哲とシルヴィオ - 5/6

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「榊」
「はい、組長」
「あの子の調子はどうだ」
 哲はその響きにわずかに顔をしかめたが、即座にそれを取り除いて元気にしておられますと続けた。今は奥様とご一緒に、と言うと組長は分かったと告げて、頷いた。そして哲は疑問に思う。
 息子の名前をどうして呼んでやらないのか、と。忘れていることはない。彼はあの子供を前にした時はきちんと名前を呼んでいる。ただ、その後に必ず決まりの一文とつけて。
「私の後を継がせる子だ。怪我などさせるな」
 そう。この定型文。
 これを毎日毎日聞かされている子供は一体どんな気分なのだろう、と哲は思う。哲には想像がつかない。そもそも分からない。家庭の事情で中学生の頃に家出をした人間だからだ。そして偶然組頭に拾われた。ただひとつだけ言えることは、それは決してあの子供にとって喜ばしい一言ではないことだ。
「お前が守役についてから、もう三年も経つのか。あの子はいくつだったか」
「今年で九つになります」
「そうか…あっという間だな」
 子供の年も覚えていない父親。
 そして哲はもう一つ知っていた。子供の母親はよく会いに来るものの、決してあの子供に触れようとしたところを見たことがない。腫れものでも扱うかのように、それでいて毎日毎日こう告げていく。「お父様の後を継げる立派な人間になりなさい」と。
 ガラスのように大切にされた子供は、そうやってあんな顔になったのかと哲はこの三年間で理解した。けれども哲にはどうしようもない。哲に会うまでの六年間という時間は長過ぎた。そして、その解決策を哲は知りもしない。
 結局やっていることは周囲と大して変わらない。ただ、「後継ぎなのです」という一言だけは言ったことがなかったが。それでも、子供が哲を見る瞳はやはり冷たいままだった。
「最近他の組で不穏な動きがある。父が隠居して三年…ここを潰すつもりがあるところは少なくない。よくよく守ってやてくれ」
「わかりました」
 そう言って、哲は頭を下げた。

 

 振りかざされたナイフを銃で落とすには、その距離は近すぎて、そしてその動きをいなすにも同様に近すぎた。そして咄嗟に取れる行動と言えば、小さな体をかばうようにして、目の前に自分の体を差し出すことだけだった。
 熱い。
 斜め下あたりからまるで熱された鉄棒でも当てられているかのような痛みが一瞬で走った。引き金を引く準備をその一瞬で済まし、ナイフを握り締めている男にまっすぐに向ける。そしてためらうことなく引き金を引いた。鮮血がぱっと飛び散って目の前の男と、そして哲自身も地面に倒れる。
 それでも哲はどうにかして体を持ちあげて、背後に隠していた子どもに目をやる。
「…ご無事ですか」
「何でかばった」
「?」
 冷たい声音に哲は思わず怪訝そうに眉を寄せた。子供は続けた。
「俺なんか助けなくてよかったのに」
 か、と頭に血が上った。
 なんだなんだなんなんだ。命を大事にしないやつがむかついた。自分が助けたからだとかそういう意味ではなくて、純粋に腹が立った。誰かに命を与えられ守られ望まれているくせに、自分から命を捨てようとする――――――――まるで、昔の自分を見ているようで堪らなかった。
 このクソ餓鬼、と言おうとして相手は「組長の息子」であることを思い出して、ぐ、とこらえる。そうこうしていると、他の組員がやってきて、哲を助け起こす。顔から流れ落ちていく血に布を抑えるように言われて、哲はそれを受取って顔に押し当てた。痛みなどこの怒りの前ではほとんどない。
 子供は哲に対して感謝も何もせず、ただ見ていた。冷たい、凍えた目で。腹が立つ。腸の煮えくりかえった哲の目を眺めながら、子供はそれ以上何も言わずに踵を返した。