だから、とイルマは軽く息を吐いた。その隣では黒髪に銀朱の瞳をその身に宿した男が、紙コップに入ったコーヒーを傾けて飲んでいる。睡眠不足なのかどうなのかは定かではないが、その目の下にはうっすらと隈ができていた。あふ、とカフェインを摂取した後に男は大きな欠伸を一つする。
そんな男を見て、イルマはもう一度溜息を吐いた。
「悪いことは言わないから、止めておいた方がいいんじゃないかしら」
「そうか?駄目だ、無理だ、嫌だ。できないな」
四つの言葉で綺麗に提案を否定され、イルマは頭痛を覚える。何も、と軽く手を振った。
「何も、そう、何も私だって意地悪でこういうことを言っているわけじゃないわ。昔のことを引きずって嫌がらせで言っているわけでもない。さらに言えば、寄りを戻そうなんて思っての発言でもないわ」
「寄りってのは元からあったものを元に戻すから、俺とお前でそれはそもそも成立しないと思うんだが」
「空気を読まないのとデリカシーの無さは相変わらずの一級品ね。感服するわ」
「褒めてる?」
「褒めてないわよ」
馬鹿、とイルマはがっかりと肩を下げ、長身の男の隣でココアの入った紙コップに口をつけた。口紅を落とさないように綺麗に飲む姿は非常に洗練されている。上から眺めると伏せがちの睫毛がどこか色気すら醸し出ている。尤も、その色気と言うものが、隣の男の心を擽ることは全くもって考えられない上に、不可能であると思われるが。
セオはコーヒーを半分ほど飲みほして、ミルクが欲しいなと今更ながらにそんなことを口にした。それにイルマはブラックは駄目だったかしらと尋ねる。その問いかけにセオはいやと首を小さく横に振った。
「飲めないこともないが、ミルクが入ってる方が好きだ。ただ、ミルクを入れて飲むと反対に眠くなるから困る。昨日も徹夜だった」
「相変わらず忙しいのね。身を粉にして働きなさい」
「既にしてる。粉をさらに擦り潰したらどうなる事やら」
「跡形もなくなるかもしれないわね。確か、日本では良く見られる過労死とか言う死に方をするんじゃない?」
「過労死か…殉死じゃないのか」
「似たようなものよ。詳しくは知らないから、後はあの歩く生き字引に聞いたらいいわ。皮肉屋のね」
お前も十分に皮肉屋だ、とセオはぼそりと心の奥で思いながら、しかしそれを口に出すことはせずにミルクも砂糖も入っていないコーヒーを最後まで飲み干した。紙コップは空になり、それをごみ箱に投げ捨てる。投げたそれは器用にゴミ箱の中に入った。隣から、ナイシューとからかうように、感動の欠片もなく賛美が与えられる。
その大きな体を、セオはフェンスに預けた。ぎ、と軋んだ音が鳴る。
「ドンもジーモも何も言わないがな」
「言うわけないじゃない。あなたが何を言っても聞かないことくらいあの二人なら分かってるわよ」
「でもお前は言うな、イルマ」
「言うわよ。友達として、言ってあげてるの。私は少なくとも、セオ、あなたが泣いたり悲しんだり苦しんだりする姿を見て、それを自業自得ねって笑って言って上げられる程強くはないのよ。だから、何度でも言うわ。あの女は止めておきなさい」
「無理だ」
イルマ、とセオはアメジストの瞳に初めて自身の瞳を向けて否定した。まっすぐに、偽りの一つもなく向けられたその瞳にイルマは嘆息する。何を言っても無駄なことは最初から理解していたし、理解されることを期待など一つもしていなかったにせよ、こうも単純明快にあっさりさっぱりと言い切られると溜息を吐かざるを得ない。
額に軽く手を添えたイルマに、セオはどうしたと尋ねる。空気を読めない読まない、読む気のない男は怪訝そうな顔をしていた。
イルマはココアの入った紙コップを整えられた両手で包み込み、地面へとそのアメジストを向ける。
「一般人よ、セオ。傷つくのはあなただわ」
「でも、彼女が良い」
「子供みたいに駄々をこねないのよ。双方にとって利益が無いことは止したらどう」
「愛することに利益は関係ないんじゃないか?」
真っ向から言い返されて、イルマは一度口籠るが、首を横に振るい、何かを否定した。
「セオ。ねぇ、どうして?別に私である必要性はどこにもないわ。もう一度言うわよ。あなたが愛するその人は、一般人。花屋の娘。血の香りも味も、銃声とも硝煙とも無縁の世界で笑っている花よ。綺麗な水じゃないと生きていけないわ。切り取った花を、人間の血液で活けるつもり?」
イルマの言葉に、セオはフェンスに預けていた体重を軽く鳴らす。その一挙一動はやけに重苦しい。髪の毛が黒い分、余計に重さを感じさせる。そんなつもりはない、とセオは小さく言葉を紡いだ。
「それでも、彼女が良いんだ。彼女で無いと駄目だ」
「名前一つ聞けてないくせに」
「そのうち聞くさ」
止めなさいよ、とイルマはまた繰り返す。
地面に一度落ちた瞳はまた上がることはなく、ただ、地面だけを見据えて、口を小さく動かすに留めていた。自分を止める小さな女性を上から眺めながら、セオは駄目だと繰り返した。
何故駄目なのか、どうして彼女でなければならないのか、セオは良く分かっていない。ただ、ただただ彼女が良いと思っているのだ。全身全霊、体の全てが彼女が良いと叫んでいる。彼女でなければならないと思っている。一目見たあの瞬間から、そう思って止まない。今はまだ手折ることをしていない。地面に植わった花を、少し離れて見守っているだけ。
勿論、いつかその花を手折ることにはなるのだろうけれども。
ごつごつとした大きな手をセオは見つめる。いつも花を差し出してくれる手は、決して手入れが施されたものでは無い。マニュキアも塗っていなければ、自分が知る令嬢の如く、細くて可憐な手では無い。ただ、爪は綺麗に切られており、水仕事でその手は荒れている。しかし、記憶に残るその手が、セオは大好きだった。グラスを傾ける手よりも、腕に絡みつく手よりも、セオは大好きだった。深い茶色の瞳は、美しい睫毛に彩られてはいなかったが、自然な優しさを見つけられる。
綺麗な人だ、とセオは、ただそう、直感的に感じた。
外見を着飾ったことで得られる美ではなく、内から滲み出る美である。
この人の側は、一体どれほど心地良いことだろう、と胸が締め付けられるような思いがしたのだ。父も母に同じことを感じたのだろうかと、脳裏にそんなことを考えたものだ。血と惨劇の海に身を浸す自分たちは常に帰る場所を求める。ほんの少し、人としてあれる場所を求める。だからこそ、なのかもしれない。
「あの人でないと、駄目だ」
「昔から頑固ね。一つこうと決めたらてこでも譲らない。もっと楽な生き方を選んだらいいのに。もう一回言うわ。傷つくのは、あなたなのよ」
「傷ついても構わない」
「どうしたらあなたを止められる?」
「止められない。止まらない」
厄介ね、とイルマは溜息をついた。
「怯えられるわよ。拒絶されるわよ。あなたを知らない人から見れば、あなたはただの人殺しだわ。殺人鬼よ」
「分かってもらうさ」
「私は知ってる、ドンもジーモもパスクァーレもあなたを知っているわ。でも、彼女はあなたを知らない。馬鹿でも分かる答えを、どうしてあなたは見ようとしないの?」
一気に吐き出したイルマにセオはそうだろうかとゆっくりとその黒髪を流した。それでもとセオは笑う。
「俺は、あの人が良い。どんなに傷ついても、どれだけ拒絶されても、あの人を手にする。見てないことはない、見てる。それでも、だ」
「馬鹿な生き方」
「馬鹿で良い。馬鹿で良い、馬鹿で良いんだ。それが俺の生き方だ。他にどうやって生きて行くのか俺は知らない。知る必要も、また、無い。ただ俺が思う通りに生きる。自分に正直に生きる。嘘を吐いて背中を向けて、そんな生き方は嫌だから」
ココアが飲み干される。イルマはかつかつとゴミ箱の側まで歩き、空になった紙コップをその中に落とした。短く切り揃えられた髪が風に乗り、靡く。細く多少の癖っ毛は今は、ストレートパーマを掛けている所為かまっすぐに風の抵抗すらも殺していた。
セオはそんなイルマを見ながら、やはり微笑む。穏やかに、微笑む。
「Grazie, Irma. 心配してくれたんだろ」
「友達だもの。ジーモたちとは別の意味の友達よ。不器用なセオ」
「不器用でいいさ。器用な生き方は、きっと性に合わない。ほんの少し、休む場所があればそれでいい」
「休める場所が彼女?」
「に、なって欲しいなと」
「希望的観測。ドンにも笑われたんじゃない」
「笑われた」
ジーモには困ったような顔をされた、とセオはそれを思い出しながら軽く顎を擦る。まぁ、と目を細めてセオは体を起こして、両足に体重を乗せ換える。日本の足で立ち上がった彼は大層高い。イルマはその背中を見上げながら、ああ高いとそんな普通の感想を漏らした。
黒いスーツに白いシャツ。おまけに黒いネクタイに、黒いロングコート。ここ最近はそう言う格好のセオに会うことが多かった。イルマは目を細める。
「忙しいの」
「ああ。色々とやることも多い。この年になると面倒事も多い。煩わしい。化粧の濃い女を相手にするのも疲れるし、自意識過剰の舌っ足らずと会話をすることも面倒だ。まー胸の開いたドレスを着る奴らが多いもんだから、目の保養にはなるかな」
うんとセオは笑う。そんなセオをイルマは呆れたように見て、エッチと詰った。それにセオはそうかなと軽く首筋を掻いて、首を傾げる。まるで少年のようなその表情にイルマは笑った。
「振られてきなさいよ。ざまぁみろって笑ってあげるわ」
「振られても諦めないさ。つまり、振られないってことだ」
セオの言葉にイルマは訳が分からない、と肩をすくめて軽やかなステップを踏んだ。階段を一足飛ばしで飛び降りて行く。イルマ、とセオはその背中に声をかけた。それにイルマは視線を持ち上げ、笑う男を見上げる。背後に大きな太陽を、それは尤もその男に似合わないものであったが、それを背負った男の顔形は姿のラインだけ残して逆光で黒く隠れてしまった。ただ、朗らかに笑っているのだろうと言うことは、男の声で想像がつく。
三段飛ばしで、セオは階段を下りて行った。大きな体はその分コンパスが長く、あっという間にイルマに追いつく。ばさ、と大きな黒いコートがイルマの前で揺れる。闇から現れたような、まるで闇そのものを体現するかのような男である。彼はもう、戻ってこない。そこで永遠に武器を取り、銃を取り、引き金を引き続ける。
「私であれば良かったのに」
「お前じゃ駄目だ」
「知ってるわよ。こういう時は聞かないふりをするのがマナーってものよ、セオ」
「でも聞こえた。聞かれたくないなら言わないべきじゃない…ったぁ!踏むな!今ヒールで踏んだだろ!!俺でなかったら骨折くらいしてるぞ!」
「馬鹿ね、セオだから踏んだのよ。後ジーモでも踏んだわね」
「あんまりだ…」
イルマは大層良い笑顔でセオの足の甲に思いっきりこれ以上ない程に体重を乗せてヒールを乗せた。痛みの悲鳴が上がったものの、イルマはさして気にしない。そしてセオは痛みに顔を歪め、僅かな悲鳴をこぼしたが、同様に溜息を吐くだけで終わる。
それで、と尋ねたイルマにセオは視線を落とす。視線を落とさなければ、背の高いセオはイルマを視界に入れることはできない。
「いつになったら、デリカシーっていうものを学んでくれるの?」
「もうそれいいだろ…?デリカシーなんて面倒臭い。後、ムードとか…そんなものいらないって…食べられもしないのに役に立たない。読むのは雰囲気だけで十分だ」
「任務の時だけのね。普通の時も読んでくれたら嬉しいけれど」
「そんな面倒な」
「振られるわよ」
「だから、」
振られないって、とセオは友人の隣を歩きながら笑った。そしてその脇腹にイルマの肘が入り、苦痛の声がまた、漏れた。