Morte manterno - 2/3

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 部屋は薄暗かった。
 家に入る前にインターホンを押せば、いつもであれば、いらっしゃいと迎え入れる声がした。だが、それはもう、無い。どうぞと扉が内側から開かれることも、笑顔で迎え入れられることも、無い。
 スクアーロは返事が無い扉を押し開けた。鍵は掛っておらず、押せば簡単に扉は開いた。不用心にも程があると言いたいところではあるが、この家の主は多少不用心であっても問題無い人間なので、そこを責めるつもりは毛頭なかった。
 入った廊下は薄暗く、夕暮れも過ぎた時刻では、部屋に差し込む明かりは月と星の物でしかない。離れた一室の扉から零れているのは、天井の蛍光灯ではなく机のテーブルライトであることは容易に知れた。白よりではなく、どちらかと言えば温かみを帯びた色である。スクアーロは覚えている。あの明かりの側で、XANXUSが静かに本を読み、そして少し離れたキッチンから名前1が紅茶とクッキーを持ってきていた光景を。XANXUSは持って来られたそれを無言で受け取り、そして食べた。旨いと口にすることはなかったが、皿とカップはいつも空になった。カップを差し出せば、当たり前のように紅茶が注がれた。皿を差し出してもクッキーが追加されることはなかったが。
 もう、その光景は、見られない。
 そうなのだとスクアーロは思いつつ、革靴で床を踏みつつ先を歩く。人の生活の痕跡が残っている。それは決して一人ではない。セオにボスの座を譲ってから、XANXUSと名前1は一軒家で暮らし始めた。それは本部における暮らしと大差はなかったが、確実に二人だけの空間であった。セオとラヴィーナは本部に割り当てられていた自室を使い生活をしている。尤も、そんな二人も飯時には本部に近いここに来てご飯を食べて行くのが習慣であった。だから、だからこの家には大きめのダイニングテーブルと、四つの椅子がある。
 壁には名前1が撮った写真が飾ってる。大抵撮影したのが名前1だったので、彼女が映っている写真は少ない。XANXUS、セオ、ラヴィーナ、ルッスーリア、レヴィ、ベル、マーモン、修矢に日本の奴ら、それから、かなり昔の写真ではあったが、ハウプトマン兄弟もそこに、居た。随分と若い頃から、白髪が見え始めた写真もある(ルッスーリアは丁寧に髪を染めていたのでそれは見当たらないが)成長と老いの過程がそこに並べられている。写真に写るXANXUSはどれも不機嫌そうにしていたが、写真を撮られないようにしようとしているものは一枚も無く、大人しく取られていた。自分たちがカメラを向ければ、カメラを破壊されたことは間違いないだろう。
 明るい笑い声が、写真から聞こえるようだった。
 これを撮影した女は、もう、居ない。ないない、と先程から、いないことを実感させられている。それ程に、彼女は日常であるXANXUSの近くに居た。そしてXANXUS自身もそれを許していた。あのXANXUSの帰るべき場所として。あの男の帰る場所として、女は誇りを持っていた。そして妻であった。そんな彼女は、もう。
「いねぇのか…」
 そうなのだ、とスクアーロは壁に義手をつける。写真に指先が触れた。XANXUSとセオと、それからラヴィーナと名前1が映った一枚。隣には、オルガとセオ、それからウラディスラフとラヴィーナの写真も一枚ずつある。
 恋人ができたと報告したセオと、それを何のこともなしに無言で受け入れたXANXUSと、一瞬驚いて、おめでとうございますと祝いの言葉を贈った名前1。晩飯に同席していた自分もその報告にはひどく驚かされたものだった。あの小さかったセオが、と思えば思う程に。ラーダは何か知っていた様子でこくこくと顔を上下していた。
 ラヴィーナがウラディスラフを連れてきた(というよりも付いてきたというべきか)時のXANXUSの額に浮かんだ青筋の数と言ったらない。あの凶悪な顔を笑顔で流したロシア人を末恐ろしいと苦笑した。そして、名前1はそんな言葉すらも凍りつく空間に、ボルシチを持ってきた。ウラディスラフときたら、「マリンカの母上は生粋のロシア人よりもボルシチが美味しい」などと嘘臭い笑顔で褒め称えていた。それに名前1ときたら「まだ義母と呼ばれる間柄ではないですけれど」と笑顔で返して、空気を凍らせた。あの時のXANXUSのしてやったりの顔ときたらない。ウラディスラフはそれに「近い未来に」と更なる笑顔で返していたが。
 四人家族。
 スクアーロは明かりの零れる部屋の扉を押し開けた。酒の臭いは一切せず、ただ、椅子には白の混じった髪と、皺が刻まれた顔をした男が静かに、空気一つ動かさぬ状態で座っていた。その男にスクアーロは声をかける。今までもこれからも、従い続ける主を呼ぶ。
「ボス」
 VARIAのボスではないが、この男は常に永遠に自分のボスである。スクアーロは微動だにせぬ男の反応を待った。赤い瞳が動く。食糧は取っていた様子で、キッチンの流しには洗われた皿とコップが一つずつ、丁寧に置かれていた。二つ、では、ない。
 時が止まっていた男が口を開いた。
「何の用だ」
「…いや、特にってわけじゃねぇが…あいつがいなくなっても生活できてんのかと」
「くだらねぇ。十にも満たねぇ餓鬼じゃねぇんだ。自分の世話くらい自分でできる」
 カスが、と最後に付け加え、XANXUSは赤い瞳でスクアーロを見た。その瞳の鋭さと輝きだけは濁ることが無い。蟄居しても、この男は相変わらず最強であり続けたし、今でも誇り高い名誉ある男である。
 だからこそ、仕え続けている。この、唯一人の、自分の主に。
「居ねぇんだな」
 呟いたスクアーロの言葉をXANXUSは鼻で笑い飛ばす。
「死人が居たら、それこそ笑い話だぜ」
「ああ、そうだなぁ…笑い話だ」
 そう言って、スクアーロは持ってきていたワインを持ち上げて見せた。上物の一品。
 この男も人である。スクアーロはそれを誰よりも何よりも、恐らくは、彼の妻であった名前1よりも、良く知っている。だからこそ、この男が胸に溜め込んでいる事にも当然気付いていた。彼のプライドは、それを吐きだすことを許さない。
 飲むか、とスクアーロが差し出したワインの瓶の中の液体が揺れる。しかしXANXUSは眉間に軽く皺を寄せ、その誘いを一言で断った。
「いらねぇ」
「上物だぜぇ?」
「いらねぇっつってんだろうが、ドカスが。てめぇの耳は飾りか」
 それならば仕方が無いとばかりに、ボトルは少し離れたダイニングに置かれた。ごとん、と音がする。
「大丈夫か」
 スクアーロは、ただ、そう聞いた。それにXANXUSは笑う。少しだけ、喉を震わせるような笑いであった。葬式の場で、スクアーロはXANXUSが泣いていないのを知っていた。おそらく、あの場にいた全員がそれを知っているだろう。悲しみに嗚咽を漏らすこともなければ、目尻に涙一つ浮かべることをせず、ただ、立っていた。佇み、彼女の死を見ていた。
 一般的に、イタリアでは死体は土葬されるが、XANXUSは名前1の遺体を火葬した。そして、その遺骨を日本の彼女の実家、正しくは、彼女の義弟の元へと送った。修矢は一言、「笑って逝ったのか」と聞いた。それにXANXUSは電話越しに「ああ」と言って、それで電話は切られた。短い、電話であった。
 墓自体は、全てが始まった彼女の母の墓の隣に作られた。墓の下には何もないのだが、ただ、墓には彼女の名が刻まれた。
 墓の前で、XANXUSは佇んでいた。名前だけが刻まれた墓石の前で、何も言わず、表情一つ崩さず、涙一つ落とさず、空っぽの棺に土が掛けられて行く様子を眺めていた。嫌味なくらいに、空は晴れ上がっていた。
 何も言わず語らず落とさず、妻の死を見ていた男の背中は、スクアーロは泣いているように見えた。
 二度と会えぬ、妻の死に。
 馬鹿野郎と、何故置いて逝ったと、罵りたそうに見えた。喉を嗄らす程に叫び倒し、彼女の死を否定したい、ようにも、見えた。しかし男はそれをしなかった。したくなかったのか、するつもりが最初からなかったのか、スクアーロはそこまでXANXUSの気持ちを推し量ることはできなかった。
 思考を巡らせていると、そこに静かに言葉が落ちる。低い、声であった。
「待っていると、言った」
「…ボス」
「あいつは、俺を待っていると、言っていた。先に逝くと、言った。すぐには来るなと、言った」
 紡がれる言葉は、酷く重たい。
 スクアーロは目を細めて、その言葉を聞いた。年を重ねた耳でも、聴力はまだ衰えていない。
「あいつが待っている。俺は死なねぇ。死から俺の元に訪れるその時まで。自殺なんざ下らねぇ。自分から生きるのを止めるのは弱ぇ奴のすることだ。俺がどれだけ生きようと、あいつは待っている。俺が来るのを待っている。死後の世界なんざ信じちゃいねぇ。だが、あいつは」
 あいつは、とXANXUSは視線を上げた。明かりの灯されていない天井を見た。
「俺を、待っている」
 大空属性の、それはVARIAリングではないが、指輪が嵌められた指が机を叩く。
「俺のすることは何一つ変わっちゃいねぇ。牙として爪として、ボンゴレを最強で在り続けさせるだけだ。何一つ、変わらねぇ。帰る場所が無くなっただけだ」
「…疲れねぇかぁ」
「生きるために必要であったかどうかと訊かれりゃ、答えはNOだ。無くても良いが、在ったら」
 赤い瞳が、皺の中で細められる。机を叩いていた指が止まる。そこから先は、言葉にされることはなかった。
 XANXUSが何を言いかけたのか、スクアーロはどこともなしに、分かっていた。分かってしまった。そう、結局何一つ変わらない。繋いでいた手が解かれただけ。遠くに逝ってしまっただけ。その程度の事で、このXANXUSという男は変わらない。
 そして、名前1もそれをよく知っていた。そんな男を愛していた。愛して愛されて、それでもこの男の最も大事なものが何であるか、知っていた。だからこそ彼女はXANXUSの帰る場所で在り続けた。
 スクアーロは置いていたワインを手にとって、コルクを抜く。そしてグラスに注いだ。赤ワインが弧を描くグラスに注がれる。指先の温度を伝わらせないように、グラスの細い部分を持ち、それを固い机の上に置く。赤い瞳よりは、紫がかった赤ワイン。
 自分のためにも、もう一つグラスを取り、スクアーロはワインを注ぐ。睨みつけてくる視線を感じながら、軽くグラスを持ち上げた。
「付き合え、ボス」
「ドカスが」
 XANXUSは一つ、息を吐いてそのグラスを唇につけて傾けた。そして、一言、不味いと文句を言った。

 

 お帰り、と久々に耳にした言葉にセオは頷く。雨に打たれた体は冷え切っていた。
「お帰り、セオ」
「ただいま、オルガ」
 ラヴィーナはオルガの店先で、そのまま本部へと帰った。
 勧められて、シャワーを浴び、冷たかった体を温めてから濡れてしまった服を着替える。風呂から上がれば、オルガは温かなホットミルクをセオに差し出した。料理は未だに苦手なのか、少し、焦げたミルクの匂いがしたが、セオは少し笑って、Grazieと礼を述べてから、それを口にした。甘い。蜂蜜が入っている。美味しい、とセオは思った。最後まで飲み干して、テーブルにカップを戻す。
 オルガはセオの隣に腰を落ち着けた。小柄、ではないのだが、セオが大きなせいで小柄に見えるオルガはセオの頭を軽く引っ張って、その肩にセオの頭を預けさせた。乾かしていない黒髪が、焦げ茶の髪に触れる。
「泣いて、良いよ。泣いきたければ、泣いて良いんだよ」
 ああ優しい人だとセオは感じる。そして心地良いと同時に思う。だが、涙は出ないのである。
「大丈夫だ」
「…そう言う風には、見えないけど」
「泣きそうな顔をしてたか?」
「少なくとも、私はマンマが死んだ時は、泣いた。バッボの胸で大泣きした。声が嗄れるまで、泣いたから」
 セオの問い掛けに、オルガはそう答えた。だが、やはりセオはオルガの服を濡らさなかった。濡らせなかった、ではなく、濡らさなかった。濡らす必要が無かったというのが一番正しいのかもしれない。
 肩口に額を当て、セオは静かに銀朱の瞳を細めていた。
「冷酷非情な化物だからか」
 泣きはしないが弱ってはいるのか、とセオは言葉を吐きだした直後に自覚した。
「冷徹無慈悲な怪物だからか」
「セオ」
 止めようとしたオルガの声を無視して、セオはさらに言葉を紡ぐ。自分でどこか落ち着く場所を探すかのように、言葉を紡ぎ続ける。自虐的な言葉が、空気を響かせた。
「だから、母親の死にも、涙が出ないのか。いや、きっとバッビーノが死んでもラヴィーナが死んでも、オルガ、お前が死んでも、俺は泣かない。いや、泣けない?違うな。涙腺が死滅してるのか」
「泣いたじゃない。私がセオの告白OKした時」
「あれは嬉し涙だ。悲しい涙じゃない」
「…やめて、セオ。そんなに自分を追い込まないで」
 ぎゅぅと頭を抱える腕に力が込められる。オルガの腕を感じながら、セオは銀朱を細めたまま微動だにせず、思考を回転させていた。死、というものを、オルガの言葉の意味を考えていた。冷たい思考の中で、氷が跳ねる。
 不思議と何も思っていなかった。追い込んでなど、いなかった。
「追い込んでない、オルガ。悲しいけれど、泣きたいとは思わない。俺の中で、マンマは」
 マンマは、と言いかけ、母の姿を思い浮かべた。綺麗に、笑っていた。
「笑ってる」
 だから悲しくないのか、とセオは考える。それもまた違う様な気がした。ただ、オルガは心配している様子なので、それは言わないほうがよいのだろうか、とセオは少し黙る。だがしかし、オルガはそれすら見抜いたのか、セオと責めるような声を上げた。騙し通せはしない。そもそも、自分は人を騙すのを得手としない。
 セオは、考える。自分もオルガも納得するだけの答えを。
「本当は、泣くべきなんだろうな。涙と嗚咽を零し、母の死を嘆く。きっと、それが普通なんだろう。俺は、きっとどこか」
「壊れてない。セオは、何も壊れてない。泣かないといけないなんて、誰が決めたの」
「泣けって言ったのオルガだ」
「泣きたければって言ったでしょ」
「それもそうだ」
 お互いの顔を見ずに会話が進行していく。
「居ないのか。マンマは」
「居ないよ、セオ。どれだけ恋しく思っても、懐かしく思っても、呼んでも叫んでも、居ないんだよ」
「そうか、居ないのか。やっぱり、居ないのか」
 死を目にしていないから、どこか母の死を遠くに感じる。父の家に行って扉を叩けば、笑顔で迎え入れてくれるような気がする。今から家に行って、それを確認すれば死を実感して泣けるのかとセオは考えたが、やはり涙は出まいと思った。悲しいのだが、辛いのだが苦しいのだが、涙は一滴たりとも零れ落ちない。
 一滴も。
 母に関連する出来事が、今後は一切更新されることはない。そこで、止まってしまった。いってらっしゃいとアップルパイをおやつに包んでくれたマンマが最後である。それ以降は、もう、変わらない。年もとらない、永遠に、そのまま。昔に遡ることはできるが、これ以上のマンマとの思い出は作られることが無い。
 セオは目を閉じた。瞼の裏に、想像すれば、幾つもの懐かしい思い出が蘇る。いくらでも、いくらでも。
「さみしい」
「うん」
 うん、とオルガはセオを抱きしめた。セオは大きな両腕でオルガを包み込む。体は、温かい。
「ああ、さみしい、な」
「うん。うん」
 胸にぽっかりと穴が空いたような、そんな虚無感を味わう。側に在る体が温かいからこそ、余計にその記憶の更新停止が冷たく思える。オルガの声が届き、セオはそれを受け入れた。
 涙はやはり落ちなかった。悲しいが、涙は出ないのである。自分の悲しみの涙は唯一人の少年のためだけに流される。
 ロニー。
 呟いた声は小さすぎて、オルガの耳には届かなかった。
「マンマ」
 いとしいあなたは、もういない。
 まるで、言葉は涙のようであった。呟くたびに一つ一つ、涙の代わりに悲しみを零していく。もう触れられない記憶だけの存在のために、一つずつの悲しみを込めて。
 バッビーノもこんな気持ちなんだろう、とセオは思った。
「オルガ」
「何?」
「オルガが死んでも、俺は泣かない」
「知ってる」
「オルガを殺しても、俺は泣かない」
「知ってる。でも、私はセオが死んだら泣く。殺されたら大泣きする。泣いて泣いて、涙が枯れ果てるまで泣くよ。涙は私の体の水分全部使っても、きっとまた溢れだす。だから、セオを思い出して、笑うことも懐かしいと喜ぶこともあるけれど、セオが居ないことを、私は泣く。何度でも何回でも」
「泣くのか。困るな」
「天国で、困った顔しててよ」
「死後の世界は生憎信じてない。仮に存在するとしても、俺は間違いなく地獄行きだな」
「そう言う時は、素直に分かったって言っておけば良いの」
「そんなものか」
「そんなもの」
「そうか。分かった」
 体の力をすっと抜いて、セオはオルガの肩で息を吐いた。
「少し、疲れた」
「うん」
「Addio(さようなら)」
 マンマ、と呟いた声にオルガはその大きな、しかしマンマと呟いたその子供の背中を優しく撫でた。彼の、母のように。