疲れ果て - 1/2

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 大きな大きな、大柄な男をミトは死んだような目で見上げた。生きる意志も意図も望みすらも失った、そのくたびれた瞳をインペルダウン署長マゼランは自分よりもはるかに小さな女を見下ろした。そして渡された書類を眺める。
 元海軍本部准将絶刀のミト。元王下七武海であるクロコダイルの仲間であり、スパイの嫌疑が掛けられる。故ハルバラット少将の証言により嫌疑確定的になる。後、連行に向かったハルバラット少将を殺害。備考、非能力者。
 どぱん、と少し離れた所で飛沫の音が弾ける。地獄のぬるま湯と呼ばれる100度の熱湯に落とされた音であった。能力者ではないので溺れることはないだろうが、悲鳴一つ上がらないのは流石と言えるだろう。ずる、と体が引きずり出されるような音が響き、手首を戒めている鎖と湯が滴り落ちる音が混ざって落ちる。
 LEVEL6に連行する様な人間だろうか、とマゼランは書類を一読して考える。犯した罪から考えて死罪、終身刑なのは分かる。しかし、階級は本部であるとは言え准将。LEVEL4もしくは5辺りが妥当ではないだろうかとマゼランは頭を悩ませた。しかし、書類の隅にはLEVEL6と記載されてある。
 ちらと囚人服を着せられ、静かに音もなく、まるで歩く死人のような顔をした女をマゼランは横目で盗み見る。体躯はしっかりとしており、海軍准将というだけあって、細身ではあるが鍛えられている。能力者でもなければ、多額の賞金が掛けられた海賊でもない。LEVEL6に彼女を入獄させるだけの理由がマゼランには到底理解できなかった。
 疲れ果てたワインレッドに一体何の脅威を感じるべきなのか。
 ぺた、と素足が石の床を叩き、マゼランはその隣につくとリフトの扉の前に共に立つ。隣に立つ囚人は何一つ言葉をこぼすことはなかった。男にしては細身で、女にしてはしっかりしている体を疲労させたまま元海兵はエレベータに乗る。マゼランはその隣でゆっくりと言葉を紡いだ。
「貴様はこれからLEVEL6に収容される」
 そうか、とも、ああ、とも女は返事をしなかった。床を見つめたまま、微動だにしない。
 ごうんごうんと下に落ちて行くだけの機会の中、どちらとも言葉一つ発さない。あまりにも静かすぎて、空気が痛い程の沈黙を破ったのは、疲れ切った女の声だった。
「私の、刀は」
「囚人に武器を渡すわけにはいかん」
「渡す必要など、ない。刀は」
 ぼつぼつと零していく言葉にマゼランは刀の行方だけを端的に返答する。
「没収しているだけだ。壊してはいない」
 床を見つめている女は肩を一度揺らして、沈黙を避けるかのように言葉を続けた。
「私が死んだら、それも一緒に始末してくれ」
「…」
 マゼランはミトの言葉に返事をしなかった。了承か否定か分からないまま、ミトは俯いたまま自分の何一つ履いていない足を見下ろす。 しかし、言っておきたいことはもうこれだけしかない。他の言葉など何もなかった。やりたいことはやった。やるべきことはした。自分の命の意味も果たした。できることならば、船長の形見である刀と共に命を共にしたいと言うのは、少しばかりの我儘だろう。
 がぉん、と空気を重たい音が震わせる。灼熱と極寒、それに合わせた悲鳴と絶叫がミトの耳を通り抜けた。だがそんなものは、既にどうでも良かった。悲鳴が心地良いと思う様な趣味は一切持ち合わせていないし、それを子守歌代わりにする習慣も持ち合わせていない。通り過ぎて行った囚人の悲惨な姿は、ミトの心を一度も震わさなかった。ただ、どこか何か、指一つ動かすことも億劫だとばかりの虚脱したガラス玉のような瞳がそれを映しだしていた。
 マゼランは再度黙りこくったミトに、貴様のと話を再開させた。
「牢屋だが、生憎LEVEL6には女用の独房が無い上に、今は牢屋の空きが無い。お前には他の囚人が入っている牢屋に入ってもらうことになる」
「男と同室?はは、囚人を気に掛ける必要がどこにある。どうせ死を待つだけの身だ。嫌なら私も抵抗はするし、ぶちのめす。場合によっては殺すかもな。囚人の心配なぞしてどうした、インペルダウン署長マゼラン。そんなにお優しい性格だったか」
 嘲るようにミトは笑う。それにマゼランはいいや、と嗤う言葉を否定した。ごうんと重い音が苦しげに鳴り響く。
「…ここインペルダウンにいる囚人も少なからず、お前が捕えた者もいるだろう。海兵としてのお前の功績が消えたわけではない」
 異例の昇進を遂げた女として、絶刀のミトの名をマゼランは小耳にはさんだ事はある。インペルダウンに収容された囚人でミトが捕まえた者も少なくはないのだ。まさか、その張本人がここインペルダウンに収容されることになるとはマゼラン本人も思っていなかったが。屈強な海賊を捕えてきたその実績は認めざるを得ない。
 だが、ミトはマゼランの言葉を嗤う。正義か、と引き攣るような笑い声が、重たい音を響かせていたリフト内に響き渡った。床を見つめていた顔が天井へと持ち上げられ、高く高く、下へと沈みこんでいく機械とは真逆の方向にはじけ飛ぶ。
 嗤うだけ嗤い、ミトは再度床へと視線を落とした。
「くだらん」
「本部准将まで登り詰めた海兵の言葉とは思えんな」
「全くだ」
 地面が軽く揺れ、リフトが最下層まで付いた事を知らせる。ぎぎと重たい音を弾かせながら、リフトは両脇に向かって開いた。
 石の冷たさを感じながら、ミトはマゼランの隣を歩く。牢屋からは物珍しそうな視線と、揶揄する声が嘲笑った。マゼランの持つ鍵束が歩く度に金属音を響かせ、ミトの鼓膜を刺激する。途中でマゼランは看守に鍵束を預け、ミトに背を向けた。大きな背と、マゼランと比較すれば小さな背が向かい合わせになる。
 マゼランは、小さく口を開いた。
「共に、始末してやろう」
「恩にきる」
 有難うの代わりの言葉をミトは口にした。そしてマゼランはここに来たリフトに乗って、LEVEL6のフロアからその姿を消した。
 ミトは看守に引き連れられて冷たい石の上を歩く。嘲笑、視線、あらゆるものがミトに突き刺さる。物珍しいそれは、明らかに歓迎する様なものではなかった。LEVEL6にぶち込まれるような相手は未だ捕まえたことが無かったな、とミトはそんな事を考えながら石を踏む。つい先日准将になったばかりの身では、そのレベルの海賊と顔を合わせることも少なく(個人的な付き合いは別だが)この場に収容されている囚人でこちらの顔を知っている人間はそういない。名前くらいは聞いたことはあるだろうが。
 女か男か、どちらか判別の付きづらい中性的な顔立ちと体は揶揄をばらけさせていた。
 ここだ、と看守は足を止めて、騒ぎ立てる牢屋の扉に鍵を差し込み開ける。錆びたような音が耳触りに響き、ミトは背中を押されて押し込まれた。乱暴、という程乱暴ではなかったが、つんのめる程度の力は加えられていた。とんとん、と足を数回踏みながらミトは足を踏み入れる。背後で扉が閉められ、檻という名の境界線で中と外が区切られる。もうこれからは余程の事が無い限り、中と外が繋がりを持つことはないだろう。
 まぁもうどうでも良いことか、とミトは疲れた体で壁に背中を預け、ずり落ちるようにして座りこんだ。興味津津と言った様子の視線が鬱陶しいが、話しかけるなと言う空気を纏い、膝の間に顔を埋めた。舌を噛んで死ぬことも考えたが、もうそんな気力もわかない。ここで唯唯諾諾と中から腐敗し死絶えて行くのも悪くないだろう。
 唯ほんの少し、海が恋しかった。
 だが、ミトのその思考を笑った一つの声が遮る。それは、ミトが良く知った声であった。膝の間に埋めていた顔を上げ、ミトは声の主をそのワインレッドの瞳に映し出した。鼻をまっすぐに両断する傷がそこに在った。はく、とミトは声にならない言葉で顎を軽く動かす。
「海で会うんじゃなかったのか?全く、良い様だな」
 葉巻の香りはしなかったが、確かにそこに居たのは自分の知己であった。ミトは目を疑う。しかし、すぐに考え直す。クロコダイルがLEVEL6に収容されるのはほぼ当然と言ってよい。そうだった、と失念していたことを自覚する。
「死んだ目しやがって」
 見下ろしていた瞳が、クロコダイルが膝を折ってしゃがんだために視線の水平線が近くなる。それでもクロコダイルの方が普通に立った状態でも頭一つ分は高いので、完全に水平とはならず、少しばかりその視線は下を向いていた。ここにきても手入れしているのかどうなのか分からない鉤爪がミトの前に現れて、その頭をごつんと小突いた。クロコダイルと新しくやってきた男か女か判別の付きづらい囚人のやりとりに、他の囚人は顔を見合わせたりじろじろと物珍しそうに見物したり、はたまた興味が一切ないとばかりに大きな欠伸を一つして牢獄の壁に背を預けたりしていた。
 ミトは呆然とクロコダイルの顔を見つめる。失念していたことを頭が理解しても、再び会えることは頭に入れていなかった。再度見えるのは海の上だとばかり思っていたので、牢獄での再会は予想外以外の何物でもなかった。冷たい金属の温度を保ったままの鉤爪が頬に触れ、その温度を奪う。恐らく、鉤爪の方は少しばかり生ぬるくなっていることだろう。
 ふるり、とミトは震えた。押さえ込んでいた箍ががたりと外れる。
 疲れ果てた。
「クロコダイル」
 喉の奥から言葉にできない嗚咽が溢れる。泣きそうな顔をしているのに、涙はもう疲れ、くたびれ、支柱を失った心からは流れ出なかった。
 クロコダイルとミトは繰り返す。壁に預けていた背中を持ち上げ、前にしゃがんでいる体に手を伸ばす。そしてそのままクロコダイルの胸にぐらつき、ぶつかった。首筋に肩を埋め、泣くことはしなかったが、歩き疲れた体はぐったりとクロコダイルの体にその体重を預けていた。鍛え上げた体は全身の力を抜いているのでぐったりとしている。突き放すことはせず、クロコダイルは短い髪に右手を乗せてぐしゃりと撫でた。小さな呟きが耳に届く。
「疲れたよ、とても」
 凭れ掛かったことで背後から上がった揶揄と嘲笑をクロコダイルは一睨みして黙らせると、全てを終えてきた背中をぽんと叩いた。