哲とシルヴィオ - 1/6

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 初め見た時、なんて荒んだ目をしている餓鬼だと思った。
 この平和な国でこんなひでぇ目をしているやつに出会うことになるとは思っていなかった。ここはシチリアではないというのに。まるで冷たい路地に転がされた獣の目をしている。
 俺のそんな思考を引き戻したのは、老獪の声だった。
「哲、暫くお前にいろはを教えてくれるシルヴィオだ。こいつの爺さんとワシは親しい間柄でな」
 親しい、とはよく言ったものだ(実際に親しくはあるが)俺は自分の爺さんにこの男に会わされたとき、一目で思ったものだ、「この男とは関わりたくない」と。それを言ったら、爺さんは一言そうだな、と返した。だができた縁は仕方がないと冷たく笑われた。爺さんは俺の傍から離れ、俺の目の前に餓鬼を残した。
 荒みきったその両眼は目の前のモノを如何に喰い殺そうかと己が内で相談しているようだった。そしてその相談が済んだのか、青年は口角に貼られた絆創膏に皺を寄せながら声を発した。
「俺にいろはいらねぇ」
 なんとも生意気な。俺は鼻で笑い飛ばしてやった。すると青年はざんと足を踏み出して拳を俺に繰り出す。想像以上に速い、けれどもこんなものは子供の喧嘩の域にすぎない。拳をいなして、つと背中を押し出せば、青年は意外にあっけなくこけてしまった。
「おいおい、いろはを教える手前の段階でもねぇじゃねぇか。坊主」
「…うっせぇ」
 殺気すら滲んでいるその歪んだ瞳の奥には何も見えない。どうしてあの老獪がこの青年を自分と引き合わせたのか、それが気になる。
 そんなことを考えながら殴りかかってくるその攻撃をひょいと軽くかわして、足をひっかけてまた転がす。しかし今度は立つことを許さない。頭を踏みつけ、青年を見下す。足と地面の間から覗く一つの瞳が喰い殺さんばかりに鈍い光を放っていた。
 死んでいる。
 そう感じる。この青年はすでに生きることを放棄しているのだ。
 何のために生きているか分からないくせに、そのくせ意識が途絶えるのを嫌がっている矛盾を抱えている。死にたくないと叫んでいる割にはもう心が腐ってしまっている。同じ、と思ったが違った。
 こんなひどい目はシチリアにもいはしない。これならシチリアの方が随分綺麗で好感が持てる。あいつらは死のうなんて思っていない。死んだような世界の中で、生に喰らいつく目をしているのだ。こんな胸糞悪くなるような目ではない。
「その汚ぇ足を退けろ…っ」
「てめぇの目よりは綺麗な足だぜ?」
「うる―――――――――がっふ、」
「口のきき方には気をつけな、坊主。それ一つで首が飛ぶ」
 腹部に爪先をめり込ませ青年を仰向けに転がし、その胸の上に足を乗せて肺を圧迫する。ぐふ、と息が零れたが無視を決め込む。両腕が足をのけようとそのズボンに爪を立てたが、左程気にするような事象でもない。胸ポケットから煙草を取り出して、ライターでそれに火をつけた。煙をくゆらせる。
「自己紹介はさっきあの爺さんがしてくれた通り、シルヴィオ・田辺だ。はい、餓鬼んちょ、てめぇは?」
「てめぇなんかにい、がっぁふ!」
 胸に乗せた足に力を込める。煙を細く吐き出して、青年の顔に吹き付ける。吐き出された分の酸素を取り込もうとして吸い込んだ空気に煙が混じり、青年は数回せき込む。そしてその瞳でこちらを睨みつけてくる。
「はい、ワンスモアプリーズ。英語は通じるんだろ?」
「…。は、ぁっ、ぅぐ!」
「ONECE MORE PLEASE」
 威圧をこめて今度は告げる。これは頼みなどではなく、すでに命令と化している。青年の目が大きく見開かれてすっと息を呑む。
 ゆっくりと喉が動いて言葉を口にした。
「榊…哲」
「ほい、よーくできました」
 胸の重みをのけてやる。青年は胸を押さえて上半身を起したが、もう向かってこようとはしなかった。実力の差を野生の獣のように理解したようだ。俺はゆっくりとしゃがんで青年と視線を合わせ、その顔に煙をまた吹きつける。そして笑ってやる。
「ま、短い間だけど仲良くやろーぜ?」
 哲坊、と俺は言った。そして青年は喰い殺さんばかりの目をやはりこちらに向けた。

 

 差し出された救急箱に哲は警戒心をむき出しにしてシルヴィオを睨みつける。触るな、といわんばかりの誇り高い獣にシルヴィオは肩を小さく竦めて、まぁ落ち着けと一言放り投げた。
「取敢えず手当てしとけ」
「…」
「返事は」
「うるせぇな」
 強い口調を煩わしいと言わんばかりにはねつけて哲は差し出された救急箱を奪うようにして取る。否、取ろうとした。救急箱を取ろうとしたその手はすいと空をかき、勢いよく出した分だけ態勢が崩れた。
 一体どういうつもりかとシルヴィオを睨みつける。けれども睨まれた張本人はどこ吹く風である。おい、と言おうとして哲はすぐさま地面を蹴ってシルヴィオから距離を取った。その判断は正しく、先ほどまで自分の頭部があった場所に皮靴が飛んでいた。あれが当たれば否応なく地面とキスをする羽目になる。
 シルヴィオの深い青緑の瞳がすぅと音もなく動いた。
「年上には敬語、常識な」
「てめぇに敬語を使ういわれはない」
「センセーにそういう口のききかたは関心しねーな」
「いつてめぇが俺のせごっ…ぁぐ…っ」
 いつの間に動いたのか、重いしっかりとした足が哲の腹部に埋め込まれる。直撃をまともに受けて呻き、そのまま横倒しになって胃の内容物が吐瀉物にとってかわった。口内を胃酸のすっぱさに焼かれながら哲はげほ、ともう一度吐き出した。
「…っ、とんだ、暴力教師だ…っ」
「暴力生徒にゃぴったりだと思わねーか?」
「それで洒落たつも―――――…り、ですか」
 哲は一瞬だけ見た、その殺気ともとれる瞳の色に言葉じりを訂正した。その返事にシルヴィオは、まぁ合格ってところかと及第ぎりぎりの合格点を出す。そして煙草を落として靴で踏み消す。にやと笑って哲を見下ろす瞳に先程の色はもうない。
「まーったく、どこをどう間違ってこんなひんまがった性格になったんだか」
 その言葉にぴくりと哲の体が強張って、次の瞬間渡された救急箱はものすごい勢いでシルヴィオに向って投げつけられた。当然避けたが。ふーっふーっと短い呼吸を繰り返し、二つの瞳がまぎれもない怒りを伴ってシルヴィオに向けられていた。
 開かれた口から覗く鋭い犬歯。雄たけびにも聞こえる叫び。
「てめぇに俺の何が分かる!!!」
 ありきたりな言葉にシルヴィオはすっと瞳を細め、哲を見下す。こきりと首が動いた。
「分かるわけがねーだろうが、俺はお前じゃねーんだよ。まあもし分かったところで俺は理解したくないね。暴力の次は責任転嫁か、情けないにもほどがあるぜ?」
「うるせぇ!!」
「怒鳴り散らすのはやめろよ」
 立ちあがった哲にシルヴィオは冷静にそう告げた。爛爛と光放つその目にうんざりしたように溜息をつく。
「粋がってんじゃねえよ、餓鬼。拳ふるってまわり踏みつぶしてそれで理解してくれなんざ甘ったれンのもいい加減にしやがれ。その態度どうにかしねえ限り誰もてめぇなんざ見やしねえ。後ろ向いていじけるんなら迷惑かけねえように一人でやるんだな」
 その言葉に哲は拳を痛いほど握り締める。
 今までぶつけていた力が一切通じない相手に正論を述べられてはぶつけるところがない。心の中でただ怒りだけが、わだかまりだけがとどまるところを知らずに膨れ上がっていく。
「てめ、ぇ…っなんか、に!」
「なんかってことは俺はてめぇよりも下か。少なくとも俺はてめぇみたいな周りも自分も見えてない餓鬼よりかは人間できてるぜ」
 ぐっと哲は言葉を詰まらせる。黙りこんだ哲にシルヴィオは告げた。
「変われ、哲坊。俺が手伝ってやっから」
 ほら、と再度差し出された救急箱に哲は顔を歪めて、泣いた。