Morte manterno - 1/3

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「どうにも、ならねぇか」
「ドウニモナリマセン」
 頭髪を一切持たず、その代わりに刺青をその頭に彫り込んだ、色の強い肌の男はXANXUSの呟きに大変、冷静沈着に、覆ることの無い事実だけを述べた。
 XANXUSは深く椅子に腰掛け、その体重を預けている。顔には年の分だけ皺を刻んでいたが、その赤い瞳と端正な面持ちだけは変わっていない。以前は真黒だったその黒髪には、白も混じってきていた。自分の問いに対するシャルカーンの返答に、XANXUSはそうかと短く答えた。眼前の男は、もう何十年も経つというのに、その外見には一切変化が見られない。齢だけ重ねて容貌に変化が無いという若作りにも程がある男だが、何らかの施術を施しているのだろう。そうでなければ、彼の体は説明がつかない。
 そんなどうでも良いことは放って置いて、XANXUSは深い溜息を吐く。かちん、と時計の秒針が一秒毎に時を刻んだ。その刻みに合わせるようにして、シャルカーンは口を開く。
「分かり切っていタコトデショウ。彼女がJrを産むと決めた時カラ。彼女のカラダは随分と長持ちシタホウデス。モットモ、一番の決定打はアレデシタケドネ」
「…」
 妻の体をまるで物のように説明するシャルカーンに対して、XANXUSは取り立てて怒ることをしなかった。ただ椅子に座り、その体の重みを疲労し困憊したように預ける。赤い瞳は、放り投げだされた革靴を眺めていた。
 シャルカーンは話をその中で続ける。
「外科的措置も不可能デス。彼女の体力が持たナイ。モウ、限界ナンデスヨ。ボス」
「知っている」
 知っている、とXANXUSはもう一度口の中で繰り返す。
 名前1は頑張った。もう、彼女は長くない。今日か明日、それで彼女の命が尽きるであることを、その耳で聞いた。驚くほどに、すんなりと納得してしまった。最近では起き上がることも難しく、咳込むことも多かった。頑張った。彼女は、頑張った。
 意識が混濁してから、まだ数十時間。否、もう数十時間。次に目が覚めた時が、最期の会話になるだろうとXANXUSは頭の片隅でそう考えた。死に最も近い所で生きていたからこそ分かる。もう、名前1は駄目なのだと。死の足音が、ひたひたと、彼女の側まで来て、止まった。シャルカーンの言葉は、右から左へと流れて行く。
「頑張りマシタ。ホントウハ、子供だって産めるかどうか分からナイカラダだったンデスカラ。惜しむべくハ、あの事件さえナケレバ、モウスコシ持ったカモシレナイトイウコトデス」
「仮定は、所詮仮定にしか過ぎねぇ」
「エエ」
 セオやラヴィーナには、名前1の頼みで体は徐々に良くなってきているのだと伝えていた。定期的に戻ってくる回数も減り、それはその言葉をそうであるかのように表している、かのように、見えた。だが実際は、手の施しようが無かっただけである。あの一件以来は、特に。あの一件の前までは、体も少しずつ回復に向かっていたのだ。しかし、起きてしまった事をいくら嘆いても詮無いことである。
 抉られ酷い損傷を負った体は、気の流れをいくら変えても、もうどうしようもなかった。確実に除去しきれない疲労が溜まり続け、それは体を蝕む。どうしようも無いのであれば、いっそシャルカーンの治療を最低限に減らして欲しいと名前1は言った。そうした方が、皆と一緒に過ごす時間が増えるからと。笑った。
 騙し騙し、生きてきた。ここまで、隣に居てくれた。
 息を一つ吐いた時、ボス!と銀色の、今はそれに白髪も混じっているのかどうか微妙なところだが、スクアーロが扉を押し開けた。
「名前1の意識が戻った」
 だが、その面持ちは暗い。何故暗いのか、どうして暗いのか、そんなことは問質す必要すらなかった。
 XANXUSは椅子から立ち上がり、スクアーロの隣を過ぎ去る。走ることはせず、廊下を歩く。歩いても走っても、距離は変わらない。そしてあの女は、まだ、自分を待っていると確信している。そう遠くない未来、扉を開けても、いつも椅子に座って微笑んでいる女は居なくなる。だが、まだ、居るのだ。まだ。
 そして、白い扉の前に立つ。扉は自動で横に開き、白いベッドの上の名前1の姿を確認させた。点滴に繋がれ、青白い顔はいっそ痛々しい。ベッドの上に座っていた女は柔らかく微笑んだ。苦しげな様子は一切見せない。かなり、苦しいはずだというのに。
「すみません。貴方を看取ると約束したのに」
「ああ」
 短く答え、XANXUSは椅子を引っ張りベッドのそばに座った。随分と痩せた手を握る。
 触れてきた手であった。触れられた手であった。温かな手であった。優しい手であった。己より小さく細いけれど、包み込まれた手であった。こんなに、細く随分と冷たくなったその手でも。今もなお、自分の手を包み込む。
 名前1はすみません、ともう一度謝る。
「沢山沢山、お願いがあります」
「言え」
 聞いてやるとXANXUSは折れそうな指を絡める。それに名前1は笑って、はいと細い声で返した。
「まずは、セオとラヴィーナの事、宜しくお願いします。セオの頭はあまり殴らないであげて下さい。それと、私の体がどうしてこうなったのか、子供達には黙って置いて下さい。修矢にも。私が墓まで持っていきます。後、もしこれから好きな人ができたら、その人と幸せになって下さい。それから、肉ばかり食べないできちんと野菜も食べて下さい。偏った食事はいけません。年なんですから、スクアーロと酒瓶の山を沢山作ってはいけませんよ。節制して、健康に努めて下さい。…それから、それから」
 ぷつ、と名前1の声が途切れる。苦しいのだろうかとXANXUSは顔を覗き込んだが、そんな様子はない。ぴ、ぴ、と脈を知らせる機械音は響いている。
 名前1は苦笑をこぼす。そして、困りました、と言葉を紡いだ。
「死にたくないです」
「―――…ああ」
「貴方と共に老いて逝きたかった。髪が全部真っ白になって、皺くちゃのお婆さんになって、貴方はお爺さん。本を読んで、猫でも膝の上に乗せて、鳥の囀りを聞きながら、温かな日差しを浴びる。孫に囲まれて、ノンナって、貴方はノンノって呼ばれて。ごめんなさい。先に逝くことを許して下さい」
「ああ、待ってろ。そこで、待ってろ。迎えに行ってやる」
「すぐに来ては、嫌ですよ?」
 握り返す指先の力が弱くなってきている。XANXUSはその分、さらに力を強く込めた。持ち上げている腕も、今にも崩れ落ちそうである。機械の規則的な音の幅が段々と広くなってきている。ぴ、ぴ、ぴと間隔が広がり、緩やかになってきている。
 穏やかに、女は、名前1は笑う。
「名前1」
「愛しています、XANXUS」
 さん、といつものように敬称はつけなかった。ただ、その名前だけを口にし、名前1はゆっくりと、酷くゆっくりと目を閉じた。瞼が完全にその灰色がかった瞳を覆い隠すと同時に、握りしめていた手が重くなる。ぴー、と機械音が長く、非情に鳴り響いた。
 死んだ。
 まだ温もりは残っているが、死後硬直が始まり、次第に固く冷たい体になることだろう。
「」
 ti amo.
 そう、口の中だけで呟き、XANXUSは力の入っていない腕を死体の胸にそっと、戻した。

 

 冷たい、雨の礫が落ちてくる。
「マンマ」
 墓石の前で、セオは母を呼んだ。優しい母の、お帰りなさい、と言う声はもう聞こえない。冷たい土の中。否、母の遺体は此処には無い。荼毘にふして故郷である日本に送ったそうだ。ただ、墓だけは母の母(つまり自分のノンナ)の墓の隣にひっそりと立っている。
 葬式には間に合わなかった。任務でスウェーデンまで飛んでいた。母の訃報を聞いても、それよりも、任務を優先させた。だが、誰もそれに対して文句を唱える者はいなかった。それこそが、マフィオーゾとしての、在り方だからだ。帰国して父と顔を合わせたが、何も言うことはなく、ただ墓の場所を教えられた。淡々と、まるで何事もなかったかのように、父であるXANXUSはそれを告げた。
 礫が、冷たい。
 セオは墓石を見下ろした。いくら眺めても、墓からにょっきり手が伸びてきて(そもそも火葬されて遺骨は日本なのだからそんな馬鹿な話もない)現れるはずも無い。
 涙は、出なかった。冷たい雨だけが、傘を指していない自分の頭から肩、全身を濡れ鼠にした。頬を伝うのは、全て雨であった。涙では、無い。
 何故涙が出ないのか、セオには分からなかった。きっと父も泣かなかったのだろうとセオは思う。ぼたぼた、と滴が落ちて行く。
 もう会えない。
 もう、会えない。
 もう二度と、会えない。
 記憶と言う思い出の中でしか、マンマには、もう、会えない。
「…お帰りって、まだ、言ってもらってないよ。マンマ」
 俺にとって、最初に帰る場所だったのは、マンマ。今は、オルガ。それでも、母の下に帰れば、お帰りなさいとかけてくれる声が心地良かった。大切で大切で。それでも、涙は出ない。滴だけが頬を伝って落ちる。
 セオは佇んだまま、墓を見下ろし続ける。雨に打たれながら。
「任務、無事に成功させて、怪我一つせず、帰ってきた。マンマ。マンマ、マンマ…帰って、来たよ」
 お帰りと、母の声を待つ。そんなものが、あるはずもないことも、セオは知っていた。一度声を溢れさせれば、それは濁流のように流れ落ちた。
「どうして、バッビーノを置いて逝ったの?マンマ、バッビーノを置いていかないって言ったじゃない。それに、俺、まだマンマに何も返せてない。沢山沢山、色んな物貰ったのに、まだ、何一つ返せてない。マンマ―――マンマ」
 雨は冷たく降り注ぐ。言葉すらも凍らせて、地面に叩きつけた。髪が、顔にへばりつく。
「マンマ」
 涙は、出ないのだ。
 冷酷非情な生物だからなのか、とセオはどこか遠くでそんな言葉を思い出す。血の通っていない化物だからか。だから、母の死に直面しても涙一つ出ないのか。声一つ、溢れないのか。ただ、悲しく、ただ、胸に一つ穴が開いただけの、ただそれだけの話である。しかし、その穴もやがては埋まる。
 これは、そういう、死、なのだ。
 父の隣で逝った母。きっと幸せそうな顔をしていたことだろう。それだけで十分なのかもしれない。
 落ちない涙を待つのは止めて、セオは膝を地面につけ、墓石に指先で触れる。冷たかった。当たり前である。人の死に触れ続け、それに慣れ過ぎた所為なのかもしれない。ただ、近しい人の死は悲しいと感じられる。それは、母の教えであった。大切な人の死は悼め、と教えられた。
 そこで、ふつと雨が止んだ。否、雨は降り続いている。ばちゃばちゃと泥を跳ね上げながら、地面を叩いていた。傘か、とセオは後ろを振り返った。珍しく、気配を察知できなかった。否、自分もそれなりに動揺していたことをセオは知った。黒く大きな傘を持って立っていたのは、同じく黒いスーツに身を纏った女であった。大きくもなければ小さくもない。淡い茶色の髪で目元を布で隠している。誰なのか、セオには即座に分かった。
「ラヴィーナ…迎えに、来てくれたのか」
 セオの言葉に、ラヴィーナはこくんと首を上下に振った。そして、くしゃみをするジェスチャーをし、下げていた鞄からバスタオルを引っ張りだしてセオに差し出した。
「ああ、風邪…引くもんな。マンマの作ってくれた、雑炊は…もう、食べられないし、な」
 Grazie、と礼を一つ述べてから、セオはタオルを受け取り、びしょぬれの髪を叩いた。立ち上がれば、ラヴィーナはめい一杯に手を伸ばして傘を持ち上げる。そうしなければ、長身のセオは入り切らない。それにセオは苦笑を浮かべ、ラヴィーナの手から傘を受け取ると、自分でさした。勿論、ラヴィーナも入れる。
 ばちばちと雨音が傘を叩き続ける。セオはぼんやりと言葉を紡ぐ。
「小さい頃、俺とラヴィーナと、それからマンマで、バッビーノに傘、届けに行ったっけ。でも、着いた時には雨ほとんど止んでて、帰りに水たまり跳ね飛ばしながら歩いたら、バッビーノに泥水が掛かって殴られて。マンマがまぁまぁって仲介に入ってくれたっけかな…」
 ラヴィーナはセオの語りにこくりと首を上下に振り頷いた。
 二人は一つの傘を分け合い、帰る。
「映画、皆で見に行こうって言ったのに、バッビーノは興味ねぇって断ったんだ。それなのに、マンマ誘ったら烈火の如く怒って…あの時も大変だったなぁ…マンマの作ったクッキー、アップルパイ、コンポート。一緒に作ったよな」
 こくんとラヴィーナは頷く。ぱしゃんと靴が水を跳ねた。雨は止まない。
「もう、居ないのか」
 もう一度ラヴィーナは頷いた。セオはぼんやりと曇天を眺めながら、居ないのか、ともう一度呟き、水たまりを蹴り飛ばした。