全身の力を抜く。しかし一本だけ頭頂部から背骨を通るその一本の筋だけは折らないようにまっすぐと力を込めて、姿勢を正す。瞳を閉じて耳を澄ませ、肌で風を感じる。遠くから流れてくる音と近くでそよぐ波に意識を散らしながら、ラジュは静かに、どこまでも静かに、水面に一つに波紋すらない状態で大層静かに大樹の下に座っていた。
普段、シャルカーン同様出しっぱなしである匣兵器のティーグは今日は匣に収めたまま長く全身を覆うローブの下にしまいこんである。たまに一人で樹の呼吸を聞くことも悪くはないとラジュは思う。その時、鼻が石鹸の香りを感じた。どこからか香るその匂いが誰のものであるか、ラジュはよくよく知っていた。しかし取り立てて騒ぐことも動くこともせずに、ラジュはやはり静かに、まるで座っている樹と一体化したかのように微動だにせず静かに座り続ける。
十五分程経てば、その香りがより強くそして濃くなる。そして、幼いころから聞き知った声がラジュの耳を擽った。
「ラジュ」
ぱちんと閉じていた瞼を持ち上げて、ラジュはその青い瞳で来訪者の姿を捉えた。
「セオ」
名前を呼べば、少年はにこりと笑って、そこいいかと隣を指差す。無論ラジュは断ることをせずに、一人分のスペースを空けるために少し横にずれた。セオはGrazieと一言礼を言ってからそこに腰を落とし、そして数秒間じっと座り、飽きたのかゴロンとそこに転がる。見上げた先には、木の葉の向こうに太陽の暖かな日差しが覗き見える。
ラジュ、とセオはもう一度青年の名前を呼んだ。青年から返事はないものの、その視線だけがゆっくりと動いて転がっている青年へと向けられる。ぐるんとその体が仰向けから腹ばいになって、まるで子供のような目を色の強い肌を持つ青年へと注いだ。しかし、その瞳にはどこか不安そうな色が強く残っている。どうかしたのだろうか、とラジュはく、と首を傾けた。
セオはおそるおそる青ざめた顔をして口を開く。
「…ラジュ。俺、病気かも…」
「病気?」
「いや、何と言うか。うん、病気かもしれない…」
どうしようかと視線をうろつかせているセオに、ラジュは何があったのかを問う代わりに、ゆっくりとした様子でセオの次の言葉を待った。セオは一分近くの沈黙を割いて、ようやく次の言葉を口にする。
「昨日、さ。あの、俺…こ、この年にもなって…」
「なって」
わぁっとセオはその顔を地面の上で組んでいる腕に押し付けた。
「おねしょしたんだ…!」
「おねしょ」
単語を繰り返すだけのラジュにセオはそう!と真青なのか真赤なのか、よく分からない顔色をラジュに向けて、その銀朱に僅かに涙を浮かべる。
「し、シーツとかにはついてなかったんだけど、パンツの中が…」
「ん」
「なんか、白くてべとっとしたものがついてて…おおお、俺、何かの病気!?さ、流石に皆にこの年もなっておねしょしたなんて言えなくて…!」
バッビーノに言ったら殺される、とセオは今度は真青を通り越して真白になってラジュへと小声で叫んだ。
セオの言葉、もとい悩みを聞きながら、ラジュは小さく頷いた。それがまず肯定などではなく、ただの癖であることをセオは知っているので、その次の言葉をおとなしく、しかしどこか怯えつつまった。
「病気じゃない。大丈夫」
「…そ、そう?」
「下着、どうした?」
「隠してある…」
出せなくて、とぼそりと呟いた少年に、ラジュはくすと小さく珍しく笑い、セオの頭をローブから手をひょっこりと出してくしゃりとかき混ぜた。大丈夫、ともう一度ラジュは繰り返す。
「洗濯機に入れると良い」
「マンマ怒らないかな」
「怒らない。大丈夫。きっと喜ぶ」
ラジュの言葉にセオは怪訝そうに眉を顰めた。一体どこの世界にこの年にもなっておねしょをした子供を喜ぶ母親がいるだろうか。ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜるようにしていた手が止まって、ゆっくりと上に持ち上げられると、それはまたローブの下に引っ込んだ。
ごそごそと匍匐前進を少しして、セオはラジュに恐る恐る続きを問う。
「本当に、病気じゃない?」
「病気じゃない。次、同じことしたら」
「同じこと!?お、俺またおねしょ!?」
「あるかも。したら、一度水で洗って洗濯機」
大丈夫、とラジュはセオを安心させるように本日何度目になるか分からない単語を繰り返した。セオはラジュの言葉に、そうと一言返して、しかし不思議そうに顔を傾ける。
「ラジュもそういうの、あるの?」
「あった。夢精っていう」
「無性?性がないこと?」
「違う。夢に精子。睡眠中に射精する現象で、過剰な精子を体外に排出すること」
聞いたことのない単語の羅列にセオは困ったような顔をして、ラジュへさらなる解答を求めた。
「制止?」
「精子…生殖細胞。ここから、出る」
すとラジュは再度ローブから手を出して、自身の股間を指差した。そこに何があるかくらいはセオも知っているので、へぇと頷く。ラジュはもう一度、心配ない、とその言葉を繰り返した。
「体が、大人になってきてる証拠だから。気にすることない」
平気と呟いたラジュだったが、セオはまだ不安そうな顔をしている。そのさ、と小さな声がラジュの耳に届いた。青い瞳をずらして、ラジュはセオの銀朱の瞳へと目を落とす。一度その目はうろついて、今度は少し赤くなってからこそりと先程よりも小さな声でラジュへと言葉を届ける。
「い、いやらしい夢見たんだ」
「平気。セオ、男の子。普通。私もある」
「あるの!?」
朴念仁のような彼にそんなことがあるのかとセオは目を大きくして、思わず声を大きくした。ラジュはこくんと恥ずかしげもなく頷いた。驚きのために体を起こしたセオはその胸に自分の手を添えて、ほーっと一息吐いた。酷く安心した様子にラジュはこくんともう一度首を縦に振った。
「だから、気にしないでいい」
「でもおねしょ」
「おねじょじゃない。夢精。男の生理現象」
「…でもさ、パンツ洗うのはずかしいんだけど…やっぱさ、う、その、見られるとこう…これ、どうやったらなくなる?」
ゴニョゴニョと最後の方はかなりかすかになって聞こえないにも等しかったが、ラジュはその耳でしっかりとセオの声を捉え、そして一度だけ視線を彷徨わせる。ん、と小さく声を漏らすとセオの頭をポンポンと優しく叩いてようやく口を開いた。
「自慰。マスターベーション、オナニー。寝る前にしたら、大丈夫」
「…な、何それ」
「性器を持って、擦る」
「擦るって、えーと、こ、こんな感じで?」
そう言って、セオは手近にあった小枝を手に取ると、それと持って上下へ手を動かした。それにラジュは首を縦に振り、ん、と頷く。ずるずるとセオは地面を這ってラジュの側へと行き、耳元でこそこそと恥ずかしいのか囁くようにして尋ねる。
「気持ちいい?」
「個人差。ティッシュは用意する。人前ではしない」
「当たり前だろ!」
わぁ!とセオはラジュの言葉にカッと耳まで赤くして思わず叫んだ。そんな公共の面前でやるほど露出の趣味はないし、変態性もない。
セオはずるずるとまた地面に突っ伏して、それでも根本的な解決を聞くことができて心底ほっとする。起きた時に下着が濡れているのは気持ちが悪いし、それを人目を忍んで洗うと言うのもやはりどうにも恥ずかしい。オナニーね、とセオは思いつつ新しい知識に少し口元を引き締めた。しかしそれは、ラジュが次に発した言葉にぱくんと開く。
「絶対になくなるとは、言えない」
「…」
「確率が低くなるだけ。だから、ちゃんと洗うのがいい」
「…だ、駄目じゃん…それ…」
「駄目じゃない。体が正しく健康的に発育してる証拠だから、平気」
そんな医学的見解を述べられたところで、恥ずかしいものは恥ずかしいのである。がっくりとうなだれたセオにラジュは一度少しばかり考えて、ぽんとその肩に手を乗せた。セオのしょげかえった目がゆっくりとラジュの方へと向けられる。小さいころから変わってないと思いつつ、ラジュはこくんと頷く。
「平気。でも」
「でも?」
「ラヴィーナいるから、鍵はかけたほうがいい。見られてもいいなら、開けておく」
「閉めるって!」
慌てたセオにラジュは少し意地悪そうに目を細めた。
「でも、セオ。ラヴィーナとお風呂入ってる。裸見なれてる。見られてる。問題ない」
「そ、そう言うこととこういうことは違うの!いやらしいこと考えてないだろ!」
「セオも男。仕方ない。ラヴィーナに欲情した?」
「浴場?あ、違うか。欲情――――待て、しない!」
「間違い、よくある」
「ないって!」
「大丈夫、冗談」
「…」
からかわれた事実に気付き、セオははぁあと深い深い、どこまでも深い溜息をそこでついた。じとりとラジュを睨みつけたが、本人はどこ吹く風と言った様子で少し口元を笑わせている。普段は本当に表情変化が少ない彼だが、こうやって笑うことも、シャルカーンや自分の前では見せてくれる。セオは、それを少し嬉しく感じた。
が、しかし、本気で悩んでいる青少年をからかうのは褒められない。
「セオ」
「何?」
「下着、ちゃんと出しておくといい」
「…そうする」
なんだかよく分かったような分からなかったような、しかし取り敢えず自分が病気ではないことが分かったことと、それから応急処置のような解決策が見つかって、セオは一つ安心した。
そしてセオは、ラジュの隣にゴロンと寝ころがった。ラジュは何も言わず、何も尋ねず、また樹の一部となっていた。