ふざけないでよ。
そんな言葉を僅かな怯えと共に発したことに、眼前の男は気付いたのだろうか。
やせぎすの女のような体を強張らせ、青年は肩で息をした。水の入ったグラスを持てば、その中の水は表面を波立たせると思われるほどに、手は震えていた。
右手はボタンの引き千切られたシャツを押さえている。ボタンは床に転がり、その端は踏まれ、ひび割れていた。
「冗談」
気味の悪い薄ら笑いを浮かべる男に罵声を、罵声を。
喉が引き攣った。胃の腑がひっくり返るほどの激情が背骨を駆け上がり、喉を焼いた。胸元を押さえる手は握り締めすぎて、震えている。
男は年の若い、両肩をすぼめ、全身を緊張で強張らせている青年の脇にブーツの底を叩きつけた。鈍く大きな音が密室に響き渡り、青年の喉からは引き攣った声が短く上がる。
青年は震える奥歯を食い縛り、顔に引き攣った笑みを浮かべる。それが無理をして作っているものであることは、誰に言われずとも一目瞭然であった。
「記憶が間違ってなけりゃ、君、俺のこと大っ嫌いだったと思うんだけど」
「ああ、嫌いだね」
大っ嫌ェだ。
猫は必死に牙剥く鼠に首を傾げ、口角を愉しげに歪めて笑んだ。
一拍、十分な間を持たせてから、男は逃げ道のない青年に顔を近づけ、息を吐きつけた。
「だぁーいっきらい」
満足か?と、男は青年に愉悦の深い笑みをかぶせて見せた。
男の行動に、青年は目を見開き、胸元を押さえている手とは反対の空いている方の手を振り上げた。勢いよく、一切の躊躇なく青年は掌を男の頬に向けて吸い込ませる。吸い込んだ、かの、ように見えた。しかしその掌は紙一重のところでとどまっている。びりびりと震えているその掌は、青年が噛み締めている歯の震えと同調していた。
決して、男は青年の手首を掴んでいるわけではない。青年は、呪われたかのようにその手の動きを止めていた。それが、自身の意志であるのかそうでないのかは、男の知る由ではないし、青年自身も考えたくもない事実であった。
男は青年の止まってしまったいた掌に指を一本ずつ、指の腹をなぞる様にして絡め捕る。
目を細め、勝利した捕食者のように妖艶に笑むと、未だ小さく震えている手の甲に唇を乗せて舌を這わせた。指の間から、指の先まで。
ねっとり、と。
指先に歯を立て、男は青年との距離を詰める。腹と胸が合わさり、熱を持ち始め、固さを帯び始めた下半身を押し付けた。
「さいっこう」
「退け!」
声を荒げた青年の様をさぞかし楽しむかのように、男は笑みをさらに深め、絡め取った指先を食む。今度は歯を立て、歯形をつけるほど強く噛む。青年の顔には一瞬痛みが走り、目が細められ、掴まれていた手を振り払い、言葉に表しようのない苛立ちと怒りを綯交ぜにして、歯を食いしばった。
男は振り払われた青年の手の行方を目で追い、その眼を細める。
「ドン」
そうして、青年の名を砂糖を何杯も溶かしたかのような甘ったるい響きを持って呼ぶ。
始めは対面で、二度目はさらに顔を寄せて、三度目は耳元で囁く様に。
胸を突き飛ばすために押された両手は男の手よりも一回りは小さく、力はないに等しい。尤も、彼の分野は力仕事にはないので、それには男は十分に納得していたが、それでもまるで女のような力に自然に嘲笑がこぼれた。
「ドン」
女に囁く様に男は青年の名を繰り返す。
「や、めろ!気味悪い!」
あまりに必死さを帯びた悲鳴にも近い声に男は満足したかのように体を離した。
「女の子みてえだな、ハ」
「うるさい、黙って。今すぐ、発狂させられたくなかったら」
青年の言葉が発せられると同時に、足元に黒い大群が沸き、男は笑いを渇いたものに変えたものの、それに怯えや恐れは一切含まれてはいなかった。
一定の距離を取ったまま、攻撃性をあからさまに表している青年に、男は声をかけた。
まるで青年のソレは、怯える獣そのものである。
全身の毛を逆立て、牙を剥き、威嚇に唸る。
「消え失せろ!」
吐き出した声は震えていた。恐怖によるものなのか怒りによるものなのかは、判断がつかないものになっていた。
男は、青年の歪んだ瞳の奥底をまじまじと見つめながら、両端の口角を持ち上げた。
「なんだ、ソリャ。処女かよ」
「本当に、発狂したいみたいだね」
ぞぞ。
真黒の大群が床へと散らばり始め、男はそのうちの一匹を踏み潰し、足首を回して捻る。
「間違ってるか?俺ぁ、てめぇのそのかわいい態度は他ならねえと思うがな」
「俺の、どこが女の子だって?一度眼科に行くことをお勧めしたいね。それとも、ジェロニモの蟻に役立たずの目玉でも食べてもらう?」
ねえ、と青年の声音は氷点下まで下がっていく様に男は両肩をすくめ、薄く開いた唇から笑いを零した。
「馬鹿にしないでくれる。俺は、」
地面を這いまわっていた蜘蛛がその数を一気に増し、部屋を真黒に覆い尽くす。身の赤のラインだけが、まるで目のように黒の中を彩った。それは、あたかも青年が友人と称する数少ない人間の一人のようであった。
「見下されるのが大っ嫌いだって、言ったこと、覚えてる?そのちっぽけな、筋繊維だけでシナプスのない脳味噌に蓄積されてるとは到底思えないけど、もう一回だけ言っといてあげるよ。よっぽど痛い目に合いたいらしいし、地面へのディープキスは大好きなんだろ?悪魔なのか天使のかわかんない、中途半端な名前して。人の性別馬鹿にする前に君はどっちつかずの、」
の。
青年は、ドン・バルディは顔面を掠めた風に一歩身を引き、半身でそれをかわした。
いつの間にか男の握りこぶしにつけられていたナックルが鈍い光を放ち、ドンは赤く蚯蚓腫れになった頬を指先でなぞる。
は、とドンは嘲笑った。
「口で言い負かされそうになったら暴力!笑っちゃうね!」
「そこいらに散らばせた匣に食わせようとしたヤツに言われたかねえな」
「なんていうか知ってる?俺のは、理由ある防衛。君のは?ただの癇癪さ」
「似た者同士だなァ、俺達。思わず運命を感じるね」
「反吐が出る」
「愛してる、だろ?」
「Va cagare(失せろ)」
互いの爪先に体重がかかろうとその瞬間、緊張を割く様に手を打つ音が響いた。
二人分の視線が音の方向へとぐるりと向き、男はナックルを手から外し方をすくめ、ドンは盛大にこれ見よがしに舌打ちをした。その態度に手を鳴らした男は溜息を吐く。
「大事な話、してるトコなんだけど。空気読むとかそういった感性は君についてないわけ」
開口一番、ドンは現れた男へと罵声を飛ばし、そして相対していた男は威嚇を続ける小動物のような滑稽さだとそれを表現し、馬鹿にした。
再度飛び散った火花に男は場を鎮めるため、落ち着けと溜息交じりに突っかかっていこうとする小柄な青年を押しとどめた。
「お前の悪い癖だ、ドン・バルディ。身内事だとすぐに熱くなって冷静に欠ける。普段の冷静さはどこに行ったんだ」
「自分の沽券に関わることに悠長に構えてる馬鹿じゃないの」
間髪入れず返された答えに男は顔に傷のある男の方へと視線をやり、お前もと半ば諦めたような声をやる。
「いい加減にしないか、メフィスト・ガブリエル。何回このくだらないやり取りを繰り返せば気が済むんだ。お前の方が年が上だというのに…」
「恋愛に年をあげるのは野暮ってもんだぜ、ウドルフォ」
「だから」
「君と恋愛ならブタと交尾した方が幾分ましってもんだよ」
「ドン・バルディ」
「獣姦がお好みなら、いい店紹介してやろうか。ブタの一物つっこまれてアンアン喘いでるてめえ見ながら抜いてやるよ」
「メフィスト・ガブリエル!」
「はあ?頭おかしいんじゃないの?嫌味ってのも理解できないんだね、これだから貧相な脳味噌の持ち主とは会話が成立しないから困るよ」
二人の売り買い言葉に間に挟まれたウドルフォを眉間にひどい皺をよせ、これ以上ないほど深い溜息を吐きつつ額を押さえた。
「やめないか、二人とも」
「部外者は黙っててくれない。これは、俺とこの屑みたいな、ああいやごめん間違った、この屑にすら値しないメフィスト・ガブリエルっていう名前を持った存在の問題なわけ。そこに突っ立ってる屑が地面に額付けて謝ってくれるなら考えてやらないでもないけどね」
「ヒトの恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえってか。いいのかよ、オトモダチがいなきゃ、勝ち目はねえぜ?」
「お友達?冗談よしてよ、ウドルフォがお友達?俺の友達は二人だけ。ウドルフォは仲間。ただの」
「おいおい、かわいこちゃんのハートに傷つけんなよ」
とんとん拍子で渦中の人間を置いて進む話にウドルフォはいつものことではあったが、もう、と一拍言葉を置いて二人の頭を拳で殴りつけた。
「いい加減にしろ!子供のような喧嘩をしているんじゃない」
毎回のことではあったが、ドンは頭をさすりながら、散らばせていた蜘蛛を正常な配置に戻し、メフィストは両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
ウドルフォは臨戦態勢を解いた二人を交互に見比べ、全く、と言葉を零す。
「何度言えば分かるんだ。それに何より、仲間同士の戦闘は、」
「別に戦闘じゃないよ。ちょっとした仲違い。意見の相違。一生分かり合えない見地、てとこかな」
「だから」
「そうそう。たまにゃ本音で語り合うぐらいが丁度いいんだって、なあ?」
賛同を求めたメフィストはドンへと一歩好意的に近寄り、その尻へと手を伸ばすが、それはすげなく叩き落され、しかしその意見に関してはそうだねと簡素な回答がなされた。
ウドルフォはそれ以上何も言うことはできず、肩で溜息を零す。
そんな光景を眺め、メフィストは苦労性だね、と野次り半分面白半分でウドルフォの肩を叩く。誰のせいだとウドルフォはうんざりしたものの、やはりそこまでの工程がいつものやり取りであることに変わりはなく、言葉にならない嘆息を落とした。
そしてそれから、いつものように。先の光景を瞼の裏に思い描きつつ、述べた。
「ボスが呼んでいた。次の任務についてだそうだ」
ちなみに、とウドルフォはああと頭を押さえ、続ける。
「二人を、呼んでいた」
「はあ!?冗談じゃない!なんで俺が、こんな筋肉馬鹿の変態と!ちょっとセオ!」
「いいねぇ、話が分かるってもんだ。流石Jr.」
罵声とそれから愉快な笑い声が同時に響き、そして同じ方向へと消えて抜けていった。
時にウドルフォは思う。
あの二人が任務で組むことは多々あるが、性格面における相性は最悪ではないかと。そしていつものように疑問に思うのである。それでもかつ、二人を組ませるボスの意図が理解できないと。
二人の気配が感じられなくなった頃、ウドルフォは静かになった廊下を後にした。