Плотоядное животное

 ヴォトカの入った瓶を逆さまにする。ぐびりと液体が喉を通り、体を内側から熱くさせる。極寒の地のロシアでは、ヴォトカを飲んで丁度良いくらいの暑さだったが、ここイタリアでは気温が高いために全く暑いくらいである。あの刺すような冷たさが懐かしい、とまだイタリアに来てから三日しか経っていないと言うのに、ウラディスラフは早くも故郷を思った。軽いホームシックである。
 気晴らしに旅行でもして来いと、右腕と左腕に言われたものだから単身イタリアに来てみたものの(護衛など必要としない)これと言って面白味はない。マフィア、自分たちはただの犯罪組織の集合の一部にしかすぎないが、周囲は自分たちを総称して「ロシアン・マフィア」とする。何かと枠組みがあったほうが便利なのだろう。では本場のマフィアはどういうものなのか、それが旅行地にイタリアを選んだ理由でもあった。フランスの恋やら愛やらふわふわとしたものは今一面白くない。かといってスペインのような太陽の国で能天気にフラメンコを踊るつもりもない。踊りならばコサックで十分である。東洋はあまり好みではないし、日本などという平和大国なぞ死んでも御免である。刺激一つない、そんなぬるま湯につかって研ぎ澄ませてきた牙と爪を折られるくらいならば、今すぐ日本に大量の武器を送り込んでやる。ならばアメリカはどうか。誰もかれもが拳銃を所有し、一日の中で銃撃が見られないこともない。だが、ハンバーガーは嫌いである。
 やはりロシアがよい。我が故郷我が心の地。骨の髄まで凍らせるような極寒と裏の世界の淀んだ溝水で互いが生き残るためだけに相手を殺し合う。正義も悪もなくそこには安寧も救いも存在しない。大層素晴らしい。支配し支配され、強い者だけが必然的に生き残る世界。ぬるま湯はどうにも合わない。帰りたい。
 きゅ、とウラディスラフは持っていたヴォトカに蓋をした。一日でボトル三つは開けてしまうから、この一週間の休暇で飲むのは二十一。多めに見積もって二十五をトランクに詰めさせた。検閲など知ったことではない。手回しはぬかりなく。普通の人間であれば、トランクの中は洋服やら旅行書やらカメラやらビデオやら何やら揃っているのだろうが、残念なことに、自分のトランクの三分の二は全てヴォトカである。送らせてもよかった、と今更ながらに重たいトランクを引っ張ったことを悔いた。何、自分の生命線が立たれるよりかはましだ。
 コーリャの奴がヴォトカを少し控えろと口喧しく言いさえしなければ、こんな重たい真似はせずに済んだというのに。ヴォトカを控えろなどロシア人のセリフではない。あの下戸め。
 イタリアを訪れて、何か抗争にでも鉢合わせするかとこれ以上ないほどに期待したのだが、そんなことはなかった。至極残念ないことに、イタリア人は笑い歌い、ピッツァやパスタを食べながら今日を楽しむ。とんだ期待はずれだ、とウラディスラフは溜息をつく。もしも、今日何も面白いことがなかったならば、コーリャやジョーラが何を言おうが、無理矢理帰ってやることにウラディスラフは決めた。後一二時間で今日も終わるのだが。
 瓶を傾けたが、そこから何も出てこないことにウラディスラフは顔を盛大に顰めた。残りの瓶は全てホテルの一室。詰まらないから、ヴォトカも進むのだと踵を返しかけて、ホテルの場所を脳内で確認する。そして、踵を返した反対方向を行くよりも、恐らく影になっている路地を進んだ方が速いと言うことに気付いた。愛しいのは女の体もだが、おそらくヴォトカを全身に浴びたほうが喜びが高いだろう。女とヴォトカ、崖に落ちるならヴォトカを取る。
 がつがつと歩を進め、そこでウラディスラフは耳に飛び込んだ音に気付く。それは人の声、であった。こんな月の光すら届かない路地に一体誰が何の用か。しかも女の声で。嬌声ならば、ホテルであげろと言いたいところだが、どこで致そうか知ったことではない。だが、女の声はそう言った類のものではなかった。ただ、あふれさせる。歌のように旋律はない。発声練習のような声であった。
 だが、それに混じって、ウラディスラフは最も嗅ぎなれた凄惨な光景を彷彿とさせる臭いを鼻に感じた。ぞくりと全身が泡立ち、歓喜で背筋が震える。がつん、と長い脚を前に放り投げた。人としての気配を動物並に落として殺した。コートが少し大きめに揺れる。そして、ウラディスラフは足を止めた。
 薄い茶色の、大体肩よりも少し上で切りそろえられた髪。後ろ姿で顔は見えない。体のラインはひどく貧相だが、男の体ではなかった。小さな背丈の向こうに転がっているものにウラディスラフは、目を見開いた。そこに転がっているのは、人なのだろうか。よく分からなかった。人としての顔をしていなかった、と言うのが一番正しい表現である。一瞬で殺された。瞬間的な絶望的な驚異的な圧倒的な力で持って瞬時に殺害された。見も知らぬ痛みで顔が歪んでいた。だから男の顔は恐怖で彩られていた。瞬間的な絶望。
 小さな女は、少女は、少女?は、男が死んでいるのを確かめてから、帰ろうとして踵を返した。だが、そこで暗闇に気配も音も何もなく立っているウラディスラフを視認した。
 ウラディスラフは少女の奇妙な顔に驚いた。視界を遮る黒い布が鼻の上辺りまで覆っており、瞳が見えない。ただ口元が非常に感情表現豊かで、こちらを見てあからさまに驚いた。その表情にぞくりと背筋が震える。
「Добрый вечер(こんばんは)」
 こちらの状況を完全に無視した一言に少女は驚いたのか、体を一度震わせて、しかし警戒態勢を取る。言葉が伝わったかどうかは不明だが、明らかにウラディスラフの口調は場の空気をぶち壊した。ウラディスラフはその瞳で、少女の腕についている腕章を見た。VARIAと記されており、成程とウラディスラフはほくそ笑む。
 こちらの世界にどっぷりとつかっていれば、耳にしたことくらいはある。イタリア五指には確実に入るコーザ・ノストラ。ボンゴレファミリーにおける下部組織の一つ、独立暗殺部隊VARIA。
 ふむと考えていると、目の前の少女の気配が変わる。死人に口なしの方式を取ろうとした少女の行動に、ウラディスラフは口元を歪めた。少女が何かをしようと行動を起こそうとした、その瞬間、空いていた距離を無理矢理詰めた。巨漢の思いもよらぬ速さに少女の口元にまた驚きが浮かぶ。体を捻ってそこから逃げようとした体をウラディスラフは純粋な力で押さえつけた。武器をとりだされる前に細い両手首を壁に叩きつける。背中は壁、前には自分。少女に逃げ場はない。
「Извините(すみません)ボンゴレファミリーの方ですか?実は後日挨拶に行こうと思っていたのですよ。どうか暴れないで下さい」
 ウラディスラフは笑って嘘を並べた。否、嗤って嘘を並べ立てた。ボンゴレファミリーなどイタリアにおける同業者程度の認識しかないし、何か殺し合いにでも参加できれば楽しいだろうと思ってイタリアに旅行に来たまでのこと。挨拶に行くつもりなど当初の予定には全く入っていなかった。だが、気が変わった。目の前の少女を見て、気が変わった。旅行に来るのも悪くない、とウラディスラフは前言を撤回する。
 人一人殺して平然としている女はこちらにだって山ほどおり、珍しくとも何ともない。だがどうだろうか、この少女の無垢な色は。清廉な様子。死体の前に立ちながらも気高い様子。へし折ってやりたい。泥まみれにして、地面に這いつくばらせたい。人殺しはそんな綺麗で高潔なものではないと目の前に叩きつけ、凌辱したい。
 そう言えばそうだった、とウラディスラフは思い出す。イタリアマフィア、コーザ・ノストラは確か誇りと名誉に基づいた、何笑わせる、名誉ある男、マフィーゾだったと。全くお綺麗なことだ。溝に落ちてしまえば皆一緒だと言うのに。
 目の前の少女をそうまでしたいと思わせる何かが何なのか、ウラディスラフにはよく分からなかった。ただ、そう思った。考えられることと言えば、少女がそこに立って、驚くほどにその光景に馴染んでいただからだと推測する。そう言うものを、駆り立てさせる何かが、目の前の少女にはあった。征服欲の強い自分の性も手伝っていないとは言えないが。
 少女はこちらの言葉に、行動を止めた。判断しかねている様子で、唯一表情が分かる口元には明らかな戸惑いが浮かんでいた。しかしおかしなことに、少女は先程から一言も話さない。聞こえた声は幻聴だったのか。
 押さえつけていた腕が放してとばかりに力が反対側からかかる。抵抗されるのを押さえつけるのは、好きである。嗤う。ウラディスラフは困惑しきり、自分の腕から逃げようとしている少女へと噛みついた。
「!」
 押さえつけていた腕が大きく震える。片手を放し、その顔をしっかりと固定して逃げられないようにした。唇を深く貪り食らう。逃げようとした舌を絡め取り、強く吸う。自由になった片手で少女は自分の肩を反対側に押して離れようとしたが、その程度の力で動くはずもない。こちらが、ボンゴレファミリーの名を出したから、迂闊に手を出せないと判断しているのだろう。なかなかに賢い。これでもし、自分が同盟ファミリーの一員であったとしたら(実際はそんなこともないわけだが)問題に発展することは間違いない。
 角度を変えて、吐息すら食いつくしつつ口内を味わう。口付けは初めてなのかそうでないのか、応えようとする気は一切ないらしい。顔を背けようとするそれを、逃げようとする体を押さえつけ、ウラディスラフは少女を味わう。
 こういった行為が初めてだろうと分かったのは、少女の足がかたりと震えたことから分かった。壁に押さえつけていなければ、少女の体はすでに地面に膝をついているだろう。肩を押して、退けとばかりに叩いていた手の動きは今とても緩慢である。顔を固定していた手を放したが、少女は既に抵抗する力も残っていない様子であった。顎を押さえていた片手で少女の腰を支える。細いが、きちんと鍛えられており、服の上からでも引き締まっているのが分かる。肉づきが悪いのは否めない。
 舌先でまるで強姦するように口内を蹂躙した。鼻で息をしていないのが分かっていたので、これ以上やると窒息死するかと思い、ウラディスラフは唇を放した。少女は枯渇していた酸素を息も絶え絶えに吸収する。頬が紅葉していたが、少女は支えられてようやく立っている快楽に不慣れであった体で腕を振った。空いた片手が自分の唇を奪った男の頬に飛ぶ。しかし、それはウラディスラフの頬に届くことはなく、代わりに大きな手で掴まれた。指を絡めるようにして、ウラディスラフは少女の手を握った。その触り方一つに少女は震える。恐怖とよく分からないものが体に走っていたのか。
 何故どうしてこうなったのか全く分からない少女の指先に軽く口付けを残し、ウラディスラフはようやく少女を解放した。腰から手を離せば、少女は簡単に足から崩れ落ちる。
 ウラディスラフは未だ困惑の最中にいる少女を見下ろした。もっと汚してやりたい。だが残念なことに時間切れかもしれない。一つ、遠くから気配が近づいてきている。く、と口端を歪めた。
「Увидемся(また、お会いしましょう)」
 愉しいものを見つけた、とウラディスラフは踵を返し、そして闇に沈んだ。

 

 ラヴィーナは呆然としていた。
 椅子に座って、先日の任務を思い出す。思い出したくもなかったが、思いだす。キスなど初めての経験であったし、あれはいったい何だったのだろうかとラヴィーナは冷静なりながら、机に突っ伏した。嵐、とラヴィーナはそう括った。そして忘れてしまおうと思った。
 思った。
「Добрый день(こんにちは)」
 ぎょっとラヴィーナはあの時聞いた声を耳にして、肩を大きく震わせた。だが、それは幻聴ではなく、にこやかな顔をした男が対面の椅子に穏やかに座っている。はく、とラヴィーナは口を一度開閉させて、男を驚愕の瞳で布の奥から見る。
 男は嗤った。
「また、お会いしましたね」
 逃げよう、とラヴィーナは本能的衝動にしたがって立ち上がった。そして、立ち上がり、一礼するとくるりと背を向けて早足でその場を去った。何故本部に彼がいるのか、分からないまま。兎も角今は逃げるべきであることを最優先させて。
 逃げてしまった少女の背中を見て笑いながら、くつくつとウラディスラフは喉を鳴らした。そこに声がかかる。
「ウラディスラフ・ダニロヴィチ。 散歩は、シベリアの大地だけにしていただきたい」
「それは失礼いたしました、セオ。 ところで、ここに茶色の髪をした少女はいますか?背丈は、そう、これくらいの」
 にこやかに笑った男にセオは銀朱の瞳を不快気に細めた。はっきりとした警戒の色が瞳に宿る。
「…何か」
「いいえ、私が近づいた途端逃げ出されてしまったので」
 ウラディスラフは、そして案内を宜しくお願いしますとセオに朗らかに頼んだ。どうせまた会える、とほくそ笑み。