Morte manterno - 3/3

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 泣く、と言う行為は感情を吐きだす行為である。
 差し出した傘の向こうに居た兄の目には涙は一つも浮かんで居なかった。ただ、そこに立ちつくし、全てを飲み込み飲み干し、悲しいと言う感情すらも、全て、嚥下したように見えた。腹の底に沈殿し、凝ったものとなっているのではないだろうかとラヴィーナは思う。
 感情表現は豊かな兄であるとも思う。だが、彼は、泣かないのである。喜びに対する表現は強いのだが、反対の感情に対する動作は「本気」であることは少ないとも感じられる。例えば、怒ることは怒るが、激昂とまで怒り狂うことはまずない。それに添えて言うのであれば、不機嫌になるという程度で済まされる気もする。暴力を振るうことはそうそうないし、暴力というよりも冗談程度のそれであるから、やはり不機嫌なのだろう。
 ラヴィーナはセオが本気で怒ったところを本当に片手で数えるほどしか知らない。肌が震えるほどに、恐ろしかったことも覚えている。空気が怒りで振動し、吊り上がった眦と怒り猛ったその背は声をかける事さえも拒まれた。それをすれば、こちらまでもが焼き尽くされるような気がしてならなかった。
 そんなセオだが、彼は、泣かない。泣くことは勿論あるのだが、悲しいや辛いなどの感情で泣いているセオを、ラヴィーナは一度たりとて見たことが無かった。大事にしていた愛犬が死んだ時も泣かなかった。ただそこに佇んで、その生物を見つめるだけであった。
 思えば、葬儀の時も誰一人として泣いた人間はいなかった。父代わりであったXANXUSもまた泣かなかったのをラヴィーナは覚えている。スクアーロもルッスーリアも、レヴィもベルフェゴールもマーモンも。誰一人として泣かなかった。死んだ母代わりであった彼女の、空の棺が納められ、土が掛けられて行く中、嗚咽一つなく、ただその死を傍観している様子は空気を湿らせた。
 泣く機会を失くした。ラヴィーナはそう思う。
 誰も泣かない中で、自分一人が泣いてしまえば、それは何故だかしてはいけないことをしたような気分になる。だから、泣かず咽ばず、母の死を見送った。こんな葬儀を母は想定していたのだろうかと土が完全に掛けられた、少しも見えない棺を眺めながらそう思った。
 ただ、悲しい。
 雨の中一人佇んでいた、あれほど母を恋い慕っていた兄でさえも、涙一つ落とさなかった。雨粒の中に涙が混じっていれば自分も泣けたかもしれない。だが、泣いては居なかった。背中がただ悲しそうに見えた。ずっとそばに居た人が突然消え去った、そのぽっかり空いた穴を客観的に傍観し、ただ、寂しいなぁと思っている風であった。
 泣けば、何かが変わるのだろうか。この胸に凝った物が、溶けて消えるのだろうか。
 ラヴィーナはそう感じる。このまま居れば、自分の心が鬱屈しそうである。だがやはり、誰も泣かないのだから、ここは泣いてはいけないだろうと、部屋のベッドの端に腰かけ、そう思う。人と同じものか怪しい自分が泣いてしまえば、それはやはり、宜しくない。人が泣かないのに、兵器の自分が泣くのは、また、おかしい。
 皆が皆、泣かないことで母の死を悼んでいることは、ラヴィーナにも分かった。だが、それでも、大切であった人の死は悲しい。器から溢れて感情がこぼれてくる。両腕で抱きとめて、それを押さえてはいるが、ともすればこぼれ落ちそうになる。それは恐らく眦から、少ししょっぱい液体となって落ちることだろう。
 だがしかし、泣いては申し訳ない気もするのだ。
 優しい笑顔しか思い出せないからこそ、余計に。笑顔が良く似合うと頭を撫でてくれたから、とても。泣きたい時は泣いても良いと抱きしめてくれた時もあったけれど、もう、泣ける腕はどこにも存在しない。ならば、今現在灰になっている母にできることと言えば、泣かずに悼む、それだけではないだろうかとラヴィーナは考え直す。だが、辛いものは辛い。悲しいものは悲しい。
 今にも、涙は零れ落ちそうである。
 無論、泣いても喚いても、大切な人は決して帰ってこないことはラヴィーナも知っていた。数多の命を奪い取ってきたからこそ分かる。死んだ人間は帰って来ない。単純明快ではあるが、最も理解し難いことである。し難い、と言うよりも、したくない、と言った方が的確であろうか。
 ラヴィーナはベッドに座り、背中を丸め、足を折畳むと、見るからに鬱鬱とした姿勢になった。
 体を丸くする行動は、基本的に防衛本能が働いているからだと人は言う。「何か」から身を守ろうとする姿勢。ならば、自分は一体全体何から身を守るつもりなのか、とラヴィーナは安全この上ない場所に座りながらそう思った。VARIA本部の一室であるここは、余程の者でしか入り込めないであろうし、仮に入りこめたとして、暗殺に長けた人間に殺されるのが落ちである。
 ならばじぶんはいったいなにからみをまもろうというのか。
 同じ問いかけをラヴィーナはもう一度した。だが、答えなど到底見つかるはずもなく、否、答えは出ているのだが、それを認めれば、恐らく堪えている物が溢れてくるのが分かるから、答えから目を背けているだけなのだろう。
 ここは室内で、あの日のように雨も降っておらず、雨の滴だと誤魔化すこともできない。
 丸まり、雨の中無言で佇んでいた兄の背と、葬儀の時に何も言わずに静かに棺を眺めていた皆の姿をラヴィーナは思い出す。どこまでも静かな、死であった。まるで、死さえ感じさせない程の、静かな静かな、死であった。
 こんなにも悲しく寂しく辛いのに、この延々と鬼ごっこを続ける感情をどこに吐露すればよいのか、ラヴィーナにはもう分からない。葬儀の時ならば、セオの大きく静かな背を見た時ならば。だが、それももう叶わない。
 無言のまま、ラヴィーナは微動だにせず、柔らかなベッドに座り続けた。
 だが、その静寂を通信音が妨げる。任務に関する音ではないそれは、ラヴィーナの耳に届いたものの、急ぎではないので、ラヴィーナはゆっくりと顔を上げるにとどめる。見れば、携帯電話が音を立てて震えていた。着信音は人によって分けているので、それが誰なのか、ラヴィーナには即座に分かった。
 ロシアに居る、かの狼。
 電話を取る取らないで暫く迷っていれば、電話は案の定自動的に留守番電話モードに切り替わった。電話から、声が響く。
『今晩は、マリンカ。あなたの可愛い声が聞けなくてとても残念です。お話、
 伺いました、と最後までウラディスラフの声が終わる前に、ラヴィーナは携帯電話の通話ボタンを押した。そして、耳に押し当てる。すると、居たのですねと楽しげな声が跳ねた。その言葉に、ラヴィーナはこくんと頷く。尤もその仕草は電話越しでは確認することは当然不可能ではある。
『葬儀に参加できなかったこと、申し訳なく思います。マリンカ、あなたがさぞや悲しい顔をしているのではないかと、私はとても心配です』
 ウラディスラフの低い声を電話越しに聞きながら、ラヴィーナは静かに首を横に振った。無論、その仕草もウラディスラフに伝わるはずもない。だが、それをすぐ側で見ているかのように、ウラディスラフの答えが返ってくる。
『あなたは、泣いていないでしょう?マリンカ』
 掛けられた言葉にラヴィーナはどういう反応をすればよいのか、ただ、困り果てた。そこにさらに言葉が紡がれる。
『電話越しと言うことが至極残念でなりません。マリンカ、あなたのために私の腕と胸をいくらでも貸して差し上げると言うのに。イタリアとロシアの距離がこれほど恨めしいと思ったのは全く久々です』
 言葉が枯れ果てた地面に、まるで水分のように吸いこまれていく。
『あなたの憎たらしく可愛げの一切ない私の将来の義弟はどうせ配慮の一つもなく、あなたに泣かせる場所も与えてあげていないのでしょう?全く、女心も妹心も分からぬ半人前は仕方のないことです』
 ぶん、とラヴィーナは慌ててウラディスラフの言葉に首を横に振った。そもそも将来の義弟などと、結婚前提に話が当然のように進んでいる辺りが恐ろしい。それに、電話向こうで軽い笑い声が響く。
『マリンカ、どうぞお泣きなさい。もしもあなたが涙を流すことを他の人に対して遠慮しているのであれば、あなたの涙は私が全て食べ尽くしましょう。飲み干しましょう。だから、泣きなさい。そして私にまた会う時は、どうぞ素敵な笑顔で私を迎えて下さい』
 言葉に詰まったラヴィーナにウラディスラフは電話の向こうでさらに続けた。
『可愛い可愛い、私の愛しのマリンカ。母の死に涙を流す事を責める人間など居ません。安心して、泣いて良いのです』
 さぁ、と促され初めて、ラヴィーナは頬に滴が伝ったのに気付いた。
 ただ癖か配慮か、それとも長年のそれなのか、嗚咽だけは一つも漏らさずに、ラヴィーナは電話を片手に涙をこぼした。何故だか、ラヴィーナには、電話の向こうで白に近い銀色の髪をした淡い瞳の狼が、優しげに笑っているような、そんな気がした。

 

 バッビーノ、とセオは林檎ジュースが入ったコップを傾けてXANXUSの前に座った。大きなソファが重い体重を吸って沈む。XANXUSはセオの言葉に目線だけ動かして、その両手に持たれているカップを見た。
「餓鬼が」
「美味しいんだ、これ。どこに売ってたんだろう。マンマ、いつも買ってきてくれてたけど…気付いたらいつもあったから、どこで売ってるか知らないんだ。ところで、これ賞味期限切れてるよ」
「てめぇしか飲まねぇんだ。切れて当然だろうが」
 セオの言葉を乱暴な言い方で押し潰しつつ、XANXUSは手にしていたグラス、テキーラが入っていたそれを音を立てておいた。三分の一程に減っているそれを注ぎ足してくれる人はいない。
 XANXUSは自分でボトルを傾けた。
「バッビーノ、こっちに帰ってくる?マンマが居ないんだし」
「餓鬼の溜まり場に帰る気になるか、ドカス」
「餓鬼って…そんな、バッビーノが年食っ、い゛…っ!!痛い!」
 投げつけられたグラスからテキーラがこぼれ、セオは頭からアルコールを浴びる。避けないのは、避けられないのではなく、体が既に受身の態勢に入っているせいであった。嘆かわしいことこの上ない。
 側に置いてあったタオルを手にとり、セオは濡れた黒髪を拭く。拭いたところで酒の臭いは取れるものではないのだが。
 頭を拭いていた手を止め、セオは静かに、声を落とす。言葉だけは現実を告げる。
「…ここに、マンマはもう居ないよ、バッビーノ」
 お帰りと迎え入れる声は、もう響かない。
 セオの呟きをXANXUSはドカス、と詰った。
「猿でも分かることを繰り返してんじゃねぇ。鮫級の頭の悪さだな、てめぇは」
「バッビーノ。俺、結構真面目に話をしてるんだけど」
「一度鮫にでも食わせたら、ちったぁまともになるのか?糞餓鬼が」
 上手くはぐらかされているような気がしつつ、セオは父親の返答を我慢強く待つ。この家には、もう誰もいない。否、XANXUSが住んではいるが、彼と共に住んでいた自分の母は、もう、居ない。だからこそ、ここに住まう意味はもうないのではないかとセオは考える。
 ここに住み続ければ、嫌でも母を思い出す。良い思い出も悪い思い出も。思い出ばかりに身を浸してしまうのではないかと、セオはそれが少しばかり心配であった。何も母を思い出すのではなく、他の女に目を向けろと言いたいわけではない。ただ、死人のために、この一人では広い家に住むのはどうかとセオは考える。
「餓鬼は黙っててめぇの心配してろ」
「バッビーノ。悲しい?」
「いや」
 珍しく素直にはっきりと暴力一つ無かった返答にセオは少し驚いた。林檎ジュースの甘い香りが、酒に混じる。
「ここに、居ねぇだけだ」
「バッビーノ、マンマは死んでる。ここにも、どこにも―――マンマは、もう居ない」
「だからてめぇは餓鬼なんだ」
「?」
「カス」
 XANXUSの言葉の真意をセオは一切汲み取ることができなかった。母は既に灰になった。灰は、灰である。他の何物でもない。母であった「物」であって、もうあれは母ではない。マンマはもうどこにも居ないのだ、とセオはやはりそれを繰り返し、そして受け止める。何一つの感慨も感傷も持たず。ただ、受け止める。
 分かっていそうにないセオをXANXUSは一瞥すると、他のグラスを一つ引っ張り、グラスに氷を入れるとテキーラを注いで唇に添え、味わう。からんと氷の音がする。
「あいつはもうどこにも居やしねぇよ。居ねぇだけだ。だがそれがどうした」
「だから、もうここに住んでも…大体バッビーノ掃除とかしないでしょ?ご飯だってマンマが作らないと…自分で作らないし」
「ハウスキーパーでも雇えばいいだけの話だ」
「ここを去らないのは、マンマの思い出があるから?」
「くだらねぇ」
 一言で切って捨てた。
 XANXUSはグラスを傾け、そしてセオの銀朱の瞳を見る。それだけで、ただそれだけの仕草で、思い出すことができる。あの灰色の瞳を。穏やかで優しい、自分の、帰る場所を。
「くだらねぇ」
 二度、同じ言葉を繰り返してXANXUSはテキーラを一口飲んだ。
「思い出なんざ物にあるか、くそが」
 全て覚えているのだ。体が、指が、目が、鼻が、手が。彼女の痕跡を全て、鮮明に思い出せる。
 XANXUSはくだらねぇと三度目に吐き捨てた。セオはその言葉を三度耳にして、そう、とやはり不思議そうな顔をした。理解ができないといった風に。理解の範疇を超えている言葉はセオはどう逆立ちをしたところで、分かるはずもなかった。
「マンマは」
「マンママンマうるせぇよ。あいつは死んだ」
「それさっき俺が言った」
「分かってねぇのはてめぇだ、糞餓鬼が」
 言い返されて、セオはXANXUSの言葉を待つ。反論は、言葉を聞いてからでないとできない。分かってる、と言いたい気持ちは十分にあったのだが、セオは黙って父の言葉に耳を傾けた。待つことを教えたのは、言うまでもなく母であった。
 テキーラの中の氷が揺れる。
「帰る場所は、ある」
「マンマの墓?」
「ドカス」
「それともここ?」
「てめぇは一から十まで教えてやんなきゃわからねぇのか」
「多ぶあいた!」
 空になったボトルが投げつけられ、セオは痛みに呻いた。軽く宙を舞ったボトルをしっかりとつかんで落ちないようにはする。
「待ってんだよ」
「バッビーノ、まさか自殺でも」
「するか」
 今度は二つ目のグラスが額に激突した。たっぷりのテキーラを被るはめになる。セオは少しばかり重い溜息を吐いた。
 物分かりの悪い息子に冷たい視線を一度やり、XANXUSはソファに体を預けた。ここで寝ても、風邪を引かぬように布を掛ける人物は居ないのだから、もう転寝はしないが。
「何も、変わらねぇ。何一つ変わらねぇ。あいつは相変わらず俺が帰るのを待ってる」
「待ってる」
「待たせとけ。あいつの気は長ぇ。俺は俺のすることをするだけだ。その時が来たら、あいつを迎えに行く」
 それだけだ、とXANXUSはそこで言葉を止めた。
 その時とは一体いつになるのか、セオには分からなかった。ただ、父であるXANXUSは母の死を悲しんではいないし、同様に自分もまた悲しんでいないことを改めて実感させられつつ、しかし母が居ないと言うことを身にしみて感じた。
「迎えに、」
「糞餓鬼は呼んでねぇ」
「ああ、酷い」
 酷い、バッビーノとセオは小さく笑った。
 母が死んでから、久々に笑うために頬の筋肉を使ったような、そんな気もした。そして何一つ変わらず、明日も同じ日々が繰り返されることを知りつつ、セオはその中に母が居ないことを思う。けれども、そこに置いて、自分がすることは何一つ変わらないことも知る。
「バッビーノ」
「何だ」
「マンマは良く笑ってたね」
「てめぇの馬鹿笑いが止まれば最高だ」
「俺、そんなに笑ってないよ」
「抜かせ。てめぇが良く笑うせいで、
 そして、昔話に花を咲かせた。
 その中では、母は、やはりよく、
「」