…暫くは、あの野郎を部屋に入れるんじゃねェ。話もまともに聞くな」
「あの野郎?…ああ、ドフラミンゴか。そう言えば、最近忙しいのかとんと姿を見ないな。喜ばしいことだ」
あまりにもひどい言われようだが、それを気にしているような状況ではなかった。クロコダイルは懐から新しい葉巻を一本取り出し、それに火をつけると、深く肺に吸い込み、そして吐き出す。
珍しくクロコダイルからドフラミンゴの話題が出たことにミトは多少の驚きを感じつつ、コートに袖を通す。
「どうした。喧嘩でもしたのか?」
「喧嘩する程の仲じゃねェ。おれの言ったこと、分かってんだろうな」
「部屋に入れるなというのは無理な相談だな。鍵を掛ける訳にもいかんし、何よりあいつの力で扉を押されれば開かざるを得ない。まぁ、話はまともに聞く気はない。というよりも、今までまともに聞いたことは一度もないから安心しろ」
「ならいい」
短く返された声は先程のよりもずっと安定しており、ミトはそれを耳で聞き取ると、にかと笑って、その背中を強めにバンバンと叩いた。それに合わせてファーのコートが柔らかく揺れる。
「相談事があればいくらでも乗るぞ。旨い飯でも食べれば、その固い口も少しは柔らかくなるか?」
「…うるせェよ。不味い飯屋になんざ案内しやがったら承知しねェぞ」
「どうだろうな、お前の舌は肥え過ぎてるんだ。偶には庶民の味というものを味わってみろ」
からからと笑い、先を先導したミトの後ろをクロコダイルはゆっくりと付いていく。足の長さが違うために、数十歩も歩けば、ほぼ隣に並び、そこからはほんの少しだけ速度を落とす。そうすれば、ミトはそれに合わせて少しだけ歩く速度を速めた。かつかつと革靴が小気味よい音を奏でる。
覚えている。
クロコダイルはとある日の事を思い出す。雨に降られて、傘も差さずにずぶぬれの状態で家の扉を叩かれた。正義の二文字も背負っていないと言うのに、凍てついた目をしていた。雨に降られて体温が下がったせいではないことは、クロコダイルも知っていた。何も言わず何も語らず、ホットミルクと服を貸してやれば、部屋の隅でうずくまり、嗚咽一つ零さずに膝に顔を一晩明けて、気付けば部屋の片隅でピクリともしないので近寄づいて覗き、固く握られた手を開いてみれば、強く握りしめていたのか、爪が食い込み血が滲んだまま寝入っていた。
何があったのかを聞く程野暮でもなく、おおよその予想は付いたので、そのしっかりとした体を抱き上げてベッドに起こさぬように放り投げて寝かせた。目が覚めてからも、女は何も言わず、飯も食べないので嫌がる口に無理矢理突っ込んで食べさせたのを覚えている。只管女は身体を鍛錬と称して甚振っていた。
悪夢でも見たのだろうと、クロコダイルは思った。
殺す覚悟も殺される覚悟も、海で生きるこの女には備わっている。復讐を果たしたところで何も残らないことも恐らくは気付いているのだろう。しかしそれでも、この女は止まれない止まらない。刀を握りしめ、後ろを見つめながら前に進むことしか知らない。この女にとっての惨劇は、過去の話ではなく、いつまで経っても現在の話である。あの連中が、生き続けている限り。殺したところで帰ってこない愛しい仲間を只管に嘆く。
三日も経てばようやく身体を痛めつけるのをやめて、無言ではあるが自分から形のある食事を取るようになった。そして、一言有難うとだけ声を掛けて出て行った。避難所のような、実際それ以外に他ならないのだろうが、そこで一時心を落ち着けて。
ドフラミンゴの笑みを思い出しながら、クロコダイルは軽く葉巻を噛み、そして眉間の皺を深くする。
隣で明るく笑う女が沈むのは苦手だ。どうすればいいのか分からない。気分が悪くなる。
袖が引かれ、クロコダイルはミトへと視線を落とした。指をさした方向へとさらに視線をずらすと、明かりがともされている屋台が見える。さびれた、とは言わないが、あまり繁盛しているようにも見えない。不満げな意見が顔に出ていたのか、ミトは穴場なんだと笑った。
「この間スモーカーと会った時に教えて貰ってな。ここのラーメンは絶品らしいぞ。ラーメンなら、右手だけでも食べられるよな」
「馬鹿にするんじゃねェ」
「馬鹿にするも何も、お前両手を使う料理は食べられないじゃないか。ステーキとか」
「自分で切らなきゃならねェような店にはいかねェんでな。愚民」
誰が愚民だ、と足が軽く踏まれる。それを踏み返して、クロコダイルは先へと進む。そしてミトはラーメンの食べ方を知っているか、とそんなクロコダイルの背中に笑って言った。