幸せである、とセオは思った。
目の前にある笑顔。溢れる花の香り。柔らかな声、口調。ドンに言わせれば、客相手に乱暴な言葉づかいをする人間はいないのだそうだが、そんなことは些細な問題である。ようは彼女の声が聞ければ、セオはそれだけでもう十分に幸せであった。今一番人気の花は、とくるんと可愛らしいカーブを描いたこげ茶の髪が目の前で揺らされながら、女性のラインを持った体が曲げられる。なめらかな女性特有のその曲線を上から眺めながら、セオはほっと口元を緩めた。
彼女をその視界でとらえるだけで幸せである。彼女の声を聞けるだけで幸せである。彼女と目が合うだけで幸せである。彼女と何気ない挨拶を交わせるだけで幸せである。彼女の社交辞令を耳にするだけで幸せである。彼女の隣に、ただ立てるだけで、幸せである。
自分は存外安い人間かもしれないと思いつつも、セオはそれでも構わないと思っている。いつかやがては手に入れる。手にする。その手を自分の手で包み込む。道のりはまだまだ長く遠い気もしないではないが、それはそれで楽しいのではないかとセオは考えた。ドンやエドモンドはじれったいとそれを称するが、人には人それぞれの歩幅があるだろうし、自分のペースはきっと他の人よりも倍くらい遅いのだろうから、やはりそれで構わない。
セオは薔薇の花束を女から受け取って、Grazieと笑った。それに女はGrazie milleと笑い返し軽く手を振った。いい加減に顔も覚えてもらっているのだろうとセオはほぼ連日、頃合いを見ては一日置きくらいにこの花屋に来ているという事実を振りかえった。
「シニョーレは本当に花がお好きなんですね」
「あー…」
それにセオは言葉を濁す。
いい加減に花を持ちかえりすぎて、家を花屋敷にするつもりかと父親に頭を強烈に殴られたのは記憶に新しい。母は自分が持って帰った花を困ったように見つめて、浴槽に花を浮かべたり、ポプリにしたり、はたまたエディブルフラワーにしてみたり、しおりにしてみたり、染料にしてみたりと色々手を尽くしてくれているようだが、そろそろ万策尽きたと言った顔をこの間された。ラヴィーナは渡した花を部屋に飾ってくれているようだが、もうそれも難しくなっているようである。
ええ、と一拍の逡巡の後にセオはにこと軽く頬を引き攣らせて女の質問を肯定した。花は嫌いではない。腹に詰め込みたい程に大好きである、と言う程好きではないにせよ、程々には好きである。嘘は言っていない。ドンに言わせればそんなのはただの言い訳である。
「花を好きな方に連れて帰ってもらって、皆、本当に幸せです」
俺は貴女に会えて幸せです、とセオは言おうとしたが、どうにも気恥しくて見事に省略をする。これで区切るところが、『花を好きな方に、』ではなく『花を、好きな方に』であったら何と嬉しいことだろうとも思ったが。
「俺も、幸せです」
ああ笑ってくれたとセオは目の前でほころんだその女の顔に思わず目を細める。胸のあたりがドキドキとして温かくてほっこりと柔らかく、そしてほんのちょっぴり恥ずかしい。
この笑顔が見られるなら、毎日と言わず毎時ここを訪れても構わないのにと、一つ間違えれば常連客を通り越してストーカー認定されそうなことを考えながら、セオは腕の中の薔薇の花束を抱え直した。黒いコートに黒い帽子に黒い革靴に黒いネクタイに黒い髪の毛そしてその中で白いシャツ。会食の帰りだったための格好だが、悩むことのない服装であるのでセオはその服装が嫌いではなかった。多少相手に威圧感を与えるかもしれないが、目の前の女は笑ってくれている。嬉しいことだとやはりセオは本日何度目になるか分からない喜びの言葉を胸に置いた。
「赤、お好きなんですか?」
「え?ああ、え?」
「よく、赤色の花を買っていかれてるものですから」
それを言われて、セオは手元の赤いバラを見下ろす。そう言われれば、確かに買っていく花の半分は赤い花を選んでいるかもしれない。きっとそれは父親の目の色が好きだからなのだろうかとセオはそんな風に思った。母が常時付けている結婚指輪。その結婚指輪にも名前は知らないが赤い宝石が一つはめられている。婚約指輪がきらびやかなのは珍しくもないが、結婚指輪に宝石がついているのはそれなりに珍しい。赤、はやはり父親の色だからなのだろうかと考えつつ、まぁとセオはもう一度頷いた。
セオの答えに女は、やっぱりと嬉しげに胸の前で手を叩いた。可愛い仕草だとセオはそれを目の当たりにして、すぐに思った。微笑んだその表情も思わずキスをしてしまいたい程に愛らしい。だが、それをするだけの関係ではないし、未だに客と店員という間柄なので(その上名前一つ聞けていない)お預けである。
かれこれ、もうどれくらいになるだろうかとセオは軽く女には聞こえない程度に溜息をつく。ひのふのと数えて行けば、もう随分と経ったことに気付いた。もう、三年。ちなみにもうすぐ四年である。三年以上店に通っているというのに名前一つ知らない。それなりに会話ができる間柄になったのは大した進歩であるとセオは自負している。
遠くない未来に名前を聞いて、告白をして、と色々と考えるものの、未だ踏ん切りがつかない。この状況に甘んじていたくはないが、まだ、もう少し、このささやかで小さな幸せをかみしめていたい。本当は、その自分よりも随分と細い体を抱きしめて、愛の言葉をささやきたいところだが――――男の欲求は我慢しておくことにする。三年、否、四年近く我慢してきたのだから我慢できないはずも間違いなく、絶対、おそらく、きっと、多分、できるならば、可能であれば、ひょっとしたら無理かもしれないけれど、できるはず、で、ある。多分。
笑顔の奥でそんな思考をぐるぐると回しているセオに女はさらに話を続ける。今日の客は少ない。
「赤いバラも、チューリップもアネモネも、スイトピーもダリアも。毎年毎年。特に薔薇は愛する女性にあげる花ですから、それを受け取るシニョーラは本当に幸せな方ですね」
「…え?」
何か大きな誤解を受けていそうな発言に、セオはひくと頬を引き攣らせる。
「あ、あの、俺は…その、独身、ですけど」
「…え?」
「独身、です」
「…申し訳ありません。素敵な方でしたから、てっきり」
素敵、と言う単語にセオはかぁと耳まで赤くなった。社交辞令、と言う単語がずばんと抜けてしまっているのだが、そんなことはセオにとってさほどの問題にもならなかった。
だがその赤い頬が瞬時に白く戻る。すとんと意識が最下層まで落ちて行き、腕に抱えた薔薇を乱暴に女の体に押し付けた。視界に止まった黒い車。窓からのぞく自分と同じような格好の肩幅の広い男、手に持たれている黒光りの拳銃。条件反射、そう表現するのが最も適当な動作でセオは背中を向けていた状態から体を反転させて、そして任務の時は太腿のホルダーに、普段であれば腕のホルダーに納めている自身の拳銃のグリップを素早い仕草で握りしめた。
女が銃弾の嵐に遭わぬように、女の体を薔薇を抱きしめさせたまま地面に腕力だけで無理矢理押し倒した。強すぎる負荷が掛けられて、女は膝から折れて、その場に尻餅をついた。そして、女が聞いたのは。
銃口が標準を定めている一瞬、セオはその前に自身の銃口を相手の眉間に定めた。任務ではない。けれども自分を殺そうと牙をむくならば、こちらも相手を殺しにかかる。命を奪うための武器の引き金にセオは軽く力を込めた。ぱん、と反動が腕に伝わり、銃口の先に居た男の額に一瞬で薔薇の花が咲いた。真赤な、血でできた薔薇の花。そして今度は反対側のドアから出てきた男の拳銃に狙いを定め、先程と同じ仕草で銃声を弾けさせる。それに連続してもう一発合わせれば、男も同様に黒の中に赤い花を咲かせた。花、などと言える程美しくもなければ可憐でもない光景ではある。ただの血生臭い、命の取り合いの結果の殺伐とした非生産的な行動の一環に過ぎない。
すいとセオは視線を上げて、上から狙うライフルを見た。立っていた場所から軸足を中心として体を左に半回転させれば、相手の引き金が引かれて飛び出た銃弾は石畳にめり込むだけの結果となった。高い位置から狙っていた男に手に持っていた銃を向けることはしない。もう片方のホルダーに入っていた銃を相手が再度標準を直す間にとりだし、遠い位置からのために正確さを求められる仕事をこなす男よりもずっと早く、特殊弾が入っているその銃を向けて、標準などほとんど関係ない弾を打ち出した。光の球、拳大の塊が遠くにあった男の頭部を焼失させた。統率を失った体は上から重力に従って、そして、落ちた。石畳の上に。ぐしゃんと醜い音が響き、骨が折れた音が響く。本来であれば醜くはじける頭部は、既にもうなかった。首のない死体は、落下した衝撃でだらしなくそこに広がっている。どろりと打ち所が悪かったのかどこか裂けたのか骨折したのか、石畳の隙間を赤い液体がとろけた。
三人殺して、しかしセオにとっては日常であるので銃を元に戻した。もう殺気は一切感じられない。死体の片づけならば、警察が勝手にやってくれる。こちらがわざわざ片付けることもなく、彼らは自分たちを敵に回すことを恐れるが故に、取り立てて調べることもなければ犯人逮捕に躍起になることもなく、死体安置所に運ばれて燃やされ消えてしまう。単純明快。そう悩むこともない。
そしてセオは倒れている女に目を向けた。怪我はなかっただろうかと、そんな風に当たり前のようにセオは思った。それは、「セオにとっては」至極当然の行動であり、普通の、なんら問題性の感じられない行動であった。
「大丈夫ですか、シニョーラ」
「―――っひ、ぃっ!」
差し出した手に痛みが走った。叩かれたのだ、とセオはその事実を認識するまでに少しばかりの時間を要した。そして、酷く怯えきった女の表情を目にする。胸に痛みが走る。ずくんと、体が重くなる。先程まで笑顔だった女の顔には、恐怖と軽蔑と化物を見るような、そして関係を嫌う色が、はっきりと顕わに示されていた。
ああ、とセオは差し出した手をひっこめた。そしてそうだったと思いだす。
彼女は、普通の人であった、と。
反転する際に落ちてしまった帽子を拾い上げて、それを頭にかぶせる。少し目深に。そんなに怯えなくても襲ったりすることはないのに、とセオは思う。しかしそんなことをいくら誠心誠意説いたところで、怯えた彼女に伝わるはずもない。今目の前で、自分は人を三人も撃ち殺した男なのである。何の躊躇いもなく、当然のように人の命を奪い去った。自分にとって当然であるそれは、彼女にとっては当然でもなんでもなかった。暴挙の限り、人権をどこまでの侵害した行為に他ならない。
胸が痛い、とセオは帽子の影の下で目を細める。怯えないでと、口元をゆるりと持ち上げた。いつものように笑顔を見せれば彼女は微笑み返してくれるだろうかと、そんな泡のような期待を抱きながら、セオはす、と顔を持ち上げた。困ったような泣きそうな笑みがそこに置かれる。
「―――また、伺います。すみません。貴女を傷つけるつもりなどなかった、本当に」
失礼します、と頭を軽く下げる。今、彼女がどんな顔をしているのかセオには分からなかった。できれば見たくなかったのかもしれない。かつんと黒い革靴が音を立てた。そしてセオは女が抱えていた薔薇を両手でそっと取るとそれを胸に抱えて、女に背を向け、そしてその場を歩き去った。
石畳の溝をずるずると流れた赤い水が、人の死を告げていた。
誰もよりついては来なかった。関わりたくないと言うのが本音なのだろう。だがオルガは動けなかった。一ミリたりとして、動くことができなかった。未だ転がっている死体は、やはり死体であって、先程のあれが劇でないことを示していた。そこにオルガ!と低い焦った声が届く。
「バッボ」
「オルガ!どうしたんだ!これは、一体」
「バッボ」
バッボ、とオルガはそのまま駆けつけた父の胸にすがりついた。恐ろしかった。ただ純粋な恐怖に襲われていた。あの優しい瞳が一瞬でまるで氷を思わせる冷たさを纏い、花を美しく好きだと言ったその口で死を吐き出した。戦慄した。あの笑顔が人を殺す顔になった。そして人が死んだ。
うわあ、とオルガは父親の胸で泣き叫んだ。怖くて怖くて怖くて、たまらなかった。
泣き叫ぶ娘を腕に抱えて、父親はその背を優しくさする。そして、この土地の人間であれば皆知っている言葉を紡いだ。彼らに関わってはいけない。何も見てはいけない。何も聞いてはいけない。何も言ってはいけない。何を探ろうとしてもいけない。転がされた死はそこには『存在しない』。
「オルガ。何も、見なかったんだ。お前は、何も見ていない」
見ていないんだ、とバルトロメイは大切な一人娘をしっかりと抱きしめた。それを見てしまった彼女の命がまだあったことを、心の底から喜びつつ。
ああ、とセオは一つ息をついて手の平に納めてあるウイスキーグラスを揺らした。そうすることで、大きな塊の綺麗な透き通った氷がかちんと重なって音を立てた。ウイスキー、アルコールの中に緩やかな流れを作りながらその氷は音もなく、否ぶつぷつと小さな、耳では到底とらえきれない音を奏でながら溶けて行っている。
怖がらせたか、とセオは当然のことを思った。怯えた顔が瞼に焼き付いて離れない。殺しに来た人間を殺すのは至極当然のことであり、それは日常であり、かつ自分を守るための術でもあった。だがそれは彼女にとっては当然でもなんでもない。そして、彼らにとって自分たち名誉ある男は、彼らの言葉で言うならば、マフィア、は死と恐怖を運んで来る暴力的な集団にすぎない。確かにマフィアによる恩恵を受けている者もいることだろう。
ここイタリアにおいては、マフィアに金を払った方が身の安全が図れる、というのは既に暗黙の了解となっている。しかしそれでも、それでも彼らにとって自分たちは脅威にすぎない。権力構造がまず違うのである。警察よりも自分たちの方が力が強い。それがボンゴレファミリーとなればなおさらである。
市民の安全を守る。弱きを救い強きを挫く。
それこそがボンゴレファミリーである。最強の名を冠する、ファミリー。だが、しかしどんなに高潔な言葉を身に纏おうとも、結局のところやっていることは大差がないのも事実である。ファミリーが大きければ大きい程、その敵も必然的に多くなる。そうなれば、どうなるか。自分たちはその敵を排除するために存在する。綺麗事を口にしたところで、それは、何も知らない者にとっては変わらぬ事実なのであろう。人を殺す、それは動かされない事実である。自分たちが如何なる志を持って行動したところで、人殺しは人殺しに他ならない。そうやって、糾弾されることは重々覚悟の上であるし、自分たちの誇りがそれで汚されることは、ない。
しかし。
「―――――…効いた」
ぼそりとセオは手の甲に額を乗せ、呻くようにそう呟いた。
本当に、効いた。これが傷つくと言うことなのだろうとセオは思った。外傷を負ったわけでもないのに、胸のあたりがずきずきと痛み、痛みが心を締め付ける。今まで向けられていた笑顔が瞬時に強張ったものへと変化し、自分を見る瞳の色が変わってしまった。明らかな蔑みの色を持ったそれを思い出せば、思いだすだけで苦しい。苦しくて苦しくて、仕方がない。
まだ飲めるだろうかとセオは隣に置いてあったボトルに手をかけた。だが、それはごつりとした手によって奪い取られる。
「あ」
取りあげられたボトルはそのまま、ラッパ飲みをされ、最後の一滴まで飲みつくされた。セオは突然現れたその人とその行動に目を見張った。黒い髪と赤い瞳が美しい、自分の父。
「バッビーノ」
「やけ酒なんざするんじゃねぇ」
スクアーロが居れば、てめぇがそれを言うな!と怒鳴りそうだが、幸か不幸かスクアーロはこの場にはいない。XANXUSは飲みほしたボトルを元あった場所に置いて、セオが座っていたソファの向かいの長いソファに腰を落とし、その足を眼前の机の上に放り投げた。行儀が悪い、とセオはぼそりと呟いたが、睨まれたので少し委縮して、冗談だよと同じようにぼそりと返す。
流石に飲み過ぎたのか、XANXUSは軽く眉間に皺を寄せていた。黙ったままの父親に、セオはバッビーノと言葉を紡ぐ。
「大切な人が、できたんだ」
返事はなく、セオはそのまま話を続ける。
「でも、目の前で人を殺して怯えられた。笑っていた顔が、一瞬で軽蔑の顔になった。バッビーノ、マンマは普通の人だったんでしょう?バッビーノは怖がられなかった?」
XANXUSは我が子の言葉を耳に流しながら、それに応えるべく、ゆっくりと口を動かした。
「一度」
どこか遠くを見るような眼でXANXUSは話を続けた。
「一度、怖がられた。腹が立った。どうして俺の気持ちが伝わらねぇのか、分からなかった。俺を拒絶したあいつが、心底憎らしかった。殺してやりたかった。目に物見せてやりたかった」
どうにも愛する女に対して紡ぐ言葉とは思えないほどに乱暴な言葉を羅列していくXANXUSにセオは失笑する。流石と言うべきか、よくぞまぁマンマもこのバッビーノと添う覚悟をしたものだと、今思えば本当に驚きでしかない。
酒が入っているせいかどうなのか、XANXUSは珍しく饒舌になっている。
「――――初めては、拒絶されたな」
脈絡のない言葉にセオはぱちんと瞬いた。それは恐らく、賠償結婚のことを指しているであろうことは理解できたのだが、今一先程の話と今の台詞が繋がっていないように感じる。
「何?バッビーノは、マンマに怖がられたから犯したの?」
「違う。怖がって始終びくびくしてる女なんざ欲しくもねぇ。ただ、」
「ただ?」
「――――俺が、怖かった」
自分の父でも怖いことがあるのかとセオは驚いた。最強と名高い父だからこそ、怖いものなど何もないと思っていたのだから、余計にそのギャップは激しい。
「あいつに合わせた歩幅で歩いていたからだと、思った」
「でも、俺は無理矢理は嫌だ。そんなことをして、傷つけたくない」
セオの言葉にXANXUSは、は、と笑った。カス、とぼやいてセオが持っていたグラスを奪い取ると、無理矢理逆さまにして頭にぶちまけた。ぼたぼたとアルコールの臭いが頭から降ってくる。冷たい滴が頬を伝って、セオは父親に困ったような、どうしてこうなったのかさっぱり分からないと言ったような目を向けた。しかし、父親は口元を楽しげに歪めているだけだった。
「くだらねぇ。糞餓鬼が。テメェみたいなカスは考えるより行動した方が早ぇだろうが」
「怖がられてるのに」
「だからどうした」
「だから、怖がって欲しくないから」
「諦めるのか?」
「それは、ない、よ」
ふんと笑われて、セオは唇を少しばかりとがらせて反論した。
「諦めたくない。あの人が、いい。あの人でないと嫌だ」
「ドカスが」
「…バッビーノ。俺、さっきから少しずつ傷ついてるんだけど」
落ち込んでいるところへの暴言の連発にセオは眦を下げる。それにXANXUSはもう一度カスが、とセオを詰った。
「尻ごみなんざしてんじゃねぇ。欲しいなら奪い取れ」
「奪い取ったら、壊れないかな。怖い。少し、それが」
そうぼやいて、セオは自分の手へと目を下ろす。大きな手についているものは皮膚であり指紋であり皺である。彼女が恐れている硝煙や血の臭いは付いていない。だが、それは目に見えずとも意味はないのであろう。彼女は、やはりそれを恐れる。自分に染み込んでいる、もはやこびりついて取れないその臭いを。
溜息をついたセオの頭に思いっきり強い拳骨が叩きこまれた。
「い…っ!た、ぁ…バッビーノ!ばかすか殴らないでよ!俺、馬鹿になる!」
「とうにカスだろうが。ざけんじゃねぇ」
XANXUSは落ち着けていた腰を持ち上げて、くるりと踵を返す。今ではもう自分の方が大きくて背も高いのだが、やはりその背中はセオにとってはとても大きなものだった。
父親の足が止まって、言葉を落とす。
「力加減は、しておけ」
「力加減って」
「自分で考えろ、ドカスが」
ああ酷いとセオは思いつつ、セオは部屋にまた一人になった。そして空になったボトルへと目をやる。そして、慰めてくれたのだろうかと思いつつ、明日会いに行こうかと空になったグラスをはじいた。
耳に残る、透き通った音が響いた。