それが、初めての経験だった。
恐怖に彩られた瞳。青ざめた唇。ところどころ青痣の残る腕や体。名前を呼ぶために動いた喉。薄暗い部屋で投げ出された拳銃。上のランプが鈍い色をそれに落とし、ぞっとするほど冷たい色を灯していた。少年は引っ込み思案で気弱で、いつでもおっかなびっくりで。それでも、友達だった。
友達「だ」、ではなく。友達「だった」
銃声が一発響いて、真赤な液体が飛び散った。頭を打ち抜かれた体は、統率を失い簡単に横に倒れた。最期の言葉は聞けていない。言う暇もなかった。即死。床には、頭蓋を砕いた弾丸と共に、その中身が無残に吐き出されていた。真赤な液体はどろどろどろどろと額の穴から溢れだしていた。止まるところを知らぬ水のように。
喉が震えた。体が震えた。恐怖だったのか後悔だったのか懺悔だったのか。覚えていない。ただ、死んでしまった体に名前を呟いた。震えた声は、上手く言葉にならなかったけれども、名前は弱弱しく口から溢れた。 手から零れ落ちた名前はもう二度と、誰の笑顔を作らないのを知っていた。
ふわふわとしたモヒカンが図書館の本の隙間を通る。カラフルな色をしたモヒカンは、極力色を押さえた図書館では酷く目立っている。
パスクァーレ・ロンゴは尖った革靴を絨毯の上に染み込ませた。歩いても、その上では音は一切漏れない。「仕事」は本日休業で、誰も訪ねてくる予定はない。セオに会いに行こうとも思ったのだが、携帯に連絡がつかず、暇つぶしにと図書館によってみた。ドン曰く、図書館は知識の宝庫らしく、持っていて損な知識はないとの本人談である。少し見習ってみようかと、訪れたはいいが、どの本がいいのかよくわからない。数冊手に取った子供向けの絵本は、あまり小難しい本だと長続きしないからという理由である(それにしても簡単すぎただろうか)
椅子はないかとパスクァーレはくるくると視界を回す。そこで、自分が最も愛おしい男の背中を見つけた。思わずこれは運命!と叫びかけたが、ここが図書館だと言うことを思い出して、静かにそちらに足を進める。どうやら眠っているようで、珍しくピクリとも動かない。深い眠りについた体は、ゆるやかにその背中を呼吸で動かしていた。起こすのもどうかと思い、代わりに寝顔を想う存分堪能しよう、とパスクァーレはセオの隣の椅子を軽く引いた。
普段はその異常なまでに鋭い瞳をどのようにして瞼の奥にしまっているのだろうかと、ドキドキしながらその寝顔を覗きこもうとした。しかしながら、その動作は一瞬で止まってしまう。涙が一筋、閉ざされた瞼から溢れた。ほろと、皮膚を伝う。綺麗だと思った。泣かない人間が、そうやって涙を落とす瞬間はひどく美しく感じてしまう。たまらなく、美しい。
もしこの場に誰もいないのであれば、その涙を胃の腑に納めてしまいたい。舐め取って、その甘美なる味を舌の上で転がしたい。
そんな衝動を押さえつつ、パスクァーレは席に着こうとした。だが、その動作はやはり止まってしまった。セオの唇からこぼれた名前に、完全に思考が停止する。
「ロニー」
ごめん、と呟かれた。何故だか、聞いてはいけない一言を聞いてしまったような気がして、パスクァーレはその場に立ち尽くした。数秒そうしてじっとした後、上着を脱いでセオの頭の上にかける。この涙は、人に見せるべきものではないとそう思った。ロニーが誰なのか、普段から人に対して非常に淡白なセオが夢にまで見て、涙を流す人物が誰なのか。胸が締め付けられるほどに気になる。気になるが、それは聞いてはいけない気もする。セオの口から「ロニー」という名前を一度たりとも聞いたことがない。 そしてセオの周囲の人物からも同一の名前を聞いたことは、今まで、一度も、そう、一度たりともなかった。
それは誰も「ロニー」を知らないのか、それともセオを慮って誰も口にしないのか、パスクァーレには分からない。それでも「ロニー」はセオにとって、間違いなく記憶に残るほどの名前であり、男であるのは、付き合いの浅いパスクァーレでも分かった。
机の上に一度置いた絵本を取りあげて、パスクァーレはゆっくりと、物音ひとつ立てずにその場を後にする。その場に残されたのは、頭部を覆い隠したパスァーレのジャケットを被った、眠るセオだった。
は、とセオは瞼を開ける。不気味なほどに真暗な世界に数回瞬きをした。転寝をしていたのだろうかと体を起こした途端、視界が一気に明るくなって、眩しさに目を細める。そこでようやく、頭に何かかかっていたことに気付き、背後に落ちてしまったジャケットを振りかえって拾い上げた。誰の、と聞かれれば自分に接してくる人間は非常に少ないし、それに、ポケットにはまだ財布が入っていた。
「…あいつ、馬鹿か?」
パスクァーレ、と名前の入った運転免許証にセオは失笑する。笑った時に、奇妙に頬が引き攣った感触に気付く。何だと思って指先で触れれば、涙の痕のようだった。嫌な夢を見たような、古くさびれた記憶の夢を見たような、そんな感じがした。
腕の下に敷いていた毒物関連の辞書をぱたんとしめる。メモに取っていたノートと筆記用具を乱雑に鞄に押し込んだ。本棚の隙間を歩いて辞書を元の場所に返す。ラジュが使用している毒物、実際自分にも耐性がどれだけあるのかを調べるために来たはいいが、疲れて眠ったしまったようだった。
ラジュの体は、シャルカーン曰く幼いころの実験の影響で一切の毒物に対する耐性ができているらしい。勿論自分も多少の毒物であれば耐性はつけてある。だが、ラジュは一切の、と言うほどに広範囲である。それに合わせて、毒物に関する知識が多い。 武器が気化する毒物なのも影響しているのだろうが、学んでみたいという気持ちもあり開いたが、毒物はとんでもなく幅が広い。さらに言えば、毒と薬は紙一重と言うように、薬でも使い過ぎれば毒となるし、毒も使用方法では薬となる。自分には向いていない、と結局諦めることとなった。
本棚に戻して、少し日の傾いた外に出る。人の雑踏を通り抜けて、ジャケットの持ち主の居場所へと足を向けた。
パスクァーレはゲイだが、それさえのぞけば、非常に頼りになる武器商人である。あらゆる武器を注文さえあれば揃え、また作ることができる。彼以上の腕を持った武器商人をセオは知らない。尤も、あのセクハラまがいのアタックさえやめてくれれば、もっと頻繁に足を運ぶ気にもなるのだが。
しかしとセオは人混みにまぎれながら思う。このジャケットを自分に掛けて行ったということは、つまり、泣き顔を見られたと言うことかと。恥ずかしさもあるが、その気づかいには感謝しようとセオは思った。出会い頭にセクハラさえなければ、まともに礼を述べられる。はずである。
暗がりの静かな通りの一つの店。セオはそこの扉を叩いた。中に入れば、古い本が多く並べられている。コレクターから見れば随分と高値で売れそうな本である。店主は白い髭を生やした老人が一人、ぽつんと店の端に座っていた。セオはその老人に軽く挨拶をする。ふっさりとした白く長い眉毛に目までも大きく隠されたその人は小さく頷いて、りんと一つ音を鳴らした。
そうすると、老人の後ろの本棚がぎぎと横移動して、さらに奥へと繋がる扉を提示した。Grazie、と一言礼を述べてから足を踏み入れる。
一歩足を踏み入れれば、そこはパスクァーレの城である。どこに何があるのか、それらを全て知っているのは彼本人以外に存在しない。とはいうものの、部屋は大層小ぢんまりとしており、武器は一切見えるところに置いていない。注文すればどんなものでも用意するのだが、この部屋を一目してここが武器商人の店だと判断できるものは少ないだろう。
部屋自体も非常に簡素であり、窓一つない。カウンターが一つ、奥まったところにあり、正方形の部屋になっている。ただカウンターの下には階段、地下室に続く扉があり、そこから武器を取り出しているようには見えた。そして灰色の壁には上半身裸の男の着替えのポスター。ゲイであるパスクァーレの趣味には間違いないが、とセオはそこで動きを止めた。
「Ciao、セオ!あ、服持ってきてくれたんだ。Graziぐぶっ!」
ひょっこりとカウンターの下から体を出したパスクァーレだったが、その鳩尾には見事にセオの拳が決まった。そしてセオはがつがつと壁に向かって歩くと、そのポスターを引きはがして手から発生させた炎で燃えかす一つ残さず燃やし尽くした。
「セオ!な、何を…!」
「おい…パスクァーレ…てめぇ今すぐ俺にぶちのめされてェのか…」
今しがた灰にしたポスターの顔はどこかで見たことがあると思えば、自分であったと言うこの恥ずかしさ。
口調ががらりと悪くなり、セオはパスクァーレに礼を言いに来たのも忘れてガンを飛ばした。それにパスクァーレは咳込んで、ケチ、と呟く。誰がケチだ、とセオは眦を怒らせた。誰が好き好んで着替えシーンをポスターになどして貼られたいなどと思うものか。ちぇーっと口先をとがらせたパスクァーレの頭をもう一度殴ってから、セオは持ってきていたジャケットをそのまま顔面に押し付けた。
「返す。お前阿呆か、財布ごといれるなよ。盗られても責任取らないからな」
「へーきへーき。盗られも平気な金額しか入れないから」
「…運転免許証入ってたぞ」
「どっちにしろ、セオから何か盗もうなんて馬鹿いやしないって」
俺は番犬か何かか、とセオは軽く唸って、そして溜息をついた。この男相手に押し問答してもどうにもならない。意味がない。
帰る、と背中を向けようとしたセオだったが、いきなりカウンターから伸びてきた両手に顔を掴まれて、足を止める。細身に見えるのだが、手はとても大きい。武器製造もこなしている手はしっかりと顔を固定した。何を、といいかけたセオの顔にパスクァーレのふわふわとしたモヒカンが軽く触れた。
「…駄目?」
「…やっぱり今すぐぼこぼこにされてェみたいだな?近い!退け!」
唇が頬に意図的に、勿論それは挨拶での意味ではない、触れようとしたギリギリの位置でセオはパスクァーレの顔を片手で止めていた。
何が嬉しくて男に頬を舐め上げられなければならないのか。そっちの趣味は一切ない。
「何回も言うがな、俺はそっちの趣味はない!お前の趣味をどうこう言うつもりもないが、俺を巻き込むな!」
「それは無理。俺、セオが好きだから。ベッドインはいつがいぶっ!」
「…ベッドインの前に棺桶にインしてやるよ…」
「棺桶の前に、セオにインしたい!」
「三途の川に片足どころか両足突っ込ませるぞ!」
カウンターを乗り越えてぎちぎちと距離を詰めてくるパスクァーレにセオは青筋を立てながら、がなりたてた。言うまでもなく、それがパスクァーレに何らかの効果を及ぼすことはない。最終的に近すぎる距離で頭突きを炸裂させて、セオはパスクァーレを撃沈させた。額を押さえて呻くパスクァーレはしゃがみこんだが、セオはそこで自身の体を這いまわるような腕の感触に頬を引き攣らせた。 転んでもただでは起きぬ男と言うのはまさにこいつのことを言うのではないかと、思わざるを得ない。
足で相手の顎を蹴りあげると、さっと距離をとる。
「人の尻を撫でまわすな!」
「セオの尻最高…!」
ぐっと親指を立てたパスクァーレを本気で灰にしたい衝動をどうにかこらえつつ、セオは深呼吸を一つして踵を返そうとした。ジャケットを届けた以上もうここに用はない。これ以上モヒカンの顔を見ていたならば、うっかり顔を変形させかねない。
だが向けかけた背中に、先程までの調子とは全く違う真面目な声が響いた。それに足を止める。
「無理してね?相談、いるなら乗るけど」
カウンターに背中をつけたのか、微かにものがこすれ合う音が耳にまで届く。
思いやりの言葉にセオはいらないと短く返した。今上手く笑えているだろうか、とセオは自身の口元に軽く触れる。女のように普段から手鏡を持ち合わせていないことを、これ程後悔したことはない。恐らく笑えているのだろうとそう思いながら、セオは振り返った。笑えているはず。
「お前に心配されるとはな」
「セオ」
「夢見が悪かっただけだ。心配することもされることも、ない」
何の夢を見たのかなど覚えていない。ただそれが、ざりざりと心の底辺をのこぎりですり減らした感覚があるだけである。しかしそんなものは、所詮夢にすぎない。夢が自分に何か影響を及ぼすのかと聞かれれば、答えは否。問題は何もない。
パスクァーレは奇妙な笑顔で、今にも泣き出しそうな顔で笑っているセオを視界に入れながら、羨ましいと思った。セオを、あのセオにこんな表情をさせるだけの男が羨ましいと。「ロニー」なる人物が、あまりにも妬ましかった。しかしその名前をセオの前で言うことは憚られた。夢見が悪いと、覚えてもいない夢だというのに、こんな顔をさせる夢。名前を出して、その夢をはっきりと形あるものにすれば、セオはどうなるだろうかとパスクァーレは思案する。そして心配する。
黒い肉食獣はどこまでも美しかった。しかし、その柔らかで鮮烈なまでの美しさが傷つくのは、耐えられなかった。押し付けかもしれないが、パスクァーレは、セオに美しくあってほしかった。揺るがず、たゆまず、どこまでも鋭い。完璧な獣が、涙を落とした、壊れそうな瞬間も確かに美しいが、壊れてしまうのはやはり耐えられない。それはとても悲しい。
「―――――――、セオ」
「ん?」
やはりどこか無理のある笑顔を浮かべたままの友人に、想い人に、パスクァーレはゆっくりと微笑みかけた。
「欲しがってた銃、見つかったけど。買う?」
安くしとくと笑った友人に、セオは目を眇めて、買うと答えた。そしてパスクァーレは元気に笑って、ポスターもう一枚貼っていいと尋ね、セオはその腹を思いっきり殴りつけた。