死に臨む

 銀朱色の瞳をもった男を恐ろしいと思ったことは一度もなかった。
 月に一二度は顔を合わせる機会があったし、彼はその度に林檎かアップルパイか、林檎ジュースか、兎も角林檎関連の何かをもぐもぐと口にして、気さくに挨拶代わりの声を掛けてくれた。時には林檎を一つ投げ渡してくれることもあった。触れば噛付くということもなく、声をかければ睨みつけるなどということもない。愛想が良い、とは確かに言いづらいものがあるが、愛想が悪いことはない。
 べネデットは噂で聞くようなセオを見たことが無かった。そのため、嘘とは思わないまでも、唯の誇張表現であると、そう思っていた。
 思っては、いたのだ。
 思って、いた。過去形。

 

 冷たく足元に流れて行く冷え凍えた空気が背筋まで這い上がってくる。助けてくれ、と男は縋りついていた。掴み掛られた服には酷く皺が寄っており、男の顔には恐怖と言う名の皺がしっかりと、それはもう取れることが無いのではないだろうかと思わず疑ってしまう程に、その名を有した感情が刻み込まれていた。
「お、落ち着け。何があったんだ」
 ふわふわの髪が風と大きすぎる感情に揺らされる。黒く広がる空には唯一つの月と無数の星が散らばっている。尤も、それらの小さな星は空を流れ行く雲が時折覆い隠しては光を地上に降り注ぐことを止めていた。人通りの少ない通りで、ベネデットは男の悲痛な懇願を聞く。怯え震え慄く男の姿は、いっそ異常と表現しても強ち間違いないのではないかと思わせる程であった。
 ベネデットは男の両肩を掴み、軽く揺さぶる。かちかちと歯の根が鳴っている。掴んだ肩ですら、恐怖で震えていた。青褪めた顔、鳴る歯の根、定まらぬ視点。男が狼狽しているのは、一目で分かる。
「落ち着け。何があったんだ」
 再度、ベネデットは男に尋ねた。
 男の服装はスーツで(どこかでこけたのか、それとも壁に擦りつけてのか、随分と汚れていたが)軽く開いた胸元にはゆるくネクタイが締められていた。ベネデットは男の顔も素性も何一つとして知りはしなかったが、男が自分たちと「同じもの」であることは理解できた。そのような、においを感じた。
 ベネデットの言葉に、男はようやくまともに返事をした。
「助けてくれ!助けて…っ、助けてくれ…!」
 まとも、と呼ぶにはいささか問題がある返答ではあった。
 助けてくれ、と震えつつ男はベネデットの両肩を強く掴む。あまりに強く掴まれ過ぎて、ベネデットは思わず顔を歪めた。だが、ここまで必死に懇願する男をベネデットは見捨てては置けなかった。大丈夫と、取敢えず男を安堵させるために、ベネデットは掴んでいた男の肩を軽く叩く。だが、男の震えは止まらない。
 一体何が在ったのかを知らなくては対処の仕様がなく、ベネデットは困り果てつつ、何故今日に限ってクラウディオの言いつけを破ってしまったのだろうかと自分の粗忽さを嘆く。クラウディオは毎日毎日口が酸っぱくなる程に、自分に対して夜の一人歩きは止してくれと溜息を吐く。別にもう自分も子供ではないのだから、そこまで心配する必要もないのではと思うのだが。だが、正しいのはクラウディオだったようである。一人歩きでは、このような問題に完璧に対応しきれない。無論、別に自分が弱いと言っているわけではない。ただ、一人より二人、二人より三人、クラウディオとヴィエリが居れば百人力であったのに、とベネデットは思う。尤も、その二人が居たところで、父のように自分の実力に差などできたりはしないのだが。
 ベネデットは思い出したように溜息を吐いた。
「落ち着け。助けるから、何があったのかをまず話して
 くれ、と言いかけたが、それを説明する暇すらも惜しいとばかりに、男は助けてくれと再度叫んだ。
「あいつが来る…!」
「あいつ?」
「ばけもんだ!赤い目をした、ばけもんだ…!あいつは人間じゃねぇ!」
 赤い目、と聞いて思い浮かぶのは、父の同級生の主かつボンゴレファミリー独立暗殺部隊VARIAのボスであるXANXUSくらいであった。人間離れした暴威と言い、その言葉には大いに納得できる。
「あいつが来る、あいつが、来る…逃げねぇと、殺される…!」
「分かった、俺が少し時間を稼いで置いてやるから、お前は逃げろ」
「駄目だ駄目だ駄目だ!てめぇも逃げろ!殺される!」
 半狂乱。そう表現するのが最も適切であるかのように、男は肩を震わせてベネデットの言葉を否定した。助けを求めるくせに、助けを差し伸べた先からそれを否定するのは奇妙な話である。
 ベネデットは安心させるかのように、軽く男の肩をもう一度叩いて二コリと微笑んだ。
「大丈夫だ。安心しろ。俺も簡単に殺されはしないし、それに…」
 ううんとそこでベネデットは唸った。逆立ちしても自分がXANXUSに敵わないことは明白である。戦いは好きではなく、よく父親の訓練を悉くサボっていたつけがこんなところに来るとは思わなかった。それでも助けを求めて縋る者の手を振り払うことは、ベネデットにはできない。
 ごつん、とブーツがゆっくりと石畳を食む音が聞こえた。男はひぃと引き攣った悲鳴をあげて、今度こそ腰を抜かした。ばたばたと足だけが空しく石畳を叩く。懐から男は恐怖からか、自衛のために銃を取り出し、そして構えた。ああまで震える手で撃ったところで当たりはしまい。
 ベネデットは考える。相手がXANXUSであれば、あまり効率的な手段は望めない。圧倒的な暴力によって潰されるのが落ちである。彼は甘くも優しくも温くもない。おそらく、これはおそらく、唯の仮定の話ではあるのだが、自分が「キャッバローネのディーノの息子」として話せばあるいは話が通じるかもしれない。あまりこう言った、卑怯というか潔くない手段は採用したくないが、何よりも取るべきは人の命で在って、プライドではない。自分が頭を下げることで、助かりたいという男が助かるのと言うのであれば、いくらでも自分の頭を下げよう。
 人の命は、いつだって一つしかないのだから。
 走れるか、とベネデットは男に状態を確認する。それに男はこくと頷いて同意を示した。
「よし。ここは俺が足止めしておくから、お前は逃げろ」
「あいつはばけもんだ!」
「大丈夫。化物だって人間だから、耳も考えるための頭もある。話が通じないわけじゃない。早く行かないと追いつかれる。大丈夫だ、逃げろ」
 ベネデットの言葉に男は噛んでいた唇をようやく放し、一言、Grazieと礼を述べてからその場を駆けだし、後にした。
 男が完全に見えなくなって、ベネデットは腹に少し力を入れた。XANXUSは怖いが、頼まれた手前断れないし、助けを求める人間をむげに振り払うことができる程、自分は非情にもできていない。悪く言えばお人好し、である。
 無事に帰れなかったら、クラウディオのお説教がまた落ちる、とベネデットは軽く溜息を吐いた。
 だが、それと同時に一つの悲鳴が上がった。総毛立つようなその悲鳴にベネデットは、ぞくんと体を震わせ、まさかと声の下方向へと走り出した。曲がり角を一つ曲がった。そこから現れた人影は、ベネデットが想定していた人間とは違っていた。
「セオ」
 その名前を口にする。そして、安堵した。XANXUSならば、一割以下での可能性しか見いだせないが、セオならば話が通じるとベネデットは思った。
 ベネデットは覚えている。セオは悪い人間ではない。その厳しい顔とは反対に、実は優しいのだということも、ベネデットは知っている。小さい頃一緒に遊んだ時、よくよく自分は転びそしてわんわんと泣いて、その度に前を歩いていたセオが引き返して、大丈夫かと手を引っ張ってくれた。立てないと言えば、背負って父親の下まで運んでくれた。
 彼は、優しい人なのだ。
 暗がりから、月明かりが差す方へと、足が出る。胴体が出る。腕が出る。そして、顔が。
「セオ?」
 ベネデットは、今まで一度もそんな表情を見たことが無かった。冷たい。それが、一見して抱いた感想だった。
 セオの瞳は銀朱だが、赤と言われれば、赤の部類に属することはするだろう。だが、男がそこまでセオに怯える理由がベネデットには未だによく分からなかった。セオは話のできる男だとベネデットは思っている。
 だが、ベネデットの思考はそこで止まった。セオの手に握られている、物に、戦慄した。言葉も出なかった。何と言えばいいのか、よく、分からなかった。白い手袋に握られていたのは、焦げ茶色の、そう、先程逃げた男と同じ髪の色だった。そしてその髪の毛の下には、先程、ベネデットが見たばかりの顔が、存在した。ただ、その表情は酷く恐怖を覚えたもので、見開かれた瞳は見るに堪えない。そして、首から下は、無かった。
 存在、していなかった。
 銀朱の瞳を持つ男は、男の頭部だけを持っていた。頭のない体は存在しなかった。恐らく、焼き尽くされたのだろう。まさに、灰になった。
 例えようのない、表現しようのない怒りがベネデットに込み上げた。どうしてなぜと憤りだけが腹の内を駆け巡る。助けてと必死縋り付いてきた男の手の強さを、ベネデットは覚えていた。死にたくないと震える男の声が、耳にこびりついている。
「何で、殺した」
「愚問だ」
 酷く静かな声は、ベネデットを刺激した。唇を噛みしめ、血が滲む。例えようのない憤りが、溢れてくる。殺して当然だと言わんばかりの態度にベネデットは怒りで目の前をちかちかさせながら、声を破裂させた。
「何で…っ、何で殺した!!」
「任務だからだ」
 淡白に返された声の冷たさに、ベネデットは愕然とした。目の前の男は、自分が知るセオとは違うのかと、実は偽物ではないのだろうかとすら疑った。
 銀朱の瞳に月明かりの加減で影が落ちる。
「こいつは俺に助けを求めた!お前は…お前は、こいつの助かりたいって声を一つでも聞いたのかよ!」
「聞いても殺した。聞く時間が勿体無い」
「聞いてもないのに、そんな事が分かるか!」
「助かりたいですって頼まれて生かす馬鹿がどこに居る」
 ああ面倒だとばかりに、暗がりに立つ男はそう言い放った。ベネデットは怒りに塗れた瞳でセオを睨みつけた。
「話を…聞いてやることくらい、できただろうが…!この人にだって、家族が居るんだ!大切な人や、仲間が、友達が居たんだ!なのに」
「だからどうした。それが、一体俺に何の関係がある」
「セオ」
 愕然とした。自分が知るセオはこんな冷たい人間ではない、とベネデットは嗚咽を漏らした。まだ温もりが残っているであろう人の死が悲しくて、何故だか裏切られたような気がして、それがとても辛くて、涙がぼろぼろと眦から零れ落ちて頬を濡らす。
 泣いているベネデットを慰めることはせず、セオはただ立っていた。
「武器を持って…戦って、何になるって言うんだ…!人を殺すことが、そんなに楽しいのかよ!」
「楽しくは無い」
「なら、何で殺すんだ!お前に、人の命を奪う権利があるって言うのか!」
「そんなものは無い。もう良いか、人の頭を持っているのもそう気分が良いものでもない」
「待てよ」
 待て、とベネデットは立ち塞がった。許しては置けなかった。まるで人を塵屑のように扱った、セオのそれに我慢がならなかった。気付けば、手は鞭を取り、地面をその先で打ち鳴らした。
 しかし。
「そうか、殺されたいか。武器を向けるって言うのは、そう言うことだ」
 がつん、とブーツが音を立てた。
 気付けば、気付けば壁に押し付けられていた。ベネデットは呆然として、現状を考える。何が起こったのか、良く分からなかった。鞭を振るおうとしたその一瞬、ただその初動で、腹に重たい一撃が入り、呼吸が一瞬止まったかと思うと、服を掴まれて無理矢理叩きつけられた。足は、爪先が辛うじてついているような状態である。そして、顎には冷たい、銃が突きつけられている。
 指先にかかった引き金は、後ほんの少し力を加えるだけで自分の顎から脳に向けて、銃弾が喰い破り、吹き飛ばすであろうことを、ベネデットは悟った。
「おれ、を、こ、ろす、のか」
 恐怖で声が震えた。情けないとベネデットは思った。だが、ベネデットの心境など知ったことかとばかりに、セオはその冷たい色をした瞳で酷く不思議そうに問うた。
「武器を向けた。他に理由が必要か?」
 ぐり、と強く銃口が押し付けられる。ベネデットはセオが戦うために落とした男の頭部を見た。そして、

 

「ベーネ!こんな時刻に一体どこをほっつき歩いて…!ベーネ?」
 雷も鳴っていないのに、部屋の片隅で蹲っていた、先程まで行方不明で血眼になって探していたベネデットを彼の自室で見つけ、クラウディオは安堵とそして怒りを同時に覚えた声を上げたが、様子が普通ではないので、小言を言おうとしたその口を止めた。
 ベネデットは部屋の片隅で、いつもならば肌身離さず持っている鞭を遠くに放り投げていた。両膝を腕に抱えて、その膝がしらに顔を埋めている。癖の強い髪の毛がふさふさと横に広がっていた。ベーネ、とクラウディオはそのふわふわとした頭を優しく撫でる。
「どうした、ベーネ。怖い夢でも見たか」
「…くら、でぃお…」
「私はここだ、ベーネ。怖いことなんて何もない。こんな時刻まで何をしていたのか、私の胃も限界に近いし、お前に言いたい小言も沢山あるけれど…何があった?」
 泣きそうな声に、否、もう既に泣いている。膝頭から持ちあがった顔はもう涙や鼻水でべとべとだった。これはひどい。クラウディオは溜息を一つついて、ポケットからハンカチを取り出すと、そのひどい状態になった顔をぬぐう。
 少し綺麗になった顔で、ベネデットはGrazieと礼を述べた。
「…クラウディオ、俺…命乞い、した」
「誰に襲われた」
「違う。俺が…っ先に、でも、助けを求める人を助けるのは、当たり前だろ…!」
「ああ、そうだな。ベーネは、そういう優しいところが良いところだ」
 よしよしと頭を撫でれば、ベネデットはもう耐えられ無いとばかりにクラウディオの胸に飛び込んだ。そして、またわんわんと泣く。いくつになっても泣き癖の酷い子供にクラウディオは苦笑しつつ、その背中を撫でて落ち着かせる。
 一体どんな怖いものを「見た」のか、クラウディオには見当もつかない。嗚咽交じりの言葉が続く。
「おれっ、は…、つよくな、い…っぜんぜん、つよく、ない…!でも、つよい、からって、なにしても、いいの、かよ…っ!あんなかお、して、ころすとか…っあいつ、いつから、そんなのに、なった、ん、だよ…!」
 泣き声を聞きながら、クラウディオはああと納得する。そして彼が見た物を察する。
「ベーネ。お前は強い」
「ちがう!なにも、でき、なかっ、た…!」
「強いさ、ベーネ。お前はこうやって、生きて、私たちの所に帰ってきてくれた。一瞬の意地や見栄に流されず、きちんと帰ってきた。私にはそれが嬉しい。お前が生きていることが何より嬉しい。お前が引き際を間違えなかった。そこは、お前が命を張る場所じゃない」
 ぐす、と鼻水をすする音がする。
「ベーネベーネ。強さと言うのは、力ではないよ。本当に強いのは、自分を想う人を悲しませない人間だ。プライドが何だと言うんだ。意地汚くて何だと言うんだ。確かに命を掛けなくてはならない場面もあるだろう、そこで背を向けては駄目だろう。だが、それでも、大切な人を悲しませないと言うことが一番大事だ。私たちは仲間を重んじるファミリーだ。ベーネ、お前が仲間を想うように、私たちもお前を想っている。だから、お前が命乞いをしてでも、この場所に帰ることを選択したことを、誇りに思おう」
 静かな言葉を聞きながら、ベネデットは涙を落とす。そして、ぐいと涙をぬぐってクラウディオを見上げた。しっかりした面持ちにクラウディオは目を穏やかに微笑む。
「どうして、人を殺すんだ。どうして殺さなくちゃならないんだ」
「…私は、仲間を守るためにならば、引き金を引くことを躊躇わない。答えになっているか、ベーネ」
「あいつは、きっと仲間だって殺す!任務のためなら、誰だって殺す!俺は…もう、あいつが分からない…クラウディオ…」
 また声に嗚咽が混ざる。クラウディオはベネデットの髪をくしゃと撫で、そして眉間に軽く皺を寄せ、ただただ何も言わず、涙を落とすベネデットに胸を貸した。