置き去り - 2/2

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 ごつんと暗く細い廊下に影が伸びる。咥えた葉巻を二本、すぱと煙を吐き出した。
 前面にある鍛え上げられた筋肉を曝け出した男は、誰も入れられていない牢屋を一つ二つと通り過ぎながら、ようやくたどり着いた一つ、人が入っている牢屋の前で立ち止まる。死臭はしていなかったが、そこからは噎せ返るような血の臭いが溢れていた。気持ちが悪くないのか、そう思えるほどの臭気が牢屋の中から床を伝って溢れ出している。
 外からの明かりしか中を照らし出す術を持たない一室。その中に真っ赤、随分と赤黒い色をした人間が座っていた。視線は何処を見ているのか分からない。ぼんやりと、静かに足元の辺りを眺めているようには見えた。すぱ。白い煙を吐き出す。口内には苦い味がふっと広がり、鼻が嗅いだ血の臭いを紛れさせた。
 何を言うのか、言葉を探す。しかし、何を言っても目の前の女には無意味な気がした。右から左へと通り抜けていくような気がしたのだ。皮膚という皮膚に余すところなくこびり付いた朱色は酷く澱み汚れている。白いはずのシャツは赤に染まっている。一目で人を殺したのだと分かる呈であった。何かを話しかけようとやはり口を開きかけた時に、牢獄に繋がれて、後はもう海底深くに絶望の奥底に突き落とされる女の口がゆるり開いた。血がこびりついた頬にラインがぎちと入り、瘡蓋のように乾いた血液がぱらりと落ちた。
 スモーカー。そう、名前を第一声で呼ばれる。抑揚はなかった。返事はしない。女の話は続いた。声の調子は耳にひどく障るほどに平坦であり、ぼつぼつとこぼされた。
「あいつらを、宜しく、頼む」
「…」
「中佐は一等癖が強いのがあれだが、お前になら、付いていくだろう」
 スモーカー。もう一度名前を繰り返される。自分の名前をこんなに重たく呼ばれたのは久しくないとスモーカーは思った。記憶にないかもしれない。これ程に、名一つにずしりと心に重石でも乗せられたような気分にさせられるのは。声の調子が余計にそう思わせるように感じた。
 かちりと上の明かりが揺れる。しんみりとした空気の中女の声は続いた。
「頼む」
 長く煙を吐き出す。肺が震えた。
「分かった」
 了承した自分の言葉が地面に落ちた。助かると女は言い、続いて見張りの兵士に声をかけた。話がしたいと。彼女が何を言うのか、誰に対して何を口にするのか。スモーカーは呼ばれてきた正義のコートを羽織る将官クラスの海軍兵士を横目に、静かに女の独白を聞く。
 クロコダイルとのことは好きにとればいい。だが、私の部下には一切の関わりがない。彼らは本件に一切関与していない。そうだろう?
 薄く、女の口元が薄く歪んだ。スモーカーは口を挟もうとしたが、一瞬躊躇し、それを止めた。これは眼前の女の結論であり決定だろう。つまり、女はこう言っているのだ。海軍のあらゆる不都合を自分の罪状に加えてもよい代わりに、部下に一切の手出しをするなと。それで満足だろうと。しゃりと紙の上をインクが滑る。ああと、話を聞いていた兵士が了承の意を示し立ち上がった。彼らとしても、これ以上の問題を抱えて一つの部隊を潰してしまうのは外聞が悪い。何とも薄暗い取引の成立である。
 横を通り過ぎた男を眉間に深い皺を刻み込んだまま睨みつけたが、意味のない行為であることをスモーカーは承知していた。お前の、と牢獄の女に語りかける。
「あの賢い部下が、理解しないはずもねぇだろう」
 よくよく懐いていた彼の男が、この笑いたくなるほどに薄汚れた取引の臭いを嗅ぎつけないことはないだろう。が、しかしそれは決定事項であり、彼の上司が、否、元上司がそれを全面的に認めてしまっていることで、証拠も残らなければ、一切の口出しが不可能となる。
「恨まれるぞ」
「それもいい。それでも、構わない」
「自分の部下だろうが」
「元、部下だ」
「心が痛まねぇのか」
「どうして」
「あれだけ、てめぇに」
 我等は大佐が大好きなのです。あの厄介者の大佐殿が、大好きなのです。
 酒場の席で、あの男はそう言った。あの、人をこき下ろす男がそう言った。他の部隊よりも一倍、否、あの部隊だけはどうしようもない扱いに困る連中ばかりが集められていた。その部隊で、その部隊の筆頭の厄介者がそう告げた。あの部隊は一丸となれば、それこそ一体の動物のような行動がとれるだろう。鍛え抜かれ、ミトという大佐、今はもう既に准将、元准将だが、の支持の下に動く部下。
「そうだな、悪いことはした。そう、思う」
「…の、割りに何も行動をおこさねぇ」
「起こす必要など、ない。どこにも。もうどこにも、そんなことをする理由は、ない」
「部下はどうする」
「お前に預けた」
「おれが預からなかったら」
「預かる」
 お前はそうする。断言された言葉に、スモーカーは持っていた葉巻のたまりすぎた灰を指で中部を叩いて落とす。
「だから、もういいんだ」
「知らねぇぞ」
 女からの返事は既になかった。そして、スモーカーは進んだ廊下を歩いて戻った。血の臭いは、次第に遠ざかって行った。

 

「は?」
 言われた意味が理解できず、ギックは言葉を繰り返した。口元が引き攣る。開けられた扉の向こうは明るく、こちらは暗かった。前回の脱走で警戒されたのか、外からの南京錠に鍵は変わっていた。それが取り外され、外と中が現在繋がっている。
 状況が飲み込めていない中佐階級の男に、外に立っていた男は手にしていた書状をもう一度機械的に読み直した。何度読み直しても一切代わり映えのしないそれである。
「謹慎解除だ、中佐。三度目は言わんぞ。罪人が中佐階級以下、元所属していた部隊と本件とは無関係であると証言した。よって、ギック中佐。貴殿は今現時刻をもって謹慎解除とする。また、ミト元准将はハルバラット少将殺害、元王下七武海サー・クロコダイルとのアラバスタ王国における共謀、加えて多くの海賊と内通し、海の平和を脅かした罪により」
「おい」
「罪により、インペルダウンLEVEL6へと連行収容される」
「おい」
「以上で」
「大佐が!!!あの人がそんなことをするはずはないだろう!!あんたの目は節穴か!あの人が、あの人が…ッ」
「本人の証言は取れている。出ろ、中佐。長年あの女の部隊に所属していたんだ。動揺は分かる」
 分かっていない。ギックは立ち上がり、傍にあった椅子を蹴り飛ばした。ぎりと歯が軋むほどに顎を噛みしめる。暴れた男を床に取り押さえるために、書状を持った海兵の両脇から二人の兵士が現れて床に押し付ける。
「…ッ会わせろ!大佐に、准将に会わせろ!どんな尋問をした!どれだけ…っあの人を、痛めつけた!」
 知っている。自分の上官はそんなことをする人間ではないと。海を愛し、正義を誇ったあの人が、そんなことをするはずがないのだと、今もなお信じて疑わない。
 書状を丸め、男はギックを見下ろしつつ、ネクタイをきゅっと締め直す。
「既にインペルダウンに連行された。お前のような階級の人間が行ける場所ではない」
「…ッぅ、」
 ごりと額を冷たい石の床にこすり付ける。唇をかみしめる。目の奥が火傷をしたように熱い。大佐と口の中で言葉を零す。ふんと鼻で笑う声が上から落ちた。
「お前等のようなろくでなしが今も海軍に在籍していられるとはな」
 侮蔑の視線と耳に届いたその言葉にギックは全て理解した。ああ。ごんと強く床に額を打ち付ける。
「うらみ…ます…!」
 あなたは、おれたちを、おいていった。