哲とシルヴィオ - 4/6

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「え、」
 哲はそんな素っ頓狂な声を上げた。目の前の老齢の男は何を言っている、と告げた。そして、酒を飲みながらもう一度繰り返した。
「シルヴィオならば今日イタリアに発つ。聞いておらんかったのか」
「…いえ、何も…」
 ぱちぱちと哲は瞬きを繰り返す。
 盃の儀が終わって、こうやって宴会を広げている中、哲は組長の前に、大地の前に膝をついていた。自分をこの組に引き入れた男は悠然として、もう一杯酒を煽った。そしてお前も飲むか、と哲に差し出す。しかし哲はそれを受け取らずに、尋ねた。
「田辺氏は、まだここに…」
「おらん、今頃空港だろうな。出発は暮六つだと言っておったが」
 哲は慌てて腕時計に目を落とす。そして即座に立ちあがって、どこに行くんだ、という声を振り切って外に飛び出した。
 適当にはいた皮靴の踵をつぶしてしまう。少量ながらも酒を飲んでいたので、バイクを運転することはできない。道路に飛び出してタクシーを止める。
「空港まで!急いでくれ!」
「あ、は、はい」
 非常に慌てた様子の哲に運転手の方が驚いて、アクセルを踏む。時計を見ながら、哲は一つ舌打ちをした。
 何もかもあの男は一人で決めてしまって一人でどこかに行ってしまう。自分が感謝をしていないとでも思ったのだろうか。感謝くらいしているのだ。礼の一つも言わせずにふらりと消えてしまうなんて、許しはしない。
 タクシーが空港前に止まって、哲は時計を再確認してから運転手に二万円を押しつけた。おつりの時間を惜しんで哲はそのままタクシーを飛び出した。運転手がお客さん、と呼んでいたが、それを無視して自動ドアをくぐる。蛍光板を確認して、ゲートに走る。まだ時間的には間に合う。あの目立つ容姿をしていれば、すぐに発見できる。
 いた。
 哲の目がシルヴィオの姿捉えた。
 そして、そちらに向かってかけて―――ドロップキックをかました。もっともそれは華麗によけられたが。シルヴィオは振り返って、目を丸くする。
「なんだお前、宴会抜け出してき
 最後まで聞かずに哲はぎんっとシルヴィオを睨みつけて、その胸倉を乱暴につかむ。そして乱暴に怒鳴った。肩で数回息をする。
「てめぇ、なんで俺に何も言わないんだ!!」
 ぎりっと歯を食いしばって、哲はさらに怒鳴る。シルヴィオはそんな哲を見て、ぱちぱちと瞬きをした。いい年をした男が少し涙目で、唇をきっと一文字にしてしまっている。
「俺はな、変えてもらったんだよ!今まで知らなかった世界をみんな、あんたが教えてくれた!!馬鹿にするなよ…っ感謝くらいしてんだ!それなのに、何も言わずにふらっと消えちまうなんて…ふざけんな!このやり逃げ野郎!!」
 怒鳴る哲の台詞にはいささかまずいものがある。少々周囲の視線が痛い。
 シルヴィオはこれ以上の発言はこれから乗る飛行機でかなり痛い視線を向けられると思って、容赦なく哲の頭をぶん殴った。思いっきり殴られて哲はたたらを踏むことになる。きっとまた睨まれて、シルヴィオはため息をつく。
「残念だが俺はそっちの趣味はねぇぞ」
「…そっち?」
「…もういい。お前それ以上言うな。俺がいらねぇ誤解を受ける」
 怪訝そうな顔をした哲にシルヴィオはがっくりと肩を落として顔をその手袋をした手で覆った。全くものを知らないやつはこれだから困るのである。あのな、とシルヴィオは続けた。
「別に一生会えねぇわけじゃねーだろ。俺はあの爺さんに言われてた仕事をこなしたからイタリアに帰るだけだっつーのに、何スーパーで置き去りにされた餓鬼みてーな顔してんだ、哲坊」
「ざけんな!誰がするか!」
「それになぁ、お前」
 ぎんっとシルヴィオは目を開いて上から哲を睨みつけた。それに哲の頬がわずかに引きつる。シルヴィオはまるで地を這うような恐ろしい声で続けた。
「敬語はどうした、敬語は…あぁ?俺の一年を泡にしてくれるようなことしてんじゃねーぞ…」
「い!!!」
 みし、と根性焼きを喰らって哲は久々の痛みに悲鳴を上げた。シルヴィオは再度ため息をついた後、そして哲の頭をぐしゃぐしゃとなでる。
「仕事が終わればようもねーのに俺がここにいる必要はねえ。分かったな。それと、だ」
「?」
「俺はな、男に迫られる趣味はねーんだよ」
「…」
「お、搭乗開始だな。まぁ、宴会ほっぽり出して見送りにまで来たお前の俺への愛情は受け取っといてやる。いつか返してやっから何かあったらそこに電話しろ。お前がよこした相応の仕事はしてやるよ」
 電話しろ、とそう笑ってシルヴィオは哲に背中を向けた。そして何事もなかったかのように歩きだす。哲はそれにはもう何も言わず、黙って頭を下げた。
 手には、シルヴィオの電話番号が書かれた紙がおさまっていた。

 子供の世話などしたことがない。そもそも子供は苦手である。泣いて叫んで喚いて笑って怒って。とにもかくにも騒がしい。
 そう、思っていた。目の前の子供に会うまでは。と、そんなことを思いながら、哲は目の前の笑わない子供に視線を落とした。
 ひどく冷めた目をして、今日も小難しそうな本を読んでいる。六才。六才の子供がこんな顔をしていていいものだろうか、とそんな風に思う。義務過程も実はまともに終了させていない自分だが、六才の時はそれなりに(もっともその頃からひどく荒れてはいたが)感情を人にぶつけたりしていた(その結果家を飛び出したわけだが)
 不気味なまでに冷めきったその目を見ながら哲は正座を崩さないまま、心の中で小さくため息をついた。
 先日、組頭が哲にこの孫の世話を哲に預けて、そして頭の座を現在の組長に譲って隠居してしまった。驚くほどにあっさりと。尤も、その組頭も哲が来る前からほぼ隠居していたものだったらしい(シルヴィオ曰く)ただ頭の位置だけはまだ譲っていなかったようで、哲をそこに据えると納得したかのように隠居してしまったのだから、忙しい。
 自分を拾ってくれた恩義ある男だが、やはり良く分からない。シルヴィオは気を許すなと哲に警告はしていた。
 そして哲はまた子供に視線を戻す。
 物静かな、というよりも自分以外の全ての世界を拒絶してしまっているかのような子供である。いくら後継ぎだからと言っても、こんな感情の起伏のない子供を預けられても困るのだが。困った、と哲はまた溜息をついた。
 それに組頭が禅譲を待ってまで自分に渡した理由もわからない。一体どのような意図があったのか。シルヴィオから哲は憶測だからとその情報はもらえなかった。
「おい」
「…あ、はい。何でしょうか、坊ちゃん」
 そこでようやく小さな影が目の前に落ちているのに気付く。
 子供は相変わらずの冷めた目で哲を見下ろしていた。そして本を投げる。哲はそれを顔に当たる前に受け止めて、畳の上に置く。
「読み終わったから、他の本持ってこい」
「どのような本が、よろしいですか」
「どんな本でもいい。時間がつぶせるなら、それでいい」
「外に出てご学友と遊ばれたりは、されないのですか」
「うるさいな。俺は本が読みたいんだ。それに、」
 それに、と言ったが、その声はもう続かなかった。代わりに本、と短く命令をされる。哲は二つ返事をしてその場を後にした。そんな毎日が繰り返される。